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前回、ノッターさんのご著書を論点整理しながら、欧米のプロテスタントたちが確立した狭義の意味での「ロマンティック・ラブ」が日本において成立したことはなかったということを論じてきました。
今日は、その狭義の意味でのロマンティックラブとはどのようなものなのかを明らかにしましょう。
自身もクリスチャンである橋爪大三郎氏の『性愛論』(1995)および、引き続き、ノッター氏の本から、プロテスタントにおける「ロマンティックラブ」とは何か、その原則を明らかにします。
1.第一に神への愛、第二に夫婦間の愛
夫婦間の愛が、神への愛より優先されるようなものであってはならないが、しかし同時に、夫婦間には愛がなければならないとも考えられていた。愛のない結婚は、神の意志に反することである。ピューリタンたちにとっての「救済の条件は、内面の信仰にある」。「性愛関係を形作る内面性——愛——は、この信仰の妨げとならない、調和的なものである必要がある」(橋爪1995:160)。
2.愛によって結婚が聖別され、結婚によって性が聖別される。
それゆえに愛に基づく結婚と、結婚内での性が正当なもの。
・愛→結婚:愛の行き着く先が結婚。結婚は愛情を実現する至上の形態であり、愛情が婚姻を正当化する。
→だから、「愛情の存する限りで婚姻は正当なものとなり、是認に値する。そうでない結婚は、「不幸」であり、「偽善」であり、人間性に対する冒瀆でさえある。」(橋爪 1995:167)
・愛が結婚を聖化し、結婚が性を聖化する。
→だから、婚姻外の性や、愛のない性は、人格に対する冒瀆と考えられることになる。
・ちなみに、プロテスタントにおいては、結婚は秘跡ではなく、俗事に属することがら。橋爪さんが、以下の部分を引きながら、そう論じている。「1656年、ピューリタンは、宗教的儀式に依らない届出結婚を義務付けた。 ・・・結婚するためには、結婚するぞと宣言して、手を握りしめさえすればよかった」(テイラー『歴史におけるエロス』(1953=1974:206))。そのぶんだけ、カトリックのように結婚という外形的制度ではなく、内面的な「愛」が夫婦間にあるかどうかが重視されることになる。婚姻という法的制度的な関係性よりも内面的な愛を重視するのがピューリタンの特徴。
・そもそもじゃあなぜ愛が聖なるものとしての価値を持つのかといえば、それは純潔/冒瀆という二分法が近代に成立し、肉体を伴わない魂の「愛」が聖なるものとして価値化されたからなんだろうが、このあたりになってくると「神への愛」や「神からの愛」(カリタス/アガペー/エロス)の領域に踏み込むので、私はよくわからない。
3.「運命の相手」神話+ひとめぼれ神話
・ピューリタン(カルヴァン派の予定説)の教義は、未来が現在を規定する力を持つという構造をとる。すでに決定されている未来があるとするのが予定説。ロマンティクラブにおける「運命の相手」という考え方は、「きわめてピューリタン的」である(ノッター p.151-152)
・運命の相手に出会った時には、ひとめ見ただけで、相手が「運命の相手」だということが分かると考えられている。
以上。
こうまとめてくると、日本の恋愛結婚においては夫婦間の愛が継続されなければならないみたいな、内面の愛規範がそこまで強くないというのが、プロテスタントのロマンティックラブとの違いかなぁ。そのあたりが、キリスト教圏での「不倫率」の低さ、日本での高さという違いになっているのであろうと思われる。しかし、それ以外は、実質的に、現在そこまで全然違うことをやっているようにも思えないなぁと思った。