ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

レヴィナスの二つの正義(責任)(現代思想論文で十分に議論を展開できなかったけど、大事だと思っていること)

現代思想』(2021年9月号)の「ジェンダー平等な恋愛にむけて」という論考で、紙幅と論旨の関係上、私はレヴィナスの女性論を「セクシズムである、以上」としてぶった切ってしまったのですが、実際には、レヴィナスはその女性論に限って言っても重要な思想を展開していると、個人的には思っています。

一番興味深いと思っているのは、正義(責任)についての考え方のところです。
まず、レヴィナスが言う「男性/女性」は生物学的な性差ではなく現象学的な性差です。
で、レヴィナスがなぜここまで男女の差異にこだわっているのかというと、これが「倫理」を可能にする非対称性であると、彼が考えているからです。(言い換えると、倫理を可能にする条件としての非対称性を、レヴィナスはさしあたり男性と女性の非対称性として論じていると考えた方が、よりレヴィナスの思想は理解しやすいし、生産的です。言葉尻だけを捉えてセクシズムだと批判し去るにはちょっともったいない。)

レヴィナスが「男性/女性」で言おうとしていた差異そのものについてはきちんと考えておかないと、何度でも亡霊のように回帰してくるだろうと思います。「やっぱり男女は根本的に違っていて、女性固有の道徳性というものがあるよね」みたいな言説として亡霊が回帰してくるとまじでめんどくさいので、いまここでちゃんと考え切っておくことが重要なような気がしています(ポストフェミニスト的言説として容易に出てくることが予想されます)。

 

さて、私はジンメル研究者であるにもかかわらず、ユダヤ教に関してはほとんど分からず(言い訳:だって、ジンメルは親の世代からプロテスタントに改宗してるし......)、タルムードとか歯が立たないので、内田樹を引用してしまいます。以下は、内田樹レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫、2011)からの引用です。

 

レヴィナスは女性について考えながら、倫理の基盤、倫理が可能になる条件のようなものを考えようとしています。

「相互性という考え方は、平たく言えば「私と君の立場は交換可能だ」ということである。だから、自分がされたくないことは人にもしない、自分がされて嬉しいことは人にもしてあげる、という「合理的」な推論に基づいて道徳的な行動が動機づけられるのである(これはホッブズやロックの道徳観である)。しかし、相互性の道徳からは、どうやっても、「私はあなたよりも多くの責務があり、あなたは私より多くの権利がある」という言葉は導出されない。しかし、レヴィナスが求めているのは、まさにその言葉なのである。」(p.259-260)

譲り合いの精神みたいなものですかね。でも、これって実はけっこう日常感覚としてよくわかるし、大事な倫理の基盤のような気がします。

ロールズ的な正義は、「他者」をさしあたり理解可能なものとして想定することで成り立っています。これは、フッサール的な「他我」としての他者です。それに対して、レヴィナスが言う「他者」とは、このような他我ではない。「私」が絶対的に理解できないような「他者」である。しかも、その他者に、「私」は負い目がある。正確には「私」が負い目があるようなものとして「他者」は立ち現れる。

「他者は私の他者に対する有責性のうちに存する。これが根源的な倫理的関係である。(…)他者への有責性。それは自由意思に基づくなんらかの行為がまずあって、それに条件づけられたり、それに規定されたりして、結果的に求められる有責性ではない。それは無償の有責性であり…」(HS、p.61)

なぜ、「他者」である女性に「私」は負い目があるのかというと、「他者」の方が「私」よりも先んじて、「それは私に責任がある」「私が悪いんだ」と言ってくれてしまうからです。「女性」とはそういう存在なのだ、というのがレヴィナスの議論。

ここには「女性は光の場から立ち退き、それによって男性に場を譲っている」という固有のレヴィナスの女性論の前提があるのだが、そこは省略。というのも、別に女性特性論にしなくても、この話は理解できることだから。

とにかく、倫理とはわれさきに「私の方が悪かった、私に責任があるんだ」と言ってしまうような精神によって成り立つものだというのが、レヴィナスがここで言っていること。

「倫理」は「他に先んじて有責性を引き受ける主体の「優先権」に基礎づけられてはじめて存立するものである以上、そこには「一歩先んじて」有責性を引き受けるものと、「一歩遅れる」ものの「時差」がなければすまされない。完全な同時性、完全な平等性からは、この「有責性に関する優先権」は論理的に導き出すことができない」(p.309)

それゆえに、「有責性」をまっ先に引き受けるような精神は尊い。こういう正義を、レヴィナスは「法理的な公正さjustice」とは区別される「神の定めた公平さ」と言っているらしい。こういうものによって、倫理は基礎づけられている、と。で、女性はそれをやっているから、男性よりも道徳的に気高い。

 

うん、これはこれだけとして見ても、よくわかる話だなと思いました。端的に言ってしまえば、「母」が「子」に対して発揮する道徳性や気高さのようなものです。母は、子どもに悪いことがふりかかったり病気になったり、子どもが犯罪をおかしてしまったりすると、なぜか「自分のせいである、自分の至らなさのせいである」というふうに、自分を責めますよね(実際には、母たるもの、そういう態度をとるべしと、世間に求められているからやっているわけではありますが)。で、できることなら変わってあげたいと言ったりします。ここに、ロールズ的な市民同士の「正義」には還元できない、道徳や倫理の根源のようなものがあるような気がするのはたしかです。こういう母的態度は、第二波フェミニズムのモードでは克服すべきものとして批判されてきたわけですが、このような道徳(倫理)のあり方をどう考えていくかということは、ジェンダー論やフェミニストセオリーが、「終わった問題」としてやりすごさずに、ちゃんと考えるべき課題であるなーと思いました。

また、母でなくても、こういう気持ちを他者との関係で持つことはよくあります。

 

こういう有責性をまっさきに引き受ける態度というのは、二者関係においてこそ発生しやすいということは言えそうです。つまり、別に「男女関係」でなくても、二者関係(君と僕の関係)に固有の倫理の発生の仕方と言えそうな感じはします。

「私が他者と二人きりでいるのであれば、私は他者についてすべての有責性を引き受ける。しかし第三者がいる。この第三者と他者の関係はどうなっているのか。第三者は他者と友好的なのか、添えともその犠牲者な音化。いずれが私の隣人なのか。こうして比較不可能なものを比較することによって、計測し、思量し、判定を下すことが必要になる。」(EI, p.84)

この箇所を引いて、内田も

このとき「他者」はもうその語の厳密な意味での「他者」ではない。「他者」は「比較考量可能」「数えることのできるもの」として扱われているからだ。(p.332)

とコメントしている。だから、おそらくロールズ的な正義のさらにその根底には、このような二者関係において立ち現れる「他者」との関係においてすべての有責性をまっ先に引き受けようとする精神が、倫理の根源としてあるという、そういう論理関係になるのだろうと思います。

 

で、この話は、私がこの間、すごい中途半端に言及した、ヨナス研究者の戸谷さんのエヴァ論の「責任」解釈のところに感銘を受けたという話につながってくるのですが、その話はまた今度。