「欲望の欠如モデル」ではなく「欲望機械モデル」へ
ドゥルーズ=ガタリが『アンチ・オイディプス』で提示した欲望のモデルは、「欠如によって駆動される欲望」ではなく、欲望機械の作動として欲望を捉えるものである。この点がとくに重要だと思っているので、この点だけまとめます。読んでいくテキストは『アンチ・オイディプス上・下』(河出文庫, 2006)です。
欠如によって駆動される欲望のことをドゥルーズ=ガタリは、レヴィナスに倣って「欲求(besoin, ブゾワン)」と呼ぶ。このような欲求は、「欠如している欲求の対象」を「幻想」として思い描いた上で、それを欲するという形を取るものであり、このような欲求は幻想と現実の二元論を生み出すものである。
・例えば、ラカンやジジェクは、人は到達できない幻想(対象a、完全な満足、享楽など)を追い求める欲望に駆動され続ける存在だとする。これが欲望の欠如モデルである。
それに対して、ドゥルーズ=ガタリは、欲望機械の作動として欲望を捉えようとする。
なぜそうするのかというと、それによって「幻想/現実」という観念論的二元論ではないマテリアリズム一元論で欲望を捉える視点を切り拓くことができるからである。
「欲望の生産性は、欲求という基礎のうえに、欲求が対象を欠いているという関係の上に成立し続けることになる(支えの理論)。要するに、ひとが欲望的生産を幻想の生産に還元するとき、彼は観念論的原理からあらゆる帰結を引き出すことで満足していることになる。この原理は欲望を欠如として定義するだけで、生産として「産業的な」生産として定義しない。」(上, p.57)
では、欲望機械とは何なのでしょうか?
欲望機械とは、生産の働きを接続していく根源的な生産のことであると定義されています。
「たえず生産の働きを生産し、この生産の働きを生産物に接木してゆくという規則こそが、欲望機械、あるいは根源的な生産の特性なのである」(上, p.25)
「欲望することはすなわち生産すること、現実に生産すること」(上, p.59)
「欲望的生産とは、欲望の諸機械のことであるが、これらの諸機械は、構造にも人物にも還元されえないものであり、象徴界も想像界も越えて、あるいはそれらの下に、<現実的なもの>そのものを構成するのである」(上, p.102)
そして、この欲望機械は幻想を生産するのではなく、現実を生産するのだというのがかれらの主張です。
「一方に現実の社会的生産、他方に幻想の欲望的生産があるわけではない」(上, p.61)
欲望の生産は現実の生産であり社会的生産であるというのが、ドゥルーズ=ガタリの主張です。かれらはフロイトとマルクスを対立させるのではなく両立させることによってはじめて「唯物論的精神分析」が確立すると述べており、それを目指していた。そのために、このような機械としての欲望(社会的生産としての欲望生産)のあり方を考えていたということができる。
「フロイトとマルクスを対立させる必要はないのだ」(上, p.61)
「唯物論的精神医学を真に打ち立てるには「欲望的生産」というカテゴリーが欠けていた」(上, p.63)
欠如の欲望モデルはエディプス的欲望、欲望機械の作動としての欲望は政治経済的リビドー
このような「唯物論的精神分析」とかれらが呼ぶマテリアル一元論的な欲望論を基盤にしながらドゥルーズ=ガタリが論じるのは、欲望とはエディプス的欲望に還元されるようなものではなく、欲望とはまずもって政治経済的なリビドーであるということ。これが本書タイトル『アンチ・オイディプス』の意味です。
・私はこの考え方はけっこうしっくりきています。リビドーを私たちを動かす原動力のようなものとして捉える場合、それは性的な欲求というよりも、もう少し政治経済的なものであるような気がする。自己肯定感を挙げたいとか、生存が脅かされないような安心できる居場所・収入(社会的地位)を確保したいとか、皆に好かれたいとか注目を集めたいとかすごいと言われたいなどの承認欲求など。性的な欲求を基本原理としてあらゆる欲求を説明することの方がムリがあるし、エディプスコンプレックスは昔から全然ぴんと来ない(自分のセクシュアリティや欲望を説明できていると思えない)と常々思っていたので、欲望とは政治経済的なリビドーであるという定式化は普通に納得できる話だなと思っています。
ドゥルーズ=ガタリにおいては、性愛的欲望もまた政治経済的なリビドーの一つとして捉えられる、という論理関係になっています。
「あらゆる性的現象が経済的事柄でもあることは、全く真実なのだ」(上, p.32)
「性愛は、別の「経済」や別の「政治」を示しているのではなく、政治経済そのもののリビドー的無意識を示している。欲望機械のエネルギーであるリビドーは、階級や人種などのあらゆる社会的差異を性的なものとして備給する。それは無意識における性的差異の壁を保証しようとする、あるいは逆にこの壁を爆破し、非人間的な性においてこの壁を廃棄してしまおうとする。」(下, p.344)
そして、このような欲望機械は(幻想ではなく)現実を生産するプロセスであり、したがって「欲望の生産」は「社会的生産」でもある。
欲望が何かを生産するとすれば、それは現実を生産するのだ。……欲望はこうした諸々の受動的総合の総体であり、これが部分対象を、またもろもろの流れと身体を、機械として組織し、みずから生産の単位として作動する。現実的なものは欲望から生ずるのであって、それは無意識の自己生産にほかならない欲望の受動的総合の結果である。欲望には何も欠けていないし、対象も欠けていない。……欲望とその対象とは一体をなし、それは機械の機械として、機械をなしている(上, p.58)
*「欲望の生産」は「社会的生産」であるという話は、ネグリ&ハートの『アセンブリ』での「社会的生産」の議論を考える時に重要になってくる点です。ネグリ&ハートが「社会的生産に基づいた社会的所有(コモン)を!」と主張するとき、ドゥルーズ=ガタリの「社会的生産」の意味で、この語を用いているので。
ということで、結局のところ唯物論的精神分析が目指してりうのは、こういう分析。
「これはイデオロギーの問題ではない。……個人であれ、集団であれ、何らかの主体が明らかに自身の階級的利害に反して行動し、あるいは自分たち自身の客観的状況からすれば当然対決すべき階級の利益や理想に逆に同調するとき、彼らはだまされた、大衆は騙された、というだけでは十分な説明にはならない。それは、誤解とか錯覚と言ったイデオロギー的問題ではなく、欲望の問題である。そして欲望は下部構造の一部なのである。……無意識的備給は、欲望の立場、総合の使用法にしたがって行われ、これらは個人的であれ、集団的であれ、欲望する主体の利害とは、全く異なったものである。」(上, p.201)
「欲望の問題は「それが何を意味しているのか」ではなくて、それがどのように作動しているかである。」(上, p.209)
まとめ
ドゥルーズ=ガタリの欲望論とは、欲望を欠如によって駆動されるようなものとしてではなく、政治経済的リビドーからなる欲望機械として捉えたところに、大きな特徴があります。かれらは、それこそがエディプス的欲望理解を越えた政治経済的欲望(ファシズムとかポピュリズムとか)を分析できる唯物論的精神分析をもたらすと考えていたのだとまとめることができます。
以前、Xでこのように呟いていたので、とりあえず何が分かったのかをまとめてみました。
ドゥルーズ/ガタリの『アンチ・オイディプス』を最初に読んだのはたぶん23歳くらいの頃であり、それ以降何度も「今ならわかりそうな気がする!」と思って挑戦しては「ダメだ、あと一歩よく分からん」を繰り返し、今回は人生で6回目くらいの挑戦なのだけれど、なんか今回はすごく良く分かる!
— 高橋幸『離れていても家族』(品田知美・水無田気流・野田潤・高橋幸, 亜紀書房)発売中 (@Schnee05) 2023年10月19日
(上記掲載のページ数は以下の本のものです。)