ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

大塚明子『『主婦の友』にみる日本型恋愛結婚イデオロギー』(2018、勁草書房)まとめ

個人的に面白かった点や「発見!」だった点を中心に(というか、ほぼそこだけを)まとめます。

大塚さんが分析対象にしている主婦の友というのは、戦前から発行し続けている女性三大誌の一つで、最も庶民性(ポピュラリティ)が強く*、最も売れていた雑誌です。

だからこそ、日本における通俗的な**恋愛結婚理解(=イデオロギー)が見えてくるというところがあり、そこが『主婦の友』を分析することの面白さだな!と思いました。実際大塚さんの分析、面白かったです。

*「庶民性が強い」といっても、明治から昭和初期にかけて読んでいたのは女学校を出た都市部の中産階級および、そのような中産階級の生活にあこがれを持つ労働者階級の女性たちであり、人口比にしたら必ずしも「マジョリティ」とは言えないというのは、この分野の歴史社会学の前提的知識に属する事柄です。読者規模とかも、大塚さんの本に詳しく書いてあるので関心のある方は読んでください。

**「通俗的な」とは悪い意味ではなくvernacularの日本語訳の意味で用いています。

面白かった点・発見その1

「恋愛」と「愛」は違うという、女性たちの生活実感に根ざした「愛」の考え方が『主婦の友』に見られる言説パターンだということが分かって良かったです。「恋愛と愛は違う」という考え方は今でもよく見られるものの一つですが、誰かが理論化した議論ではない俗説なので、何を引用すればいいのか悩んでいたところでした。

戦前期の『主婦の友』は、性的色彩の強い「恋愛」を非理性的で不安定なものと警戒し、精神的で永続的な「愛」と対極化する傾向が強かった。しかし、この時期、GHQが主導したアメリカ式恋愛文化の普及と連動するように、(『主婦の友』もまた)官能的情熱としての「恋愛」を理念上は肯定する方向に転換する。(p.356)

この引用が含まれている本書第10章からは、さらに、ハリウッド映画のキスシーンをカットせずに公開することなどがGHQ民間情報教育局の要求としてあったという歴史的事実なども分かり、勉強になりました。

また、1920年代後半の『主婦の友』は、北村透谷や厨川白村的な恋愛至上主義異を唱えていたということも知れてよかったです。なるほどー。

……明治20年代にはプロテスタントの知識人らが、近世的な「色」の美学と対比して精神主義的な「恋愛」を掲げた。だが、20世紀に入ると性欲が本能として肯定され、自然主義の隆盛に至る。これに対し、明治末期~大正期には「人格」の理念を中核とした広義の教養主義に基づき、再び「恋愛」が称揚されていく。その典型が、厨川白村1921年(大正10年)の新聞連載「近代の恋愛観」で示した恋愛至上主義であった。

 これに対し、ほぼ同時期に創刊された『主婦の友』では恋愛の理念的な位置が相対的に低く、白村と袂を分かつ。1922~29年(大正11~昭和4年)の誌面には「恋愛至上主義」の語を含む記事が9本あるが、全て多少なりとも否定的な評価を下している。そして家族制度に対する評価と平行するように、1920年代後半からは全面否定となる。(p.140-141)

なんか、現代社会においては「女性はロマンティックな恋愛が好き」というステレオタイプがあるような気がするのですが(日本の場合、それは1970年代の少女マンガというジャンルの確立以降の現象だとは思われます)、女性誌に出てくる言説って「女性的現実主義」とでも名付けたくなるような、独特な、生活実感に根ざした現実主義(もう少し言うと、男性優位的な現実社会のなかでの「弱者」の現実主義のようなもの)があって、そこが女性誌を分析することの面白さだと私は思っています。

大正期のなかでもエリート女性層を読者としていた『婦人公論』はここで大塚さんが明らかにしているよりももう少し恋愛肯定ですが、より庶民性の高かった『主婦の友』(ちなみに多くの未婚女性も読者層に含まれていました)は恋愛至上主義に対して否定だったというのは、「女性的現実主義」のあらわれという感じがしており、重要な論点だと思いました。

 

面白かった点・発見その2

大塚明子さんのこの本は、西欧型ロマンティックラブイデオロギー(恋愛結婚イデオロギー)と日本型との違いを明らかにしようとするものです。では、何が違うということが明らかになった(そして実際に雑誌分析によって実証された)と言えるのでしょうか。

とても分厚い本で、色々な論点が含まれているので、まとめ方は読者によって異なってくるかとは思うのですが、私は次の2点が面白かったので、そこを中心にしてまとめてみようかなと思っています。

第一に、理想的な男らしさと恋愛の関係に関する西欧と日本の違い。

第二に、個人の唯一無二性や人格的コミュニケーションを中核とする西欧型ロマンティックラブと、無常やあわれとして性愛を捉える日本的「恋愛(ロマンティックラブ)」観。

 

第一に、理想的な男らしさと恋愛(ロマンティックラブ)の関係が欧米文化圏と日本文化圏では異なるという話が「たしかにー」と思いました。すなわち、欧米では「愛する貴婦人につかえる騎士」という文化的モデルが、恋愛する男性像の理想的モデルとしてある。それは、「愛する主体」としての男性であり、繊細さと文化的感受性の高さ、愛を貫く誠実さ(ロイヤリティ)を持ち合わせており、身分の高い高貴な女性や美しい女性への「愛」を通した自らの高貴化......というような特徴を持ちます(すごいざっくりな高橋によるまとめです)。

それに対して、女性蔑視が強い儒教的&仏教的文化圏である日本においては、女性に愛を表明する「男らしい理想的なモデル」がない。そのため、

男らしい男による女性への愛情表現の文化モデルを欠いた日本映画では、「わざと乱暴な言い方をする」方法が(愛情表現の仕方の)工夫の一つだった。(p.323) 

妻を呼ぶときに「my dear」ではなく「おい!」とか「こら!」と呼ぶ日本的風習ですね。あと、「細君に対してわざと邪慳にふるまって見せる夫」とか「心の中の愛情を動作に見せることを恥とするくせ」とか。あー、たしかに古いタイプのおじいちゃんとかに今でも見られるやつ。

もう一つ、大塚さんによると、日本映画に見られる、男性の女性に対する愛情表現の仕方として「非常時の無意識」というものもあるとのこと。

「1943年の「熱風」では、藤田進演じる主人公が、命がけの作業が終了するや否や、憑かれたように、いつも彼を優しく見守ってくれていた女性の元に駆けつける。周囲があっけにとられていると、かれはふと我に返り「気がついたらなぜかここへ来ていた!」という(佐藤1996:53)」(p.324)

なんかちょっと笑えるのは私だけでしょうか。たぶん、ここは絶対に笑ってはいけない所だとは思うのですが。

で、ジェンダー論的に重要なのは、こういう男性が愛情表現において「不器用である」ということが前提とされ(許容される)ような文化圏の中で、どういう性別役割が成り立っていたのかですよね。それはですね、ざっくり言うと、

結婚したら男は仕事優先。男性はパートナーに対する愛情表現はしないので、関係調整の労力は妻が払う、です。「不器用な夫に満足し、妻の方が機嫌を取ることで関係性を保つ」のが『主婦の友』から読み取れる夫婦関係とのこと。

 

2の補足

そもそも、この背景には、儒教における「愛」は基本的には、上の者が下の者に対して示すものであり、下の者は上のものを「敬う」というような、上下関係を基本にした情緒的関係のパターンおよび語彙の蓄積はあるが、対等で平等な関係を保つための情緒的信頼関係を言い表す言葉が日本語には少ないということが、あるのかもしれません。

 

面白かった点・発見3

第二に、個人的に何よりも面白かったのは、性の情熱を伴った恋愛(「性愛傾斜型の恋愛結婚イデオロギー」と大塚さんは呼んでいる)が『主婦の友』でも称揚され始めた高度経済成長期の日本で、性的情熱を伴った恋愛感情が不可避的に衰退していく「無常」や「あわれ」として捉えられ論じられるという傾向が見出せるということです。

亀井勝一郎の『愛の無常について』は、なぜか私も高校生の時に図書館かどこかで読んで感銘を受け、お小遣いで文庫版を買った記憶があるのですが(でも、何に感銘を受けたのかは全く覚えていない)、そこでは、大塚さんの引用からさらに引用すると、

「無常なものだと知ってて、しかも浮気ごころは決して止まない。人間の「あわれ」とはこのことであろう。・・・浮気ごころも、姦通も、離婚も、年月を経てかえりみるなら、すべてこれ夢だということになりはしないだろうか」(p.506)

というようなことが書いてあるらしい。

戦後期の誌面では、同じ明治末生まれの林芙美子石坂洋次郎が、当時話題になりつつあった妻の恋愛に関してほぼ同じ見解を述べている。林の言葉を借りれば「夫と別れて恋人と一緒になったところで、果たして幸福がくるかどうか——同じことですよ」というわけだ。

 このように各時代の『主婦の友』を代表する知識人たちは、恋愛をもっぱら性的・官能的な情熱としてのみ捉え、いつか必ず消滅すると想定する。繰り返しになるが、彼らの発想には、ロマンティックラブの中核にある「ただ一人の人」という個別志向性が欠落しているのだ。(p.506)

という指摘はとても重要だし、的を得ていると思いました。欧米型ロマンティックラブイデオロギーは、恋愛対象の唯一無二性、個別性を中核的なものとし、その相手に対する人格の開示というコミュニケーションを重視するのに対して、日本型恋愛においては、唯一無二の人格を愛するというロマンティックラブの発想が弱く性的情熱および恋愛的情熱は「いつかは消えるもの」というはかなさが「もののあわれ」として、ある独特の文化的価値を帯びて、表象され語られ享受されているというのは、けっこう重要なものであるように思います。

まとめ+今後ちゃんと考えたいこと——日本語の「愛」について

大塚さんの議論の主要論点の一つは、お見合い結婚という独特な「近代的な恋愛結婚」の形態が定着した日本の恋愛結婚イデオロギーの特徴などであるので、本来ならそのあたりをまとめる必要があるとは思うのですが、割愛してしまいました。すいません。どなたか、ぜひまとめて下さい。

以上のように、大塚さんの博論を読みつつ、私が関心のある3点をまとめてみましたら、今後私がやるべきこととして、日本文化圏における「愛」の歴史的背景(儒教、仏教的背景)ということをある程度考える必要があるのでは…ということが見えてきました。大きすぎる課題なので今まで回避していたのですが。

大塚さんのまとめによると、日本語の愛にはおもに3つの系譜に基づく3つの意味があるそうな。

一つは儒教的な「性愛以外の人と人との感情、そして身分的には上から下へのかわいがるような感情、また物に対する愛玩の気持ち」。

もう一つは、仏教的な用法で、人間の性愛を指し、「執着、迷いとして否定される意味が強かった」。

最後に、明治に入って1880年に完成した日本語訳聖書において「神のアガペー」の訳語として「愛」が用いられた。(p.62)

こういう意味の地層は現代社会でも時々顔をのぞかせることがあるので、儒教的、仏教的に人間間の愛や礼、敬などの「社会的関係!」がどう考えられてきたのかを今後さらに、ぼちぼち勉強していこうと思っております。