ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

恋愛の主客のジェンダー非対称性の論理的前提となっている「女性は存在そのものとして価値がある/男性にはそのような価値はない」というジェンダー非対称性についてのあれこれ

 

ytakahashi0505.hatenablog.com

の続き。恋愛においてはなぜか男性が「手を出す」/女性が「手を出される」というように、男性が主体で女性が客体であるかのように表現されるという社会的事実があるということを見てきました。これがどういう意味論をなしているのかを考えます。

 

ドニ・ド・ルージュモンに見られるように、19世紀市民社会で成立し近代の恋愛結婚の原型となった「ロマンティックラブ(恋愛)」という愛の形態においては、恋愛は、男女の戦いの比喩で語られます。「男が攻め、女が守る。が、最終的には陥落させられる」というのがロマンティックラブの定型的ストーリーです。

 

そして、現代社会でもまだ、男性は「獲得しよう」と頑張る/女性は「獲得」されてしまわないように抵抗するという性別役割が、なんとなく薄く広く期待されています。日常生活のふとした時に、「男ならそうでしょ」みたいな社会的通念はいまだに成り立っております(だからこそ、この通念に抵抗するものとして機能した「草食系男子」という語の登場は、けっこう重要だったし、評価できるものだったと私は思っています。→詳しくは、拙著第6章で草食系男子について論じていますので、ご興味のある方はそちらをお読みくださいませ。)

 

さて、今日考えたいのは、「男性は主体(「獲得しようと頑張る」)/女性は客体(「獲得される」)」という非対称性の論理的前提として、「女性は存在そのものとして価値がある/男性にはそのような価値はない」というジェンダー非対称性があるということです。

 

本当に「女性」に「存在そのものとして価値」があるのかどうかは、わかりません。しかし、社会の中のヘテロ男性が動機づけられ、本人たちも訳の分からないまま時間的・金銭的コストを支払って女性「獲得」のために頑張るという社会的行動をしている背景には、少なくとも「それが獲得に値する価値あるものだ」という前提がなければなりません。論理的に言って。同時に、このとき男性自身においては、「(女性と比較して)自分は存在そのものとして価値があるわけではないから、色々行動をしたり頑張ったりして自分の価値を証明しないといけないんだ」という悲しみのようなものやプレッシャーのようなものもあるだろうと思います。

 

なぜ、こんなことになっているかと言うと、近代社会の構造の中において、男性は女性を「獲得する」という努力をしそれを達成することで、彼自身の価値を社会的に認めさせることができるという構造になっているからです。 

 

さらに、遡るならば、これは近代社会の成立とともに始まっていると言っちゃってよいでしょう(おぉぉ、ざっくり!ブログならではの大胆さ・良さですな)。

中世の身分制社会から近代市民社会へ移行したときに、「ある人の価値」は、家柄や身分などの「生得的価値」によってではなく、個人の業績や達成(どんだけ頑張ったか、どれだけ能力があるか)といった「獲得的価値」によって決まり、それにしたがって適当な社会的地位や財が配分されるのが正しいのだ!というふうに「正義(正しい財の分配の原則)」が変わりました。このような近代社会の正義の原則を適用されたのは、「男性」だけだったので、いまでも男性には獲得的価値による自己の価値の証明が規範として要求されています。

それに対して、二級市民だった女性には、男性を個人的獲得や業績へと動機づけて近代的主体としていくための「財」の役割を果たすことが要求されました。男性が獲得的価値の達成に向けた頑張ったら得られる「トロフィー(賞)」の役割を女性が担う、という性別役割。こうして、なんとも奇妙な性別役割が確立したのでした。

 

今どき、「女性というものは存在それ自体で価値がある」と本気で信じている人は多くないと思いますし、そもそもこのような言明をする人は女性蔑視(「女ならだれでもいいんだろ」、「女性を対等な人間だと思っていない人の発言だ」)だと批判されます。

しかし、現在の社会構造は、このような価値観を組み込んで成り立っているのが事実。男性個人主体にとってみても、「女性を獲得する」という行動は、①社会的に評価される(あいつは「恋人」がいるやつだ、女性を「獲得」できているやつだ)と同時に、②恋人との親密な関係性のなかで人格的な承認が得られるという意味で自分の承認欲求を満たすことにもつながるので、「効率のいい」行動となっています。男性個人の合理性と制度全体の合理性がうまくかみ合っている状態なので、この社会構造は容易には変わらないだろうと予想されます。

 

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ただし、この同じ社会構造を、今度は「女性」の側から見てみると、違った風景が見えてきます。

まず、「存在それ自体で価値があるとされる女性」は、もし本当にそうなら、男性よりも自尊感情の数値とかが高そうですよね。自己の「価値」に関する不安がない分、承認欲求とかも低そうと予想できます。

しかし、実際にはそうはなっていません。女性の方が承認欲求満足度が高いというようなデータ上のジェンダー非対称性は見られない。むしろ、思春期に差しかかったところで、女性の方の自尊感情レベルが下がるというのが、アメリカでも日本でも見られる傾向。これは、思春期になると、男性のまなざし(male gaze)によって自分の価値が評価される(=「財」化される)ことに女性が気づくからとされています。

 

つまり、 「女性は存在それ自体で価値がある」とされつつも、その価値は「男性に選ばれる」ことで証明される必要があるという論理構成になっています。だから、女性は「それ自体で(単体で)」「価値」に満たされた過不足ない幸せな状態にあったりするわけではなく、「男性の承認」がないと価値を証明できないという「女性的な承認欲求」に浸されている、ということに、まぁ論理的にはなりますでしょうか。 

(→こうなってくると、「承認欲求のあり方」が男性と女性とでちょっと異なっているかも? みたいな派生的議論が、一つは可能かもしれません。メンヘラの症状の出方の男女差は、この論理構造で説明できそうな気がしてきました。)

 

で、フェミニストは何に異議申し立てしてきたのかというと、以上のような形で、女性が「財」の役割を担わされてきたという社会構造そのものに対して、であります。

だから、ここで言及したような「恋愛における性別役割」に違和感を持っている多くの人と、フェミニストは共闘できると、私は思っています(みんな、フェミニストになろう)。

この問題系を、私はいま「ジェンダー平等な恋愛はいかにして可能か」という問いとして考えているところです。中途半端ですが、今日はこのあたりで、すいません。