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石巻に来て1年。住みながら色々見聞きしたことをもとに、つれづれなるままに書き留めてみようかなと思って書き始めます、東北通信。個人プロジェクトです(所属等とは関係ありません)。
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東日本大震災の「被災地」である沿岸の各地域ではしっかりした震災遺構や伝承館もできあがり、日々、圏域内外の人々を集めている。
その展示物で今回の東日本大震災の津波がどう語られているのかを見てみると、明治29年の明治三陸大津波、昭和8年の昭和三陸大津波、昭和35年のチリ地震津波との連続性のなかに今回の大津波を位置づけて提示するものが多い。つまり、「円環的な時間」観のもと、「ずいぶん前からずっと繰り返されてきた津波が今回もまたやってきたのだ」という歴史的な位置づけを与えながら、死者・行方不明者2万2318名(12都道府県、震災関連死も含む、令和5年現在)を出した今回の津波被害を解説するという語りである。
このような語り方は、おそらく地元住民にとって納得のいくものであり、重要な視点だと感じられたのだろうと思う。そして、それは第一に重要なことだと思う。理不尽な暴力であるところの地震・津波災害の被害を受けた当事者(おもに地元住民)が、ひどい暴力を受けてしまったということに対してどう折り合いをつけていけるのか、その事実をどう自分なりに理解したうえで、前を向いて生きていけるのか(生き延びていくことができるか)という点が、何よりもまず、しっかり考えるべき重要な点だと思うので、ここにこだわりたいのだが、住民の方々を支えた共有理解の仕方が、この被災地の展示物に表れている円環的な時間観のもとで今回の津波も捉えるというあり方だったのだろうと私は思っている(語り部の方のお話を聞いたり、地元の色々な方のお話を聞いたりした限りでであり、体系的に調査とかをしたわけではないのだけれど)。
たしかに、「津波はこれまでも来ていたし、これからもまたきっと、必ず来る。その時のために、将来世代のために、今回のことを教訓にしよう」という、過去から未来につながる、繰り返されるであろう津波という捉え方をすることで、将来世代のためにという形での連帯も成立する。
被害に対するやり場のない怒りや無念さを昇華し、将来世代のためにという思いで連帯して、コミュニティの結束をもう一度作り直していく。そのとき、この円環的時間観のもとで津波を捉えることは、よい共有理解の形だったのだと思う。
・繰り返されてきた津波被害という歴史を新たに思い出し、その地に蓄積されてきた人々の思いと、この地で生きていく知恵や術を掘り起こし、共同体が培ってきた習俗を掘り起こすことにつながり、そのようなエネルギーや活動そのものが、新たに共同体を復興させ、レジリエンスの高い共同体を作り直していく力になっているということ(例えば、気仙沼の「椿の会」の活動)も、注目すべき重要なことであるように思う。
そのようなことはよく理解した上でなのだが、東日本大震災をこのような円環的時間の中に位置づけて理解してしまうことの問題もあるような気がしてきている。
その問題の一つは、このような捉え方のもとでは、「2011年に起こった東日本大震災の被害がここまで甚大になったのは、20世紀後半から21世紀初頭にかけての産業構造が要求した国土開発のあり方、自然と社会のあり方がある」という点が見落とされがちになってしまう点にある。
円環的時間のもとでは、暗黙の裡に「同じ」自然現象が繰り返し起こると捉えてしまう。しかし、私たちの社会と自然との関係のあり方は、明治、昭和の頃とは全く違っており、災害の質も規模も全くもって異なっている。いま考える必要があるのは、社会から切り離して自然を考えるのではなく、20世紀後半の高度経済成長期とその後の社会と自然のあり方をその二元論を越えて考えていけるような思想である。現状だと、二次的自然に関しても、一時的自然を語る時に用いられてきた文体や論理で語ってしまっている感があって、大変もやもやする。
被災経験を、SDGsやカーボンニュートラルや海水面上昇問題などのグローバル目標(指標)と結びつけていくことで、震災・津波被災地は独自の立場を打ち出せる潜在力を持っているが、現状では、その可能性はあまり生かされていないように見える。二次的自然と人間と動物と植生との関係を語る思想のことを、さしあたり私は人新世の社会学と呼んでいるのだが、そのような人新世という枠組みで考えていくのが重要なのではないかなと思っています。*1。
東日本大震災をこのような円環的時間の中に位置づけて理解してしまうことの問題の二つ目は(うーん、問題というか、なんかとても気持ち悪いなと思っているだけとも言えるのですが)、円環的時間観のもとで津波という自然災害を捉えるまなざしが、「自然と密接な関係を築きながら、その地でたくましく生きてきた東北の人々」という、中央(東京)との対比で「東北」を捉えるまなざしと奇妙に共鳴してしまっている点です。見田宗介は、近代の時間観が「直線的」であるとし、それに対して前近代は円環的な時間の中を生きていたと論じた。
東北に住む人だけでなく、外部から来た訪問者にとっても、東北という土地を襲った震災被害を捉えるときに「円環的な時間観(津波はかつても来ていたし、これからもくる)」という語りが納得しやすいものとしてあるのだとすれば、それは東北がより「自然」的で、前近代的な時空間の中にあるという発想と合致し、相性が良いからだろう。
つまり、「東北」と言い、そこに何か独特の特徴を見出そうとするときのまなざしが、東京中心主義的。私の肌感覚では、実は東北に住んでいる人も、東北について語る時には、この東京中心主義的な枠組みを内面化して語ることが多い。
しかし、実際の東北の現状に即した語りが必要だし、見いだしたいと個人的には思っている。例えば、現在の東北地方の産業構造や、被災後にどんな新しい取り組みがなされているのかなど、東北の「現在」の最前線をきちんと踏まえて「東北」を議論すべきだと思っています。我が同志の左翼知識人たちは、震災後の新しい取り組みを「ショックドクトリン」(ナオミ・クライン)だと批判し去ることで安心していてはだめなのですよ、と思う。
・『「辺境」からはじまる―東京/東北論』(赤坂憲雄・小熊英二・山下祐介・佐藤彰彦・本多創史・仁平典宏・大堀研・小山田和代・茅野恒秀・山内明美 、2012)を読んで違和感を持ったので、上記のような思いをさらに強くしました。「植民地化されてきた東北」という「社会学の常識」になった語り口はどこまで有効なのかについては、真摯に真剣に考えた方がいいと思う。労働力を、女郎を、米を、そして電力を、「中央」に供給してきた抑圧された東北という捉え方の延長線上で、現在の東北(のそれぞれの地域)の現状が捉えられるのかどうかには大いに疑問。
例えば、東北がコメの供給地帯となってきたことは確かだが、それは明治から昭和期における米価の大暴落による困窮・貧困化に抵抗する手段を、東北地方が持ちえなかったという経済構造の問題なのであって、それを「東京による植民地化」であり、「原発」もまたその支配形態の継続だというふうにイデオロギー的に言ったところで、何も分かったことにはならないよなぁというかんじがしています。(上記本の人たち全員が、そういうイデオロギーを言っているということではないのですが、上記本の全体としての議論の立て付け(枠組み)がそういう構造になっているように読めて、うーんじゃっかん古い・・・?と思ったという次第です。)
まとめ
おもに伝承館の掲示物における「この土地は、江戸や明治期からずっと変わらぬ津波被害を受け、それに対処しながらたくましく生活を築いてきました」というような表象が、二次的自然(人新世の自然)を無視してロマンティックな自然表象になっていることに違和感があり、さらにそれが「中央」との対比で「東北」を捉えるさいのまなざしと奇妙に共鳴してしまっている点が、少し気持ち悪いような気がしているという話でした。
●「石巻工業港」が整備されてあったことで、今回の津波被害は前回とはどう異なったのか。
●「明治の大開発」の失敗事例として放置されてきた野蒜(のびる)海岸の沿岸部は3.11で凄惨な被害を受けたところですが(そして、震災後、皇后陛下が「のびる」について和歌も詠んでいます)、このような社会的・国家的な力の痕跡についての歴史をたどりながら、津波について考える、というようなアプローチがあってもいいのではないかと思ったりしています。
言ってしまった以上、この方向で色々考え、調べ、引き続き、色々なところに勉強させていただきに行こうと思っています。2年目も頑張ろう。
最後になってしまって恐縮ですが、
気仙沼のリアス・アーク美術館と、石巻市震災遺構門脇小学校に併設のミュージアムの展示は、まじですごいので、ぜひ一度見に来て下さい。
現代アートや「アートとコミュニティ」に関心がある人にもおすすめです。