ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

「アイポリだからダメ」という批判は底が浅すぎるのでは、という話—ネグリ&ハート『アセンブリ』第4章のポピュリズムに関する議論の検討から

ytakahashi0505.hatenablog.com

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上記の続きですが、このエントリー単独でも読めます。

引き続き、読んでいる本はこれです。

アセンブリ 新たな民主主義の編成

階級闘争かアイポリか」から「再分配か承認か」へ(フレイザー&ホネット)
左翼運動は19世紀後半から20世紀前半にかけての階級闘争(労働運動)から、20世紀後半のアイデンティティ・ポリティクスへと整理されることが多いです。それまでは労働者階級がその階級的連帯に基づいて労働運動を行ってきたが、20世紀後半には反人種差別運動、民族解放(民族自決)運動、フェミニズム、性的マイノリティ解放運動などのアイデンティティに基づき、その差別的状況に異議申し立てをする「新しい社会運動」が広がったというまとめ方です((ただし、この1969年からの「新しい社会運動」にはエコロジー運動や反グローバリズム・反資本主義運動などもあるので、アイデンティティに基づいた運動だけになったというわけではないのですが))。。
この階級闘争からアイポリへという定式化は、フレイザーとホネットの『再配分か承認か?』 (叢書ウニベルシタス, 2012)論争などでも基本的な理解として共有されています。ホネットが「承認」をめぐる闘争の重要性を主張し、フレイザーは「承認だけでなく再分配も重要」と主張した論争です。「論争」とはされていますが、結局のところ両者ともに「相手の話はまぁ納得はできるよね」という地点にたどり着いているように見えます。したがって、この論争(および本)は、フランクフルト学派の系譜に位置する二人が協働で批評理論の現代的有効性を指し示したものだと、私は思っています。
ちなみに、フレイザーは「現在時点での落としどころ」を見つけるのがうまい理論家です。ジュディス・バトラーとベンハビブの論争(これはどこまで行っても平行線をたどって両者が分かり合うことがなかった論争でした)でも、フレイザーは両者の論点をくみ取った、現実的な良い整理をしています。

Feminist Contentions: A Philosophical Exchange (English Edition)

それはさておき。

まとめると、フレイザーとホネットの『再分配か承認か』とは「階級闘争からアイポリへ」という教科書的整理を再考して、「財(雇用、経済力)」と「社会的承認(権威、名誉、社会的に下位化されないこと)」の二変数で運動のあり方を整理する図式を提示したの議論だったと言えます。
アイデンティティと結びついた所有
さて、このような既存の議論の文脈を踏まえた上で、ネグリ&ハートを見てみましょう。かれらは主に欧米の右派ポピュリズム(白人労働者による排外主義的・ナショナリズム的・人種差別的ポピュリズムのこと)を分析しながら、右派ポピュリズムにはアイデンティティと結びついた所有というあり方」があると指摘しています。すなわち、白人というアイデンティティに依拠して財(雇用、経済力、富)や社会的承認(権威、名誉)を要求するのが右派ポピュリズムだという議論です。
「(右翼)ポピュリズムアイデンティティへの愛(私たちの見るところ、政治的愛のおぞましくも破壊的な形態)に根ざしているのは紛れもない真実だが、アイデンティティの背後には所有権が潜んでいるのだ」(p.82)
アイデンティティは所有権への特権的な権利とアクセスを提供するものである」(p.83)
「この難題(右翼ポピュリズムとは何かという問題)を解きほぐすための一つの方法は、右翼ポピュリズムにとって本質的な所有(所有財産・所有権)という線を辿ることであるが、その線全体に人種的アイデンティティが染み込んでいる」(p.82)
このように、ネグリ&ハートはアイポリというのは「アイデンティティに依拠した正当な所有の権利」を要求するものであり、アイデンティティと所有とが密接に結びついている運動なのだよ、ということを指摘しています。これまで、「経済問題(階級闘争)か承認の問題(アイポリ)か」—さらに言えば、これは下部構造か上部構造かの二分法の発想に基づいているわけですが—という形で議論されてきた文脈に対して、「いや、アイポリというのは、アイデンティティに結び付いた所有の問題なのだよ」という指摘をしています。これは新鮮ですし、重要です。
上記の引用箇所前後でのネグリ&ハートの主要内容というのは、白人というアイデンティティに基づいた右派ポピュリズムは、そのアイデンティティを根拠にして財(所有)や承認のより多くの分配を要求するものだが、それを社会的正義と捉えることはできないというものであす。もう一歩、言うならば、ネグリ&ハートの主張は、そもそも私的所有(という財の分配)を求める運動自体を克服する必要があり、「社会的所有による平等な安心の確保(生活基盤の確保)」という方向へと社会制度を変えていく運動を目指そうよ、というものです。
 
これらは基本的にけっこう納得できる話だと思います。少なくとも私は納得しています。このような議論を受けて、ここでさらに考えてみたいのは、フェミニズムや反人種差別運動もまた、ある意味では「アイデンティティを根拠にして財(所有)や承認のより多くの分配を要求するもの」だったのではないか?ということです。
もちろん、フェミニズムや反レイシズム運動の主眼は、アイデンティティの正当な社会的承認を回復することです(だから、具体的には、女性が社会的に表象されるときには何かと性的なものと結びつけられがちという社会的な意味の秩序のあり方や、「性的存在としての女性」が下位化されがちな文化的コードのあり方を「性差別」として批判し、それを通した女性解放運動をしてきました)。ただし、同時にリベラルフェミニズムを中心として、リベラリズムの原則に基づきながら、属性(アイデンティティ)に結びついて成り立ってきた財の分配の不平等性を告発をしてきたのも事実です。現在だと、女性管理職率や女性国会議員割合の低さ、女性大統領率の低さを「性差別」として社会問題化するジェンダーギャップ指数的発想がその典型例です。
その意味で、近代の間ずっとアイデンティティはある財へのアクセスへの正当な権限を成立させる論理として機能してきていたといえます。
 
だから、右派ポピュリズムの問題点を批判しようとするときに、「アイデンティティに依拠して財への正当なアクセスを要求する」という論理自体を批判するのは、有効ではありません。左翼運動も含めた階級闘争、アイポリの社会運動がこの論理で動いてきたので、単純に言って、これを批判すると現在の左翼運動も不可能になります。
・右派ポピュリズムの批判すべき点は、アイデンティティに結び付いている財という原理に基づいた相対的剥奪感によるポピュリズム運動が展開されており、排外主義やナショナリズム、自民族中心主義を動員し、そこからエネルギーを得て運動を展開しているところです。
 
財の公正な分配を社会的正義とするリベラリズムの原則の下では、アイデンティティが所有と結びついて「正義」を主張し、正義を求める社会運動はアイデンティティポリティクスになるという論理があります。だからこそ、リベラリズムの原則が右派左派問わず受け入れられている現在、アイデンティティポリティクスが隆盛を誇っているのであります((・エコロジー運動は本来、アイポリにはならないはずですが、グレタの下に「若者」が集って、学校ボイコットをするなどの活動をしており、将来を担っていく「若者」というアイデンティティに基づいた運動の形をとって盛り上がりました。このようなあたりからも、やはりアイポリは現在のポピュリズム的な社会運動の主流形式であると言えるように思います。そして、個人的には、これからもまだまだ、あと30~40年くらいの間は、アイポリが主流になって多くの社会運動が展開されるのではないかと思います。))。
 
ということで、右派ポピュリズム成立後の、#MeToo的な左派ポピュリズムも含めた現在の社会運動の状況を冷静にこのように捉えるならば、まずは「財の分配」をも求める運動(かつて階級闘争とよばれたもの)をも含むより包摂的な概念」として「アイデンティティ・ポリティクス」を考え直す作業が現在の喫緊の課題なのではないでしょうか。
・私がここで勝手に言い始めている「包摂的なアイポリ」は、おそらく最終的には、ほぼネグリ&ハートの言う「マルチチュード」と同じようなものになると思うのですが。
 
ちなみに、ポストモダン思想を潜り抜けた左翼知識人の中には、「アイポリだからダメ」というお題目をくりかえして思考停止している人が多数います。なぜ「アイポリはダメ」なのかというと、だいたい理由は2つくらいで、第一に、「アイデンティティ」とは社会的構築にすぎず、形而上学的実体であり、唯物論的立場を取る(べき)左派論者としては、「アイデンティティ」なるものを議論の基盤として取り入れるわけにはいかないから。
第二に、アイポリをする集団は、集団内部に対して同質化・均質化圧力をかけがちだから、です。(集団内部への均質化圧力の反動として「集団外部に対してむやみに強固な敵対性の態度を強めがち」というのも、私個人としては大きな問題だと思うのですが、既存の左翼運動の理論ではその点は、あまり問題視されていないようです。ラディカルデモクラシーが「敵対性」を戦略として重視してきたという文脈なども関係しているのかもしれません)。
(・この理由の議論のところ、出典引けよ!って感じですが、すいません、また今度。いまは急ぎなので……。)
 
しかし、まず、第一の点に対する反論ですが、
アイデンティティは「形而上学的実体である」とか「虚構である」とか言って済ませられる人というのは、その人がマジョリティで、アイデンティティに関する痛みを抱えずに済んだからなのではという気がします。
アイデンティティというか社会的属性(アトリビュート)といった方がいいかもしれませんが、その属性をもって生まれてきてしまったがために、その属性を自らの「アイデンティティ」として引き受けた上で生きてこざるを得なかった人にとって、アイデンティティは「虚構」などではありえません。一歩ゆずって「虚構」なのだとしても、それは痛みを伴い、苦悩をもたらし、人を死に追いやるような現実的な力です。今のところ私は、そのような「私が私であることを認めてもらえない傷つきの感覚から成る、自分が守るべき何か」を「アイデンティティ」と呼ぶ以外に言葉が見つかりません。
アイデンティティ・ポリティクスといった時の「アイデンティティ」とはこの意味で考え直す余地があるのではないかというのが、私(=高橋)の立場です。
 
つぎに、第二の点に対する反論で、これは上記のような「アイデンティティ」理解を踏まえた話になります。ここで私が言っている「アイデンティティ」というのは、原理的には、個人ごとに異なるようなもの(ゲオルク・ジンメルの言う「個性的法則」のようなもの)です。これは、女性という社会的カテゴリーでくくられる人たちと共有できる「部分」を持ちますが、全面的に理解し合えるわけではありません。さしあたり「女性」属性で連帯できる人とも、違いはいくつもあるからです。同様にして、現在さしあたり「集団外部」の人と私からは見えている人とも、共感でき連帯できる「断片」があるかもしれません。その人とじっくり話してみることで、連帯できる部分は明日にでも見つかる可能性があります。
アイデンティティ」および「アイデンティティに基づく連帯」をこのようなものとして理解するならば、アイデンティティに基づく政治は、集団内部への均質化要求や集団外部への排他的敵対性という形を取りえない。
このように、真に個別的なアイデンティティ——それは個人単位のこともあるし、集団単位で形成される「アイデンティティ」であることもあるが——という考え方を取る場合、あんいに「アイポリだから良くない」とは言えないということになります。
 
MeTooというのは、この痛みによってつながった運動だったというところが重要です。それはバトラーの言うヴァルネラビリティに基づいた連帯でした。バトラーは、痛みうる有機的身体を持ち、かつ根源的なよるべなさ(生まれたときに他者のケアを受けなければ生存できないこと)を抱えた社会的動物である人間が持つ、存在条件としてのヴァルネラビリティこそが倫理が立ち上がる場であると論じていました。
性暴力という存在に対する暴力に対する痛みで連帯して作り出されたのが#MeTooだった。
だから、#MeTooをアイポリだから良くないとし、それ以上考えずにすませてしまうような議論は底が浅いし、もったいないのでは、と思います。