からの続きですが、本記事だけ読むこともできます。読んでいる本はこれです。
個人単位の私的所有から社会的所有へ
<コモン>とは社会的富の共同統治を目的とするものである。したがって、<コモン>の議論は、個人が持っているものを(所有権という概念のもとに守られてきたもの)を放棄して他者と分かち合おうとか、個人の労働による成果物を他者に譲ろうというようなことを提唱しているものではない。
<コモン>の思想は、所有権と使用権と意思決定権を分けて考えていく発想を持っており、いずれの権利においても、それらを一人の人が握る「排除的性格」を取り除き、共同計画、共同決定、共同統治を目指すところにその特徴があります。この共同性は民主性とほぼ言い換え可能なものと考えられているようです。
コモンの定義が良くまとまっているところを抜粋しておくと、
「平等で開かれた富の共有様式を確立し、社会的富へのアクセス、その使用、管理運営、分配について共同で民主的に決定する権利を設立する」こと(p.141)
「コモンとはすなわち、地球の富や社会的富といった、私たちが分かち合い、その使用を共同で管理運営するもののことである。」(p.5)
「コモンの権利とは、民主的な意志決定手続きによる、富への開かれた平等なアクセス権のことだ」(p.124)
と説明されています。
「社会的富」とは?
冒頭で、コモンとは社会的富の共同統治なのだとまとめました。では、社会的富とは?
かれらによれば社会的富として、第一に「地球とその生態系」がある。これは「私たちが全員その損傷と破壊によって影響を受ける」という点で「避けがたく<コモン>である。」「私的所有あるいは国益の論理がそれらを保護すると信じることはできない」その代わりに、「集団決定を集団で行うような仕方」が必要である。(p.141)
第二に、「アイディア、コード、イメージ、文化的生産物のような非物質的な富の諸形態」がある(知識資本主義とかコミュニケーション資本主義とかコード資本主義とかが着目しているもの)。」これらは、所有諸関係によって課される「排除」(所有権が一人の人に握られ他の人のあらゆる権限が排除されていること)に「激しく抵抗」するものであり、コモンとして考えた方が良い。(p.141)
第三に、上記の非物質的な富に限らない、多様な協同的な社会的労働によって生産されるもので、都市計画や福祉・健康・教育・住宅等の社会的サービスなど。これも、計画の決定自体が可能な限り民主的になされるべきだし、「全員の利益のために用いられ、民主的意志決定に従うように変革されなければならない」(p.141-142)。
なるほどと思いました。最近の左翼が言う新しいコミュニズムというのは、基本個人的な所有権で成り立っている近代社会の制度と秩序を維持しつつ、こうやって部分的に社会的共有の領域を指し示し、その管理・統治方法を変えることで、社会的領域を広げていくということなのだと考えられます。現実的であり、けっこう良い方法だと思います。
また、ネグリ&ハートは、コモンの原則の浸透による私的所有の制限こそが、人間の根源的な可傷性(よるべなさ)という存在様態を踏まえた、真の安全性(セキュリティ)を確立する方法だとしています。そもそも個人を単位とする私的所有の原理では労働契約の不安定性や福祉削減によって生活をおびやかされるという「不安定性(プレカリティ)」の問題するのが難しい。既存左翼は再度、福祉の拡充を、生活保障を、社会権の保証をということを主張してきたけど、冷戦下ならまだしも社会主義国家が崩壊して資本主義の勝利となったこの世界でそれは、現実的な解ではない。そこで、ネグリ&ハートが提起しているのが、そもそもコモンによる富の共同管理・共同統治という形で、人々の生を守っていくという制度なのでは、ということ。
バトラーは、プレカリアス(不安定)な生は、可傷性(vulnerability)を抱えているが、この可傷性こそが社会的紐帯(連帯)の基礎になりうるのだと、自身の著書『アセンブリ』で述べていました。「私たちの誰もが可傷的存在である」とは、私たちの誰もが根源的な依存なしには生きられない存在であるということです。幼児期や老後に他者からのケアを必要としているだけでなく、成人期にも他者から気にかけてもらい、人間らしい扱いを受けることを、私たちは必要としています。そのような人間の可傷性や不安定性を踏まえた「真の安全性と繁栄を与えうる社会的諸制度」は、「コモンの諸制度」として構築される必要があるのだ(p.149)というのが、彼らの主張になっています。
で、具体的にこの構想をどう社会に実装し、具体的にどういう制度を推進していくかは、われわれに託されています。(日本の現状で何ができるかについては、これから色々ともに考えていきましょう。)
コモンの思想の有効性・意義
私個人としては、「国家による規制=強制(不自由)であり、私的所有の支配=自由」(p.149)という古典的自由主義の発想とは異なる形で「自由」を理論的に基礎づけながら考えていくことのできる思想に、<コモン>はなりうると思ったので、この議論が重要だなと思っています。
真の安全性(セキュリティ)が社会的生活や繁栄、人々の幸福の基礎条件だという話は、普通のことですが、とても重要。日本に生きていると、さしあたり水が確保できないかもとか、空気がなくなるかもといったことは、一般的には「不安」にすら思わずにすんでいます。さらに言えば、ここまで資本主義が広がり、おカネなしに生活できる人がほとんど存在しなくなっているこの社会においては、経済力や雇用に関しても日本における「水」や「空気」と同等レベルの基礎的安心を確保できるべきなのではないだろうか? むしろそうなっていないことの方がおかしいのでは、というようなことを思いました。ユニバーサルベーシックインカムの実現は、基本的なこととして必要ですよね。
まとめ
ネグリ&ハートの本書でのスタンスを一言で言うなら、現代の金融資本主義や新自由主義の仕組みを理解し、それを乗っ取る形で、社会主義的理想を実現していこうというもの。この方向性は思想としても実践としても可能性があると、私は思います。
「私的所有こそが安全性や生活必需品へのアクセスを阻む、主要な障害を成すものなのである。……協働による生産を通じた孤立からの脱出であり、平等で連帯した社会的実存なのである」(p.62)
・ただし、ここでポイントになってくるのは、基本的に「協働はめんどくさい」ということです。個人の所有権の範囲で好き勝手にできる方が楽なのであって、他者と調整しながら協働するのは、感情労働だし、疲れるし、めんどくさい。だから、協働のための活動にもきちんと報酬(分かりやすく明瞭な金銭的報酬)を付けるという制度の確立が良いと思います。具体的に、そしてあえてラディカルに言ってみると、地域の会合やタウンミーティングへの参加に時給を付け、PTA活動に時給を付けるみたいな考え方ですね。
資本主義への包摂や金銭媒介を忌避する左翼的立場を取っていると、思いつきにくい案ですが、「社会的生産」という考え方を媒介して見ると、例えばこういうことも考えることはできるな、と思った次第。協働は「社会的生産」だとするネグリ&ハートの概念はその意味でも使えるなー!と思っています。
・あと、人々は基本的には個人の私的生活内での満足に関心の中心があるけれども、人々の需要を読んでお金を稼ごうという気持ちになる時に「社会」に興味を持つ。このような社会の需要に合致したサービスやモノを提供することは、人々の欲望の形に合致した快楽(享楽)を提供することであり、それは「同じ享楽を共有するもの同士」という連帯を形成する基盤になる。例えば、温泉をコモンとして管理することで、温泉業者の協議会とはまた異なる新しい形のコミュニティが生まれる、みたいなこととかがあると思う。