ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

ルーマンの『情熱としての愛』まとめ

 最近また読み直したので、まとめておこうかなと思い立ちました。ページ数は木鐸社版の『情熱としての愛』(2005、佐藤勉村中知子訳)です。

1.ゼマンティク分析とは

 ルーマンがこの本でやっているのは愛のゼマンティク分析です。
 そもそもゼマンティクというのは、その社会が備えている思想財Ideegutのことで、或る社会の中で人がコミュニケーションをするときに使っている解釈枠組みの一式(セット)のこと。ある時代・社会におけるある事柄にかんする一般的な解釈枠組みは変化していくので、それを描き取りながら、その変遷を捉えようというのがルーマンのゼマンティク分析であります。ゼマンティクは意味論と訳されたりもします。
 ルーマンが持っている大前提は、「成層的分化から機能分化へという社会構造の編成に伴って、ゼマンティク(思想財)は進化し変化していく」というものです。このことを、各ゼマンティクを見ながら実証しつつ具体的に明らかにしていくことが、ルーマンの長大なゼマンティク論の目的と言えます。
 というわけで、分析が集中するのは、機能分化が起こった17世紀~19世紀頃。 各領域ごとに、いつ機能分化が起こったかや、機能分化によるドラスティックなゼマンティクの変化がいつ起こったかは少しブレがあるので、17世紀~19世紀と幅のある表現になります。社会の機能分化は漸次的に起こるものでもありますし。
 ゼマンティクの変化はおもにコードの変化として特定され、記述されています。というわけで、以下は愛のコードの変化をまとめます。

2.ルーマンが特定したゼマンティクの変化

理想化
 成層分化社会では、愛のコードは「理想化」だった。すなわち、たぐいまれなる性質である美や徳や富といった理想的要素を備えているから愛するのが、この時期の「愛」。だから「噂だけで愛することができる」。このような愛は階級限定的な愛であり、誰もが実践できる(もしくは実践することを期待されている)民主的な愛ではない。
(*ルーマンは言っていないけど高橋が勝手に付け加えると、この時期の愛する主体は騎士階級の男性で、「自分よりも身分の高い高貴な階級の女性」を愛の客体としたのが、理想化コードのもとでの愛。ここでは「異性だから愛する」のではなかったことが重要。高貴な階級の一握りの女性だけが愛の対象であり、下層階級の女性は「愛」の対象ではなかったので。「異性」という性別が愛の理由になる異性愛主義が出てくるのは19世紀。)
 →もしいまでも「ある『身分』の人やある特定の諸条件を備えた人しか恋愛をすることができない」というような恋愛理解を持つことがあるとしたら、それはこの時期に作られた理想化コードに基づいて愛を理解しているからであります。
 
パラドックス化(とくに「情熱」が主要コードに) 
 機能分化社会になり、それに適合した愛のコードが発達し始めるのは1660年~1700年にかけて。ここでコードがパラドックスを処理できるような高度なコードに進化しました。おもに「情熱」がそのコードになります。
 パラドクシカルなコードになることの意義(よさ)は、
「そのコードが指針としている行動はその意味に関連づけられたものとして分類され、同時にそうした意味から自由なものとして描写される」(p.76) 
ところにあるらしい。つまり、ある行動が「情熱」によるものだと理解されるようになることで、その行動は「愛に関する行動」だと関連づけられるけれども、その行動の意味は一義的に決まらない、ということが可能になる。これによって、愛はより複雑なコミュニケーションを処理できるメディアとして進化していく。
 ルーマンは、愛のコードのパラドックス化によって、愛のコミュニケーションは分出すると繰り返し述べています。例えばこんな感じです。
基本的なパラドックスを強化しあらわにすることは、コミュニケーションメディアが分出するためのきっかけとなる。(p.73)
 ルーマンの議論では、シンボリックメディアはパラドックスを処理できるようになると、分出するという論理になっています。ルーマンはシステムが分出したり、メディアが分出したりすると、なんだかとっても嬉しそうです。なぜならそれによって「機能分化社会」になっているということの証拠を押さえられたからであり、具体的なコミュニケーションや言説を追いかけながら「この時期のこのような言説において、愛というメディアが分出している!」と具体的に特定できているから、本人はとっても嬉しいのだと思います。
 でも、「何をもって分出したと言えるのか」という基準がいまいち明瞭ではないので、度々「ここで分出している!」と嬉しそうに言われても、「へー、分出したんだねー」としか言いようがない......よね…...と思っているのは私だけではないでしょう。
 
 まぁ、そんなこんなで、だから、ルーマンは愛のパラドクシカルなコードのあり方を、とっても重要視しています。とくに愛のパラドックス化を生み出すのに貢献したのが「情熱」というコードです。
・情熱はもともと受動的に苦悩している精神状態を意味しており、「受難としての情熱」という意味合いを帯びているが、主体的能動的な愛のことも指す概念になった(17世紀に)
・愛は「不安定であることが安定的」(p.78)

・憎しみもまた愛の一部として享受される

・愛は「征服しつつ服従してしまうこと」

・愛は切望された苦悩、甘美な苦悩、選好された病気(p.93)

などなど。このあたりの愛のパラドクシカルな定式化は読んでいると本当にムカついてくるし気が滅入ってくるので、ちょっと真面目に書く気が起きません(また今度、精神状態のいいときに追記しようと思います)。

*私が何に気が滅入っているのかというと、このような、人をけむに巻くパラドクシカルな愛の定式化によって、愛の関係における男性優位性を見えなくしていることです(詳しくは注にします*1)。
 戻ります。この情熱コードは、19世紀の「ロマンティックラブ」という愛のコードの確立のさいに召喚され、この17世紀的文脈とはちょっと異なる形で用いられます。
 
18世紀の友愛礼賛 

 18世紀(1701~)には愛のゼマンティクの進化は停滞します。なぜなら、この時期は友愛礼賛が起こり、愛ではなく友愛の方が価値が高いと見なされる潮流が強まったからです。友愛とはfraternityのことで、フランス革命1789年のスローガンの一つ。自由、平等、友愛!(当時、フラタニティは家父長との絆に抵抗するための男性同士の兄弟愛のことを指したということは、しっかり記憶しておきましょう。だから、フランス革命後の憲法の「市民」に女性は含まれていなかったわけですね。)

 友愛がなぜ良いと当時考えられたのかというと、第一に、友愛は度を越したふるまいや苦悩といった情熱的な要素が不要であり、確かさや楽しさという色合いを帯びているから。
 第二に、友愛の方が、愛よりも
・持続を求めることが容易であり、

 

・性的関係に踏み込むことなく、それを望まない二者関係でも成立可能 

で、時間的・社会的な一般化が可能であるから。

 つまり、友愛(フラタニティ)は絶対王政後の新たな社会的連帯を形成するときに重要な役割を果たす理念だったんだね、と言えると思います。

 注目したいのは、このような友愛重視は、センチメント(感情)を重視するものであり、細かい心遣いや優しさ、弱さ、優柔さを肯定するものであり、「女性的」な愛であるということです。これは当時においても意識されていました。そのため、公的にはフラタニティは男同士の兄弟愛であり、それをもとにして政治的・経済的な権利主体から女性を排除しつつも、友愛が女性的なものの肯定や評価も含んでいたので、私的領域では女性も含めて友愛の対象になりました。このような友愛という理念の広がりを背景にしてさらに「情緒的個人主義」(ストーン)が進展し、夫婦間のセクシュアリティの価値の向上も起こった。

 ルーマンは、18世紀後半のフランスの上流階層で「性関係の解放」が起こり、これが直接的にはのちのセクシュアリティと愛の統合の可能性の源流となったのだとも言っておりますが(p.173)、これも友愛という流行の帰結だと考えている様子です。

  このように、18世紀は友愛が親密な関係性における優位なコードとなったが、ルーマンによれば「友愛は他のものとはっきりと見分けられず、他のものから分出できない」ため、友愛を礼賛するだけでは親密な関係のための特別なコードを発展させることができなかった(p.123-124)とのこと。

 

 追加的に書いておくと、

「愛は神や自分自身との関係において可能であったのに対して、友愛は他の人間との関係においてのみ可能であった」(p.121)

といったあたりのことは重要な示唆だという感じがしていますが、どう考えていったらいいのかはまだ考え中。

 あと、ルーマンがどこかで、愛は性的な欲望に還元できない「愛されたい」という欲求であるというようなことも書いていて、これは素朴ながら重要な視点だという感じがしました。

 

再帰化(ロマンティックラブの確立)

 19世紀はロマンティックラブという新たな愛のコードが登場しました。これは、愛しているということが愛の根拠になるような再帰的な愛である、とルーマンは言っています……(*´Д`)ハァ?なので、ルーマン語を私なりに言い換えてみます。

 理想化というコードのもとでの愛は、愛の客体の完全性や理想性ゆえに愛するのでした。それに対して、相手の個人性・個別性を愛するのが、ロマンティックラブという愛の形式です。つまり、美しいから愛するではなく、愛しているから美しいになる、と。この場合、「なぜその人のことを愛しているの? 愛の根拠は何?」と聞かれても、「え、愛しているから愛しているんだよ」としか言えない。これが、愛の根拠が再帰的という意味であると思われます。このような再帰化としてのロマンティックラブが愛のコードになりました。

 このようなロマンティックラブの構造的特徴として重要なものは次の二つです。

(1)セクシュアリティが愛の共生システムになっている

 18世紀の友愛礼賛や「情緒的(アフェクティブ)個人主義」の進展のなかでセクシュアリティの価値が向上したというのは、すでに見てきたとおりです。そのセクシュアリティが、19世紀に「愛の共生システム」となりました。これによって、親密な関係性における主要コードとしての「愛」の地位が不動のものになった(p.179)。

 

(2)「古典的な愛のコード」としての「情熱」を召喚している

  情熱が愛のコードとして進化したのは17世紀ですが、そこで成立した情熱というコードは、19世紀のロマンティックラブにおいて再度、呼び出されて用いられています。ただし、17世紀的な意味とは少し違う形で。

 例えば、19世紀のロマンティックラブ(恋愛結婚)の確立において、愛は民主化し誰もが恋愛をするようになったが、そこで愛の陳腐化(平凡化)という問題に直面しました。それに対して、パラドックスを処理できる情熱というコードが「愛のコミュニケーション不能性」を付け加えることで、愛は脱陳腐化し、複雑な意味を備えたコミュニケーションになることができた。

・なんか、こういう感じに、情熱が19世紀のロマンティックラブにおいて果たした機能のようなものが沢山書かれているのですが、長くなってきたので割愛します。

 

 私が最も興味を持っており、今度発表する原稿でも書いたのは、ロマン主義の影響下で成立したロマンティックラブは個人の個別性・個性を目がける愛であるという点。そこでの愛の主体は、独我論問題を引き起こしうるような「超越論的」な主体であるということなどはロマンティックラブという愛を考える上でとても重要だし、私がずっとやってきたジンメル研究と恋愛社会学的な研究はこのあたりで交わるのだなということが見えてきたりしているのだけれど、そのあたりはまたいずれ。
 
以上のことをp.53でルーマンが示した①~④の基準に基づいて表にまとめると、以下のようになります。

コードの形式

愛の根拠づけ

(愛を根拠づけ、高めるもの)

愛のコードの変化が取り入れようとしている問題

コードに組み込まれている人間学

[成層社会]

理想化

愛はその対象の完全さ(若さ、美しさ、徳、富)に由来する

「人間/動物」、「理性/官能性」の二元論の克服

理性が人間を代表

[1660年~1700年]

パラドックス化・情熱

情熱 

(+想像力)

「度を越した」行為をする自由の確保

・コピー化された愛/本当の愛

感情の重視

[18世紀]

友愛

隣人愛とは異なる友愛

 

快楽/愛の問題

愛/理性の問題

 

個人は「成長」する存在(変わりうるもの)と捉えられるようになり、愛や友愛によって社交性を身につけ成熟するという人間観へ 

[19世紀]

再帰化・ロマンティックラブ

愛しているという事実が愛の根拠になる愛

 

 

 

愛が民主化し脱階級化することで「愛の平凡/非凡」という区別の発生、愛の平凡化・陳腐化が問題に。

そこで古典的な愛のコードとしての「情熱」が呼び出される。

 

愛に対する関連づけを糧にする人間学 

・愛は自由:文学によってその理想形が形作られたものであり、宗教や家族による支配を逃れたものが愛。

・愛の民主化と共に、愛がジェンダー化され、性差が愛の根拠になる異性愛主義が起こったことも重要な特徴。

 

 

以上でルーマンのゼマンティク分析の概要まとめを終わります。お疲れさまでした。

 

以下は、余力のある人に向けた補足です。

3 最後にもう一度、ルーマンの方法論とか用語とかの細かい話

社会構造とゼマンティクの関係
 社会構造とゼマンティクがどのような関係にあるとルーマンが想定しているのかは、いまいち明瞭ではありません。
(1)基本的には社会構造によってゼマンティクが規定されていると考えているように見えますが、(2)ある程度は独立的に動くようなもので、時々連動することもあると想定しているようです。
また、(1)とは逆に(3)ゼマンティクが社会構造の変化を引き起こすこともあると想定していることも分かります。例えば、次の箇所。

「ゼマンティクという思想財はそれが十分に豊かでさえあれば、社会構造の根本的変化を準備し、それを実際に引き起こし、かつその変化を人々にかなり素早く納得させることができる」(p.4)

 ゼマンティクが社会構造の変化を「準備」し、「引き起こす」と明記されています。 

 いずれにしても、ゼマンティクはいつどのように構造に決定されるのかや、逆にゼマンティクの進化がどのような形で構造に影響を与えるのか?といった社会構造とゼマンティクの関係について、ルーマン自身は何らかのまとまった原則などを明らかにしていません。

 個々の領域ごとやそこでの歴史的経緯によって、それらはすべて異なるので、一般化できないことはよくわかるのですが、このようなゼマンティクと社会構造の関係に関する原則が良く分からないので、ルーマンのゼマンティク論のなかで、突然「ここは構造要因が絡んでいる」というふうに出てきたりすると、なんだか恣意的にルーマンが構造との関連性を持ち出しているように見えてしまうところがあります。(博論の方法論としては、このようなやり方は許されない、くらいの意味ですが。)

 

 この社会構造とゼマンティクの関係というのは、マルクス主義的な下部構造と上部構造という分析の仕方を受け継ぎつつ洗練させているものであると考えられるので、社会科学の方法論として、このようなルーマンの「社会構造とゼマンティク」型の分析はとても重要だと思っています。少なくともジェンダー分析では、すっごい使える。だからこそ、ルーマンと共にルーマンを越えて方法論的な洗練化をしていきたいところです。誰か一緒にやりましょう。

 

メモ: (1)の例としては、例えばこういうのがあります。

「シンボルによって一般化されたコミュニケーション・メディアのコードの果たす機能は、きわめて生起する見込みの少ない期待であるにもかかわらずその期待が受け入れられる見込みを確かならしめることにある。結局のところこの社会構造的なパラドックスはゼマンティクの水準に移されて、そこに(宗教、認識、あるいは愛のあり方に)内在しているパラドックスとして表現されることになる。」(p.73)
 ここからは、社会意構造に内在しているパラドックスが、「ゼマンティクの水準に移されて」、ゼマンティク上のコードのパラドックスという進化を引き起こすと考えられていることが分かります。
 
ルーマンの用語の定義・確認
「親密な関係(Intimbeziehung)」とは人と人との相互浸透Interpenetrationのこと。 人と人との相互浸透のコードとして、18世紀のように友愛が優位になりかけた時期もあったが、最終的に愛がゼマンティク上、優位になったというのが、ルーマンの分析結果。
 
以上!

*1:注1:例えば、情熱とは、愛の対象の魅力によって強制的に愛してしまうという受苦であるという定式化が、愛の対象(女性)による、その愛への対処や慰撫を求めるという論理を下支えしてきた、ということとか。

 このことについてはルーマン自身もちゃんと指摘しているので、偉いです。とはいえ、西欧の近代的な純潔に基づく愛は、男性の性欲の抑制や道徳性(リスペクタビリティ)を強く要求したので、男性の性欲の抑制について意識的であるのは一般的なことであり、ことさらルーマンジェンダーセンシティブというわけではありません。念のため。