ポスト・フェミニズムに関するブログ

ポスト・フェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログです←最近、基礎文献よりも、関連文献・作品紹介が多め。

キリトはなぜGGOで男の娘になるのか

0.

長くなったので、最初に結論を言います。

前提:元の平凡な少年であるよりも、男の娘の方が、女のコ(シノン)との恋愛の駆け引きをしやすく、また女のコを陥落させやすい。

結論:物語展開上、シノンと恋愛の駆け引きをする必要があったので、キリトは男の娘になった。

 

 

1.

2000年代後半から、国文系の人たちのラノベ研究がじゃんじゃん出てきていて、とても勉強になります。

とりあえず、『ライトノベル研究所説』(2009) や、

ライトノベルスタディーズ』(2013)。(その他についても、今後追加していきます。)

 

ライトノベルという名称が確定したのが2000年代前半。2000年代中盤ぐらいだとまだラノベは「一時的な流行でしかない、そのうちすたれるだろう」という観測もあったと思うのですが、2000年代末頃になると、もはや無視できないよねということが決定的になってきたのではないかと推測します。売り上げが文字通り桁違いに違うし(普通に0が二桁とかマジで違う)、クオリティとしても高いものがあるとようやく国文アカデミズムの中でも認められ始めたというかんじなのかなと。

ライトノベルスタディーズ』(2013)所収の論文「トラブルとしてのセクシュアリティ」において、久米依子さんは「男の娘がラノベの標準仕様になった」(久米2013:69)として、男の娘について論じています。

 

ちなみに男の娘の定義を『現代思想 特集:男の娘』(2015年9月)を参考にしつつ、ここで暫定的に確定させておくと、

1、若い男性が、美少女になること(一定水準を満たした美を有していないと、男の娘とはいえないらしい)。二次元が多いが、二次元から影響を受けて近年は三次元でも展開されている。

2、「女装子」、「ニューハーフ」、「おかま」、「シーメール」、「ドラァグ・クイーン」、「トランスヴェスタイト」とは区別される。

 

 さて、

久米論文はオーソドックス(正統的)なジェンダー論の観点からの「男の娘」論です。

女性の男装は、1960年代から見られるもので、「劣位のジェンダーである女性が、優位の男性を志向し模倣する」もので、これは、既存の「ジェンダーの階層・秩序のシステム」に則ったものであり、「制度内での階層上昇志向」でこそあれ、「ジェンダーの根本的転覆をはかる」ものではなかったから、「秩序を強化する面を持つと言えるだろう。」(久米 2013:71)。

しかし、今起こっているのは、男性キャラクターの女装である。なぜ、上位のジェンダーがそのパワーとポジションを手放すのか?というふうに問いが立てられます。

・私個人としては、性的・恋愛的に魅了された方が弱い立場になるという恋愛関係の規則を踏まえれば、男の子が、性的に魅力的で強者であるかわいい女の子になるという選択肢は、パワーとポジションの獲得(上昇)である、と考えることも可能だとは思います。

が、とりあえず、オーソドックスなジェンダー論の観点から言えば、久米さんの問いの立て方は妥当なものと言えます。

 

で、「男の娘」作品を分析した結果の久米さんの答えは、

「 男の娘」の機能として、

1)エロい美少女表象機能:少女にはできないような大胆な行動と姿態で男性キャラクターに迫ることができる。ユリ的展開にすることで、物語展開上の負荷を負わずに、いろんなカップリングのエロいシーンの回数を増やせるというのも、男の娘化のメリット。

2)女らしさの代替表象機能:男の娘は、他の女性陣よりも旧来の女らしさを持つキャラクターになっている。

3)男性性解除機能:男性がリードすべきだという規範から逃れることができる。

 

といったあたりが述べられています。

また、男の娘作品は、男性視聴者のどんな欲望に答えたものになっているのか、について

・美少女になって美少女のように愛される存在になりたい、愛されて肯定されたいという視聴者男性の願望が見えるように思われる(久米2013:79)

・少女たちの生態をのぞき見、少女コミュニティで一緒に戯れたいという願望←ここには、自らの男性性を嫌悪するミサンドリーがあるかも?という指摘も。

・交際して責任を負う男性としてではなく女の子と混ざって遊びたいという願望

・男性がもつパワーとポジションから降りた状態で遊びたいという願望

・男性が女性をリードすべきだという規範を回避したいという願望

などが挙げられています。フェミニズム原理にのっとったオーソドックスな(正統な)論点と論理展開です。

 

2.

しかし、『ソードアートオンライン』(SAO)の主人公少年・キリトの「男の娘」化に関しては、どうも久米枠組みでは分析しきれないように思われます。

その最大の原因は、トリックスターの脇役が男の娘なのではなく、主役が男の娘だからでしょう。(したがって、今後主人公少年の「男の娘」作品のみを抽出して分析する必要ありますが、ま、その作業は次回に回すとして、ここはSAOだけでいきます。)

 

SAO第一期で主人公キリトは戦いと出会いを重ねて成長していき、一人の少女と結ばれ、なんと16歳にしてAIの「娘」を持ち(その後、作品内で執拗に「パパ」と呼ばれ続けるのだ!「父になれない」ことに悩んだセカイ系の影は完全に消えています)、王道主人公の英雄的カッコよさを見せつけます。その彼は『ソードアートオンラインⅡ』において、 女性と見まがうほど美しいアバターにコンバートしてしまい、男の娘になる。

・ちなみに、男の娘アバターを自分で選んだのではなく、ゲームのコンバートによってシステム上勝手にそうなっちゃったという設定は、心憎い(=すばらしい)。ゲームの世界では、基本的にアバターは自分で自由に選べますが、現実では身体というのは自分で選択できるものというよりもすでに与えられてしまっているものであり、それでやっていかないといけないもの。こういう身体感覚レベルのリアリティ(現実性)の感覚を、VRゲーム設定のなかにねじ込んでくるのは、作者・川原礫の力量。

 

男の娘になったキリト(便宜上、以下キリコ)の性格や行動は変わらず、中の人(声)もかわらない。

上記の

2)女らしさの代替表象機能:男の娘は、他の女性陣よりも旧来の女らしさを持つキャラクターになっている。

3)男性性解除機能:男性がリードすべきだという規範から逃れることができる。

 の機能は、キリコにはほとんどみられない。1)エロい美少女表象機能はまぁまぁある(うーん、エロくはないか、かわいい美少女が一人増えるという機能はある)。

というわけで、キリコを位置付けるためには、久米論文枠組みをふまえつつそれを越えて、考える必要がありそうだな、と思う次第です。

 

 3. 

さて、なぜキリトはGGOで男の娘になったのか?

 

これを考えるには、百合展開アニメの流行という要素を考える必要がある。

最近のアニメは、日常系(空気系)でも、バトルものでも、女の子しか出てこない男性向けアニメってのがたくさんあります。百合エロものでふりきったものとして『ユリ熊嵐』(監督・幾原邦彦)。

疲れてきたので最初に結論を言ってしまえば、ヘテロ恋愛関係カップルのエロい展開はもはや新鮮味がないけど、百合カップルの恋愛エロ展開は、新鮮味がある。だから、キリトくんは、男の娘になったのだというのが結論としては穏当なところなのではないかと、考えています。

 

けっして、キリトくんはシノンちゃんとの恋愛展開を避けるために、女の子の外見になったのではない。アスナちゃんという恋人も現実にいるし、シノンと恋愛するわけにはいかないから、「男の娘」化したのではない。そういう、純愛回帰、純潔重視、倫理的な高潔さという方向性の解釈は不可能。

 

むしろ、SAO第一期では、恋愛に奥手だったキリトくんが、SAOⅡで人の恋愛感情に敏感になり(『ソーソアート・オンライン5 ファントムバレット』6、シュピーゲルとのファーストコンタクト時のキリトの反応:「へえ、ほう、ふーん、と思った俺はちょっとした悪戯心で、彼の混乱に燃料を注いでみることにした」)、シノンの友情とも恋愛感情ともつかない感情をうまく刺激して使いながら初参戦のBoB(ゲーム内のバトルロワイヤルゲーム)を切り抜け、自分の目的を果たすという展開になっていること(例えば、同上7の幕切れシーン)を考えると、恋愛的・性的魅力を自分の資源(力)にしていくために、「男の娘」化していると考えることができます。

 

男の娘は、百合という映像的新鮮さを供給しつつ、ハーレム構造を強化しているということですね。

 

問い:なぜキリトは男の娘になったの? 

前提:元の平凡な少年であるよりも、男の娘の方が、女のコ(シノン)との恋愛の駆け引きをしやすく、また女のコを陥落させやすい。

結論:物語展開上、シノンと恋愛の駆け引きをする必要があったので、キリトは男の娘になった。

 

ここから得られた知見:男の娘って「かわいいは正義」のかたまり。男の娘は、恋愛的・性的魅力を人的・社会的資源にしていく人間関係形式の一表象である。

 

男の娘は、〈同性愛/異性愛〉の境界を撹乱していく力はあるけど、〈性的に魅力的/魅力的でない〉の境界線をこれまで以上に強め、「性的に魅力的な人が強者」という価値に基づく価値序列編成を進めていくものと考えることができる。(→これまでのフェミニズムルッキズム批判を見直す必要があるなぁ。)

 

 

最後に、今回の議論で、検討しきれなかったのは、

そもそもなぜそんなに、男性向け作品で百合展開が一般化してるの?というところですよね。百合文学は久米さんのご専門でもあるので、私はもう少し久米さんの議論やその周辺の少女文化論なども勉強しながら、考えてみようと思っています。

 

視点人物となる男性が作品中から消えて女の子だけになるのは、マッチョさの再強化だという宇野さんの陣営と、

消えるのは男性性忌避であり、マッチョさから抜け出そうとするオタク的良心であり、そこにオタク的可能性があるんだという東さん的なものの陣営がありうると思うんですけど、そこらへんをもうちょっと丁寧にきちんと考える必要があるだろうと思います。

 

 

NHKがキズナアイを起用したことを批判するフェミニストを批判する女性たちにみる、ポスト・フェミニズム的態度の特徴2つ

いまさらですが、NHKキズナアイ問題に気づきました。遅すぎて、すいません。

このブログはポスト・フェミニズムをテーマとしているので、下記のまとめについて検討します。


togetter.com

 

ポスト・フェミニストの最も簡潔な定義は、フェミニズムに違和感を示す女性です(→過去記事も参照してください)。したがって、上記まとめに見られる意見は、ポスト・フェミニズムの典型例といえます。

 

上記まとめから例をあげつつ、ポスト・フェミニズム的態度の特徴をまとめます。

 

1、①自分の身体が性的に見られていることに対する苛立ちが基盤にあり、②女性の身体が性的に見られているという現実を指摘するフェミニストに対して怒りをぶつける。

②「ほんとこれ。実在女性や女性キャラクターのことや服装をいちいち「性的」「性的に強調」って表現されるの本当に不快。」

①「こっちは性的に強調してるつもりもなければ生まれつきの身体なんだよ、ほっとけ。女の服装に性的レッテル貼ってケチつけるな。」

ツイッターを引用するさいの作法ってわからない!本として出版されているものならここに著者名を書くけど、さすがに公開アカウントでつぶやかれたものだからといって、むやみにこういうところに個人のアカウント名を書くのはまずいよね?…というわけで、「」内は上記のまとめサイトから引用、①②は本ブログ管理者による挿入)

 

この二つのツイートは投稿時間から見て、続きのツイートだと思われます。前者②のツイートでは、肌露出の多い「キズナアイ」がNHKノーベル賞解説キャラとして採用されたことを批判するフェミニストに対する苛立ちが表明されており、後者①のツイートは、ツイート主の女性の身体を性的に見ているかもしれない世の男性(の一部)に対する苛立ちが示されている。「こっちは性的に強調してるつもりもな」いのに、「女の服装に性的レッテル貼」って見てくるのは、フェミニストではなくて、まず世の一部の男性なのでは? しかし、なぜかその怒りは、もっぱらフェミニストへ向けられている。二つの苛立ちが混同されているのだろうか?

 

②「「キズナアイは性的に強調してる」って価値観は「気持ち悪い」と言わせてもらう。何でもかんでも性的に見過ぎ。それじゃ誰も迂闊に外を歩けないでしょ。性的強調の要因の乳袋ついてるし。」
①「キズナアイで性的に強調と言われる世の中じゃ、採用面接はリクルートスーツじゃないと危険だね。「性的に強調してる」と思われちゃう。」(同上)

これも、女性の身体を性的に見ている社会(「世の中」)に対して怒っているはずなのに(後者①のツイート)、「キズナアイは性的に強調してるって価値観」すなわちフェミニストキズナアイ観を批判する(②)形になっている。

  

「「この二次元女性キャラクターは性的に強調している!」は実在女性の私にぶっ刺さったし、私を傷つけた弁護士たちのことをとても嫌いになったよね。なんでも性的に感じてるなよと。」(2018-10-03 08:31:50)

「日本のフェミニズムを非常に迷惑だと感じている女です。」(2018-10-03 08:49:00)

 

 

ここらへんをみると、

ステップ1:自分の身体が性的にまなざされているかもしれないという不安や怒りを日頃から持っていた。

ステップ2:「キズナアイ性的なものが強調されたキャラクターです」というメッセージが、「あなたの身体は性的です」に変換され、

ステップ3:そのメッセージを発した人(フェミニスト)に対して怒る

 というねじれた状態にあるように見えます。いやそうじゃないんだ!という方や、違う解釈の仕方に思い至った方は、ぜひ教えてください。

 

2、フェミニストが「社会の男は女を性的に見ている」と言うから、実際にそうなっているんだという、ラディカルな構築主義的態度がある。

 

「下乳のラインが服の上から分かると性的強調か。そういうこと言うバカがいるだろうから、日常では下乳に服が挟まらないように気を遣ってるんですよ」

  

ここで言われている「そういうことを言うバカ」は、文脈上キズナアイの問題性を指摘したフェミニストを指しています。フェミニストがそう言うから、彼女は日々の生活でも気を遣わないといけない状態に陥っていると、考えているらしい。実際にはフェミニストが言わなくても、そのように見ている男性(もちろん「すべての男性」ではない)がまず存在していて、だから彼女は日々バストラインが出すぎていないかとかそういうことを気にせざるをえなくなっているのでは?と私は素朴に思ったりするのですが、そういう私ってポストフェミニストと比べると、本質主義者かも。

 

もう少し、ポスト・フェミニズム構築主義性がわかる例をいくつか。

「こうやって可愛い女の子のキャラクターを猥褻物呼ばわりすることで、女の子が女の子の身体であることを恥ずかしいと思うようになってしまうのが嫌だ。スカートも身体のラインを見せる服も、別に男のために着ているわけじゃない。自分の身体を美しくみせて何が悪い。」

 

フェミニストが「猥雑物呼ばわりする」から、「女の子が女の子の身体であることを恥ずかしいと思うようになってしまう」という論理が見られます。

で、上記のツイートに続いて、こんな感じで暴走していく。

 

「女性が女性らしく丸みを帯びた身体つきになることは、決して恥ずかしいことや不潔なことではない」と幼い女の子に教えてあげるのが、まともな大人の役目では?女性の胸をいやらしいと蔑み、真っ平らに描くことを推奨するのは変だと思います。子どもが健やかに正常に発育してゆくことを否定しないで。」

「女の子が自由に生きるということは、女の子らしさを隠して男性のように振る舞うことではありません。女性性を抑圧し、他人の服装や芸術にまでそれを押しつけ、性的なものを嫌悪し、女性が女性らしくあることを隠して生きることを推奨する人たちを、フェミニストと呼ぶのは止めてもらいたいです。」

 

これについては、いまどきそんなこと言うフェミニストはほとんどいない(古くさすぎるフェミニスト像だ)の一言ですむので、そんなにクリティカルな問題ではない。

最も注目すべき点であり、今後対応を考えていくさいの難点となるのは、ポスト・フェミニストたちの構築主義性だと思います。

 

以上より、明らかになったこと。

フェミニストが「これは女性差別的表現だ」というたびに、

現代のフェミニスト嫌いな女の子たちは、日々感じていた「差別されている感」や、不安、怒りを思い出し、それらを思い出させるきっかけとなったフェミニストに怒るというねじれがあるように見える。

そのねじれを支えているのは、ポストフェミニスト構築主義性である。

 

 

 

今回のような「キズナアイ批判―批判」の立場を取る女の子たちと対話するさいの方針としては、

 第一に、「女性」カテゴリー語りをなるべく避け、もう少し細かいカテゴリーを使うようにがんばってみる。 

・ちびっ子少女たちのなかには、キズナアイをふつうにまじで「かわいい」「モテに最も近い存在」「私の理想の女の子像」と思っている子もけっこういる可能性が高いため。

・それぞれの自分の「女」としての実感をぶつけ合っても、議論にならないため。

 

第二にキズナアイのような肌露出の多いキャラクターが公式の場で大手を振って出てくることで、傷つく子や傷つく大人もいるということは主張し続けるべき。「痛み」として表出しつづける必要がある。

 

 

最後に、

千田さん本当に頑張っている。申し訳ない。

現状だと、有名人一人に過剰な負担(これは明らかに大きな精神的負担だ)をかける仕組みになってしまってるのが問題だと思う。公的機関や社会的影響力の大きい大企業のCM等のジェンダー表象問題→炎上は、短時間で瞬発的に対応しないといけないという性質があるために、現在こういう状態になってしまっている。しかし、一人だと、容易に個人批判、人格批判を誘発する(実際ひどいことになっている)。組織的に対応できるような仕組みを作る必要があると思う。

たとえば、「公的発言におけるジェンダー差別を許さない会」みたいなかんじで。

呼びかけ人(五十音順)
申琪榮(お茶の水女子大学准教授)、千田有紀武蔵大学教授)、中野麻美(弁護士)、西川有理子(パリテキャンペーン)、三浦まり(上智大学教授)、皆川満寿美中央学院大学准教授)、村尾祐美子東洋大学准教授)、柚木康子(公人による性差別をなくす会)

これは、炎上じゃなくて、時間かけてやる企画ものだから、組織的にできるんだよな。

 

大塚英志の「少女フェミニズム」

(注記:愛妻家として知られていた江藤淳のDVの話が5.以降で出てきます。無理な人は読まないでください。)

 

江藤淳と少女フェミニズム的戦後』(大塚英志ちくま学芸文庫、[2001]2004)

江藤淳は「少女フェミニズム」的だというのがこの論考の主張。

 

 1.「少女フェミニズム」とは     

「少女フェミニズム」というのは一般的な言い方ではないので、おそらく大塚さんの造語。少女フェミニズムの代表例として、大塚は上野千鶴子を挙げている。大塚に言わせると上野は「リブの流れを継承するいわゆるフェミニズム」とは違っていて、「少女マンガ的な繊細さをもっているというのが僕の印象として一貫してある」(大塚 [2001]2004:85)。少女フェミニズムというのは「「女の子」的な私に輪郭を与えていく言語としてのフェミニズム」(大塚 [2001]2004:85)であるという表現もみられる。

・たしかに、上野さんの仕事には、消費社会の論理に則った(のっかった?)ものもある(大塚はこれを「少女マンガ的繊細さ」と言っているわけだが、ネオリベフェミニズムという観点から考えるならばマスコミと消費社会の論理に則った仕事と言うべきだと私は最近考えている)。だが、上野さんは同時にリブ的なもの、つまり運動の論理を継承した仕事もしているので、大塚のように二つのフェミニズムがあって、そのどちらか一方だけを上野さんがやってきたかのように語ることには慎重であるべきだ。

 

2.江藤淳はどう少女フェミニズム的なのか 

江藤と少女フェミニズムをつなぐのは、江藤が幼い頃に亡くした実母への憧憬(ロマン的想念)である。

 

江藤は、最後まで一貫して亡き母との関係において自分を考え、戦後日本を考えた思想家だった。江藤の実母は、近代的な思想を持つ女性(モダンガール)だったが、結婚後、家制度の犠牲となって崩壊していった(死んだ)。そのため、江藤は、この母を救うことを実存レベルの欲求として持っていた。その欲求は、家制度から解放された近代的女性が、それでもなお「崩壊」せずに生き生きと生きられるような世界を夢見ることへとつながっていく。これが江藤淳の少女フェミニズム的態度となったという話。

このことを、大塚は、江藤の「文藝賞」選評から読み解いている。

 

つまり、江藤が自らフェミニズム的な主張を直接していたというわけではない。

だが、江藤の選評を読み解くと「(江藤は)明らかに「人工的な空間」で生き生きと暮らす、あるいは庇護される女の子にひどく甘い」(大塚 [2001]2004:101)ということが見えてくる。この点をもって、大塚は、江藤が不在の母を介して少女フェミニズムに到達していたと論じる(そもそも「女の子に甘い」=フェミニズムという論理展開に時代を感じる(古い!)わけですが)。

 

「江藤は、近代、あるいは高度成長を経たこの国が母を宿命的に自己崩壊せしめてしまうからこそ、彼女たちのために彼女たちを庇護する「人工的な空間」を夢想するのである。江藤淳にはそういう少女フェミニズム的な感覚が見え隠れする。…それはうまく言えないが江藤にとって母が崩壊しない場所へのある種の憧憬ではないのか」(大塚 [2001]2004:101)

 

江藤は、崩壊した(死んだ)母がもっていた可能性が実現される社会――近代的女性が近代的女性のままで生きられる(崩壊しない)社会――を理想的なものとして夢想していたのだ、という話。 

 

 3.大塚の議論の骨子  

江藤には、不在の母に対する強烈な思慕があり、それが保守思想家江藤を、少女フェミニズムに近い立場へと導いたということはわかったが、江藤の議論を成り立たせている前提を整理しないと、話がよくわからないところもある。ちょっと整理しよう。

 

前提:近代において「母」は崩壊する :ここがよくわからない

・ここで言われている「母」とは、大日本帝国体制下の家制度において成立していたある特定の「女性性」の形式のことであろう。だが、なぜこれが、戦後日本において崩壊すると考えられているのかは不明。→今度『成熟と喪失』読み直します。

 

ともかく、これを前提としたうえで、

 

帰結:だから、戦後の女性たちは(近代において)、母になることを遅延し、少女であり続けようとしている。これが少女的フェミニズムである。

 

という議論になっている。

 

上野さんが『成熟と喪失』を涙なしには読めないと言ったそうだから、何か響くものがあったのだろう。大塚は、「近代化の進展による女性性の崩壊」のありさまが書かれている点が上野に涙させたのではないかと論じている。上野さんが江藤淳のことをどう論じているかは、別に検討すべき問題だ。(そういえば 私もかつて『成熟と喪失』を読んだときに、「あぁこれは重要な本だな、いずれ、真剣にどこかに書こう」と思った記憶がある。 )

 

4.大塚英志の議論の鋭いところ 

大塚が彼なりに少女フェミニズム的な議論を展開しているところで、すごく鋭いことを言っている箇所だけ確認しておこう。

 

建前としてはもはや母のように生きなくてもいい社会と、もはや父のように生きなくてもいい社会が男女に等しく開かれたのが戦後であったとすれば、しかしその戸惑いは男女間で決定的に異なる。

 

父のように生きなくてもいいというのは一種の禁忌が男に課せられたことと同義である。『抱擁家族』も「なんとなく、クリスタル」(ママ)も、男が間男される物語であるのは、『アメリカの影』ふうにいえば、男性原理はアメリカが見えない形で代行するから、ということになる。

 

その一方で社会制度的には家族形態や職業選択は男性原理的なラインが引かれているから男たちは「父」にならないのなら一体何になるのかを問うことは実際にはやり過ごすことが可能だった。

 

それに対し女たちはもはや「母」のみが選択肢ではない、といわれたとき、それは禁忌からの解放だった。しかしそこには何一つ新たな規範は示されておらず、他方では理念とは裏腹に現実の社会制度下では女たちは男性社会の壁や軋みを一身に背負う。

 

男たちが脆弱な「ぼく」しか作れず、それに対して女性たちが「わたし」という輪郭をそれなりに確かなものにしていったのはそう考えれば当然の帰結なのである。(大塚[2001]2004:93‐94)

 

 

 

ちなみに、私は、坂口安吾が戦後に書いたような、パンパンの登場(「坂口安吾 パンパンガール」)や女性の性的エネルギーの「健康さ」(「坂口安吾 戦争と一人の女」「坂口安吾 続戦争と一人の女」)を称揚する態度には、若干懐疑的。なぜなら、この議論は、容易に、敗戦で傷ついたのは「日本の男(男性性)」であって、女は傷ついてないみたいな論調に横滑りしていくからだ。(私は坂口の「戦争と一人の女」は作品としては、力のあるいい作品だと思っている。単純に好きでもある。だけど、読んでいると、坂口安吾がこれを書いていた時代には、世間一般では「女性は簡単に強者の方に寝がえりやがって卑怯者だ、日本国に対する裏切り者だ」みたいな感覚があったんだろうなぁということも透けて見えてしまう。それが…悲しい。)

 

この点に注意を喚起したうえでならば、大塚が上記で言っているような、

「父にならなくてもいい」が解放と感じられる程度よりも、「母にならなくてもいい」が解放と感じられる程度の方が大きかった、というのは当たっているのかもしれないなと思う。

  

・ただ、やっぱここらへんの批評界隈で言われている「父」や「母」って、すんごい比喩なのよ。宇野常寛さんの『母性のディストピア』(2017)も、「母」概念が多義的すぎるために、分かりにくくなっているような気がしています。宇野さんの当該書では、私が分析しえた限りでは少なくとも異なる3つのことがらが、同じ1つの「母」という概念で言われている。それが議論を分かりにくくしている(→今度詳しく書きます)。

「母の崩壊」(江藤淳)と言われても、いまでも実際に年間100万人弱、今だと96万人くらい?の子どもが日本国内で毎年生まれてるしなぁ…(困惑)という素朴な疑問もあり。

 

 

5.大塚の議論の不十分さ:引き継いでさらに議論していくために 

というわけで、大塚さんのこの本がいかに素晴らしいかを、若干断片的にですが、ここまで見てきました。

 

まず、少女フェミニズムという概念を作ったところが偉いし、

保守の思想家・江藤淳の中に少女フェミニズム的態度を見出したところがエライ。

保守思想家・江藤とフェミニズムをつなげることは、どちらにとっても有意義でwin-winなかんじになっていて、そこもすごい。

(・より細かいことを言うと、少女フェミニズム江藤淳をつなげるときに、サブカルが媒介項になっています。今回はそこはフォローせず)

 

大塚さんのこの議論は、主題設定としても面白かったし、具体的議論もとても面白かったが、最後まできちんと論じ切られていない論点が一つ残っている。

それは、江藤が妻を殴っていたという事実と、江藤の少女フェミニズム的態度とを、どう理解し、位置づけたらよいのかという問題だ。

 

「それにしてもなぜあざができるほど殴ったのだろう?「楽しくなれ、楽しくなれ」と相手を殴っているのはこっけいな話だ。殴られて陽気になる人間はあるわけはない。私は家内を遠ざけ、暗くしていくなにものかと戦っているはずだが、それが家内のなかにあるものか外にあるものかがわからない。それともそれは私のなかにあるなにかなのだろうか。」(江藤淳『成熟と喪失』、大塚 ([2001]2004:36)からの孫引き)

 

江藤の妻への暴力は、①家長を気取るも建付けの悪い家ばかり選んで住み(もちろん貧しかったというような外在的要因もあるだろう)、妻の体調悪化をまねいている、②とうとう鉄筋の分譲アパートに住み始めると、その家の中で江藤自らが妻を殴って傷つけるようになる。

『成熟と喪失』のなかの『抱擁家族』の議論を引き受けて、大塚は、江藤における「家」と妻のあり方に着目して議論をしているわけですね。

 

大塚は江藤の妻への暴力を、次のように解釈している。

 

若い批評家(江藤淳)はその母体の喪失という甘美な痛みを麻薬のように反復するために不完全な「家」で「妻」の崩壊を何度も再現してしまうのである。そのように母の崩壊という甘美な体験を反復する役回りを「妻」は負わされた、とさえ言ってよい。(大塚[2001]2004:45)

 

これはとても妥当な解釈だ。実際、下記のようにまとめてみると、江藤の妻は、「母」を反復している。というか、少女のままで(つまり母になれず)、「崩壊していく」(夫によって殴られる)という、悪いところどりの最悪な組み合わせになってしまっている。 

 

 

             江藤の母   80年代の「少女」   江藤の妻

家制度の犠牲になる      〇       ×         〇

人工的楽園で守られる     ×       〇         ×

 

 

そして、

「ぼくは江藤の「母の自己崩壊」という甘美なロジックを、男であるがゆえに肯定的にこれまで言及してきたし、本書に収録した江藤論もすべてその延長にある。だがやはりそのことにもはや批評的でなくてはならないとぼくは考える」(大塚[2001]2004:40)

 

という大塚の決意表明も見られる。

だからやっぱり大塚は、江藤の妻への暴力と少女フェミニズムとの歪んだ関係について、考えていたはずだ。だが、この二つをどう関係づけて考えればいいのか、そこにある歪みが何なのか、といったことを論じきってくれてはいない。

 

だから、本書を読んでしまった人(私たち)が続きを考えていく必要があるんだろうと思う。

 

 

6.不在の母を救うための理念的フェミニズム/現実の妻への暴力という亀裂について 

 江藤の少女フェミニズムは、不在の母への憧憬から発するものであり、「少女としての母」(モダンガール、近代的思想を身に着けた結婚前の少女)が生き生きと生きられる社会を善とする思想から発する。

たしかに、江藤は、現実においても自分の妻に「母」なることを「強い」はしなかった。しかし、現実の妻(少女のままの妻)は、それでもなお、江藤を家長とする家庭の中で崩壊していった。

 

江藤が、妻を「母」にさせず「近代的少女」のまま、近代的な楽園としての快適な家の中で守り通したよという話なら、江藤の少女フェミニズムは筋が通っている。家長的保守思想家が、結果的行動的に見ると、フェミニズムと共振した事例として理解することができる。

 

しかし、大塚が見出した「江藤の少女フェミニズム」は、すでに死んでいる(全世代の男たちが殺した)不在の母を救うものであっても、現在生きている妻を救うものではなかった。これが、最大の問題点であり、江藤的な少女フェミニズムの限界点だ。

 

私の議論の結論:江藤淳の少女フェミニズムはロマン的想念(理想化された女性への憧憬)に基づくフェミニズムちっくな思想のあやうさ(罠、トラップ)の典型例であると位置づけることができる。

 

 

江藤が抱えた限界は、

フェミニズムの衝撃を受けて、自分たちなりにフェミニズムを消化した男性たち(80年代美少女オタク世代)が抱えがちな問題のありかを指し示すものなのではないかと思ったりします。

 

以上、「女に甘い」という意味での「フェミニスト」(←古い)は、逆に「女の敵」になることが時々あるのですが、その具体例がこれですという話でした。

 

 

7. おまけ 

 ちなみに、江藤が妻を殴ることについて、どんな自己正当化の論理を持っていたのかについても大塚さんはきちんと言っています。ほんと勉強になります、この本。

 

若い批評家の言葉の中ではそのふるまいに対してさえ、どこかでそれは「子」である自分を裏切った「母」、つまり「妻」の責なのだという論理があらかじめ成立している。免罪の論理がその批評の中に滑り込ませてある。妻への被害者意識を吉本が漱石論への指摘の形でさらりと語って見せたように生涯、江藤は捨て去れなかった。だから「母」は江藤の批評の中で繰り返し崩壊しなくてはならないのであって、同時に生身の「移行対象」である「妻」は繰り返し「日本と私」の中で傷つかなくてはならなかったのである。」(大塚[2001]2004:45)

 

ポストモダンのポストフェミニズム状況に生きる我々は、とりあえず、

「母」、つまり「妻」の責なのだ」の「つまり」のつながり方が理解できないわけですけど、「女」として母と妻がひとつながりにつながるという感覚を持っていた時代があったのですよね。

 

「女」はぼくちゃんを裏切る存在だという女への憎悪がある。

ここで言われる「裏切り」とは、母子癒着の状態から、子どもが引きはがされることを指している。母子分離を子どもの側は「母の裏切り」だと感じていて、だから母=女に対する根底的な憎悪(と依存心)があるというような議論が、そういえばありましたよね。忘れかけていたけど。

 

「女」に対する憎悪と、ぼくちゃんの被害者意識。これに基づいて、妻を殴ることを正当化する。

外部から見ると、まったく正当化できていないのですが、少なくともこういう論理がかつて(そしていまもかもしれない)通用していたのでした。

こういう意味わからんレベルにまで降りていって考えてみるのも、たぶん必要な作業なんだろうと思っています。つーかそうじゃないと、不条理な暴力の恐怖からは解放されえないので。

 

00年代東浩紀再考(2)「動物化」とは何だったのか

「00年代東浩紀再考(1)」の議論をまとめると、
大きな物語」がなくなると、救済されないっていうか、なんていうかちょっと悲しい気持ちがする。この悲しい気持ちについてきちんと考えてみようというのが私の主張でした。
 
「00年代東浩紀再考(2)」では、データベース消費の問題点については、当時、こんなふうに議論されていましたということをまとめます。
 
 
 4.『動物化するポストモダン』(2001)
 

 
世界像が近代の世界像(ツリー・モデル)からポストモダンの世界像(データベース・モデル)になる。この時「人間性」はどうなるのか?「動物化」する、というのが東さんの議論。
 
物語享受における深層―表層―「私」の関係の仕方が変化することは、「私」の欲望の質的変化を引き起こす。それが「動物化」という話。
 
では、欲望の形は具体的にどう変化するのか?
当時は「動物化」が流行語としていろんな人によって用いられたので、多義化しているのですが、教科書レベルの心理学の用語で整理するのが一番わかりやすい。マズローが基盤にしている成長欲求/欠乏欲求の概念を使うと、
 

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マズローの欲求階層説

(『心理学』有斐閣、2013、p.194より引用)

 
社会の「動物化」とは、
「成長欲求」充足が少なくなっても、「欠乏欲求」の充足だけで満足して生きていける人間が増えることを意味する。
・欠乏欲求とは、満たされれば消えるような欲求:空腹、睡眠、性器的な欲求など。
・成長欲求とは、望む対象が得られれば、さらに欲求が増大する(成長する)もののこと。「他者の欲望を欲望する」という欲望の機制に基づく欲求や、自己実現欲求など。主体的なセクシュアリティ欲求もこちらに含まれる。
・(コジェーブは成長欲求=欲望、後者を欠乏欲求=欲求と区別しているらしい。しかし、東さんのコジェーブまとめを読む限りでは、かなりひどい日本論で議論する気が起きないので、すいませんちょっと無視させてください。)
 
つまり、動物化とは、動物的な欲求充足が優位になるという話。
 
 
 
5.人間性動物化の問題をめぐる議論
ポストモダン=高度消費社会では「人間性が削がれ動物化していく」という議論は、いやおうなしに倫理的な議論を誘発します。道徳性が低くく、知的水準の低い社会になってしまってよいのか?消費社会が引き起こすモラルの低下=動物化に抵抗すべきだ!という論調に、いやおうなしに、なってくるわけです。
  
世紀末から00年代初頭は、ポストモダン社会が動物的欲求の満足で満たされていくことについて、「これでいいのか!言いわけないだろ!」的な、けっこう力の入った+悲壮的な議論がなされていました。
一方で、人間ってしょせんそんなもんだよね、現実は現実としてちゃんと見た方がいいよねという態度。他方で、人間らしい欲望を失って、動物的に生きるのはどうなんだろうか、いいのか?許せるのか?そんな生を生きることに意義があるのか?ないだろ!という態度。この二つがせめぎ合った時代だった。
 
スノッブとは、「無意味と分かっていてあえて戯れる」という態度のこと。第一世代オタクは、ばからしいことに「あえて」コミットし、「あえて」萌えるという一種のメタ視線を持ちながらエロ絵で動物的欲求充足してたのに、第二世代以降は、その「あえて」というメタ視線を失ってベタになってしまっているという批判が繰り返し、オタク界ではなされてきました。
 
これを発展させると、宮台さんのスノビズムになって、「生は無意味だが、無意味であるが故に生きるという逆説」を生きないといけないんだ、という悲壮感ただよう主張になります。「終わりなき日常を生きろ!生きなきゃいけない理由はないけど、いやないからこそ」(←当時も今も、やっぱり私はうまく理解できない、これ)。
 
・宮台さんがスノビズム的生の美学の主導者で、東さんも論壇も批評界もその態度を保持した。この継承が論証できる文献として『批評の精神分析 東浩紀コレクションD』(2007、講談社)第1章「データベース的動物の時代」(p.7-30)。
・ちなみに、東の議論は、小さな物語から大きな物語への移行期にはスノビズムが必要だったが、移行期が過ぎた後(ポストモダン)は、スノビズムなしに(「あえて」というメタ視点なしに)、動物的に生きるだろうというもの。
 
こういう流れで、〈メタ/ベタ〉コードに基づく議論が、一世を風靡します。
当時はほんとメタの視点を持つことではじめて発言することが許されるというような風潮でした。東大の社会学系の大学院内でも、そうとうこのメタ論やりましたよね。
 
 
6.第一世代オタク的自負心から始まるメタ/ベタ議論についての私の立場・主張
ちょっと整理しましょう。第一世代のエリートおたくが言っているのは、70年代生まれ第二世代オタクや、エリートでない大衆的なオタクはベタに動物的欲求充足行動をしているから、良くないというはなしです。良くないのは、①「人間性」の喪失であるという意味で道徳的・倫理的に、というのもあるかもしれませんが、②美学的によくない(美しくない、カッコ良くない)という意味もけっこう含んでいる。それ自体は別に問題じゃない。死ぬ直前のフーコーの議論も、生の美学と倫理ってかなり近いところになると考えていたし(あとで出典情報追加します)、武士道とか騎士道とか見れば明らかに倫理と美学を切り分けるのが難しい地点というのはいっぱいある。
 
道徳的・美学的な生の問題として、ベタではなくメタな視点を併せ持った動物的消費が重要だよ、というのが彼らの主張。うん、それはわかった。
 
ただ、あえて僕は萌えているんだというメタ視点を貼りつかせながらエロ絵で抜くのと、ベタにこの2次元の女の子かわいいと思ってエロ絵で抜くのとが、具体的にどう違ってくるのかが、80年代生まれ女の私は、分からない。
それによって社会がどう変わってくるのかも、よく分からない。
 
ちょっと論理飛躍させちゃう感あるけど、結局、メタ/ベタの議論がどういう認識利得とか知的生産性とかをもたらしたのかが、よくわからない。現在、どう引き継いでいけるのかも、よくわからない。
 
・ぶっちゃけていってしまえば、このメタ/ベタ論って「エリート男子(教養ある男子)の美学」だったんじゃないのかな?と、私は理解しています。
・エリート男子の美学というスタンスでの思想が受けた(売れた)ということ自体が、当時を象徴するものであり、社会を論じる上では面白い話ではある。今は、それは売れなさそう。
 
 
7.メタ/ベタ論が一世を風靡した理由
以上のように、メタベタ論を今後どう引き継いでいけるのか、そこからどんな認識利得が得られるのかについては、いまだ分からない点が多いのですが(テーマや場合によって、ときどきすごく有効な時はあります。たとえば、私が昨日書いた記事「00年代東浩紀再考(1)」における「物語を読むという行為そのものが救済につながった」のが近代だという議論は、「物語を読むという行為そのもの」の意味を問題にしている時点でメタの視線をとっています)、
 
彼らがメタに立ち続けた理由、メタに立たないと不安でしょうがなかった理由みたいなものは分かるような気がしています。高度消費社会を迎えた日本の空虚さに対する過剰な意識が、メタ視点へと駆り立てている。
 
たとえば、記述の宮台さんとの対談で東さんはこんな発言をしている。
「私たちの社会には記憶がない。理想もないし伝統もないし目標もない。そのとき、架空の伝統や架空の目標にしがみつくのか、それとももうそんなもの全部忘れてしまうのか。現在の日本では後者しかないわけですよ。だとしたら、大きな伝統や理想などなくても「まったり」と生きられるような記号的差異の戯れを、消費社会の方で適当に供給してあげるほかない。」(東 2007:21)
 
この発言は、あきらかに極端。日本社会には伝統や記憶や理想が「ない」は言い過ぎ(端的に、宮台流の(元々は三島由紀夫的な)悲壮感あふれる態度に感化されたためとも見えるが、動物化の問題性の議論の流れで、こういうことを言ってしまっているのは事実)。日本社会は「空虚」で深みや厚みがない。だから、私たちはこの現実、この社会にどっぷりとつかってそこに安住して、生きることができないと感じていた。だから、つねにベタではなくメタという視点に立とうとする。自分たちがやっていることや自分たちの生は何を意味するのか、どういうことなのかを確定させるためのメタ視点をとろうとした。→メタ/ベタをコードとして「リアリティ」が繰り返し問題にされていく(「虚構/現実」大澤真幸)。
 
 
そう考えると、
メタ/ベタ論って、先ほど言ったように「エリート男子の美学だった」とも言えるのですが、
もっとすごくわかりやすく言うと、「敗戦のトラウマ、思想の断絶、貧しさみたいなものを忘れちゃいけない、しかし消費社会のぬるま湯が気持ちいいのもたしか~」の二極を行ったり来たりして強迫観念みたいになっていた中で生まれた議論だったとも言えるような気がしてきました。
こう考えてくれば、私としてもわかる・理解できるし、やっぱり彼らは重要なことを考えていたなぁと思います。
 
ちなみに、メタ/ベタ重視の態度は、70年代生まれ言論人(例えば、北田暁大東浩紀)の言論を規定している。けど、80年代生まれ言論人(荻上チキ(1981-)さんとか、山川賢一さんとか(1977生まれだけど)、飯田一史(1982-)さんとか)は、メタ/ベタ論から一定の距離を取っている。「メタ/ベタの区別が有効なときもあるということは理解するけど、それが至上命題ではない」と考えているように私には見えます。
 
最後に、文芸評論(サブカル、オタク評論)におけるメタベタ論と同時期に社会学で流行していたのは、社会的構築主義でした。
社会的構築主義:あらゆるものに対してそれって社会的構築だよねと言い、その社会的・歴史的構築性を明らかにするもの。
メタベタ論と社会的構築主義は、どちらもメタ視点に立とうとする点で共通する(現在を離れて歴史的経緯へと遡ることは、現在に対してメタ的立場として機能する)。
 
一通り、社会的構築を指摘し終えたいま、社会学は、「で、構築だって指摘することで何ができるの?」という問いに直面しています。「メタに立ってそれで何なの?」
 
この状況で、私たちはどんな仕事をしていくべきなのでしょうね。
 
 →私の最終的な主張は、「物語に接するときに、私たちは救済されたいと思っているよね?そのあたりの問題を考えようよ」というものなのですが、今回は、その論拠を示すところに至らなかったばかりか、かすりもしなかったので、続きます。
 

00年代東浩紀再考(おまけ)恋愛=実存と思想の連関

おとといからやっている、東浩紀を読み直す作業で発見した、おまけみたいなもの。
 
思想と恋愛(実存の問題)のつながりについて、けっこう私的には示唆的だったので、共有します。私は昨年、現代の若者の恋愛観とか草食化とか、草食化した後の異性愛関係としての添い寝フレンドとかについて論文を書いたのもあって(先週三校を終えたところ、そのうちアップします)、恋愛って何なんだろうかということを考えています。
 
恋愛というテーマは下世話にも面白いけど、実存とシンクロするところがあり、そして「個人的なものの領域」(プライベート)の主要な部分を占めるものだったりもするので、思想的な深みをもたせた議論の展開も可能。恋愛論ってありだな、とこの数年思っています。ジェンダー論にもリンクさせられる主題だし。
 
以下で引用する部分は、東さん、ちゃんと「仕事」してますなーっていう箇所でもある。
 
『コンテンツの思想』(東浩紀、2007、青土社)より引用。

2004年8月11日、新海誠が『ほしのこえ』で一躍有名になり、次の作品『雲の向こう、約束の場所』の公開を目前に控えている段階での、 新海誠西島大介東浩紀の鼎談。

 
東が、新海の作風って、よく言えば「これまでのオタク的な教養の重みから自由に作品を作っているって感じだよね」(大塚英志が新海作品に拒否反応を示すんじゃなくて、評価したってなんか不思議だよね)といった話をした後で、でも、新海さんの作品って、なんか「だだもれ」な感じで恥ずかしくないの?というふうに話が進んできたところ、です。
 
新海:『猫』(『彼女と彼女の猫』)に関していえば、ちょっとプライベートな話になってしまいますけど、その時ちょっといいなと思っていた女の子がいて、その子に見せたかったんですけどね。
 
東:それは、つまり、『猫』と『ほしのこえ』で声をやられている方?それとも違う人ですか?(笑)
 
新海:まぁ詳しく話すとめんどくさくなるんですけど、あの映像は、ラブレターとして機能させたかったので、恥ずかしくなってしまうのは仕方がないんですよね。それとは別に、それを売ってある程度お金を入れたいっていう気持ちもありましたし、それから、ルサンチマンみたいなものもありました。…そういう自分の表現の欲求とプライベートをごっちゃにして、うまいかたちでバランスをとって出したものなんです。
 
東:そういう点では、自分の感情をストレートに出しているわけではない。ところで、ラブレターとしては成功したわけですよね。
 
新海:話をそらしたくなってきましたね(笑)。でも、西島さんはそういうふうに作品を使ったことはないんですか?『凹村戦争』でも、奥様と娘さんへの謝辞が書かれていますよね。
 
西島:わ、ばれてますね。あれは結婚した時の唯一の約束なのです。
 
新海:東さんはどうですか。ご自分の感情が少なからず仕事のモチベーションに直結していたりとかはしないんですか?
 
東:直結してますよ。ただ、思想とか哲学という関係上、新海さんのようにはなっていませんね。抽象化することで守っているんですよ。
 
西島:なにをですか?プライベートをですか?
 
東:僕の場合は、写真を出したくないとか、家族構成の情報を出したくないとか、そういう点でプライバシーを守ろうという意志はあまりないんですが、感情の動きをそのままダイレクトに言葉にするのは嫌なんですね。
それをのぞけば、僕の仕事はかなりダイレクトに実存的な悩みとつながってますよ。例えば『存在論的、郵便的』という本がありますが、あれは要は、他人を「単独的」に理解するとはどういうことなのか、つまりは愛するとはどういうことなのかという動機で始まったようなものです。そして実際、あれを書いていた時は僕はずっと一人の女の子と付き合っていて、にもかかわらず相手を愛しているかどうかわからない不安定な状態で悶々としていたわけですね。だからも、自分で読み返すと、そのまんまです。
 
西島:おお、みんなやっていることなんですね。ステキだ。
 
(『コンテンツの思想』(東浩紀編、2007:57-59)   

 

うん、なんていうかニヤニヤしていただければ。

実存と絡んだ思想こそ、ひりひりしたものがあって魅力的ですよね。

 

 

私は、『猫』を↓のアマゾンで見ました。『ほしのこえ』と同時配信になっています。

新海作品のたまらなくよいところは、抒情性(だだもれ感)とテンポの良さだと私は思っています。それはずっと初期から一貫しているんだなーということがわかる、良い作品です。

 

00年代東浩紀再考(1)「大きな物語からデータベース消費へ」を受けて2010年代現在考えるべきこと

1.はじめに
 
私は高校生から学部生時代に小林秀雄柄谷行人吉本隆明江藤淳をけっこうがっつり読んできました。大学院生になった頃、そろそろ時代順でいくと大塚英志東浩紀あたりかなーとなったのですが、なぜか当時は大塚さんや東さんが読めなかった。
理由は、たんてきにいえば彼らの議論と自分(2000年代20代女子ととりあえずアイデンティファイ;このブログ内の文章だし)とをつなげるフックが見つけられなかったから。
(逆に、なぜコギャルとか援助交際とかメンヘラといったキーワードで語られていた20世紀末の女子高校生が、小林秀雄や柄谷や吉本の議論を強く自分とつなげて考えられたのかの方が、大きな謎のような気もしますが、それは今回のテーマではないので割愛。)
 
しかし、最近、オタクサブカル日本論へのフックが私のなかで見つかったのです。『〈美少女〉の現代史』(ササキバラゴウ、2004)の影響が大きい。80年代に戦闘美少女絵とロリコン絵を開発した60年代生まれ第一オタク世代って、実はかなり深いところで――つまり実存的問題として――、フェミニズムを彼らなりに取り込んだらしいということに、この本を読んで気づいた。
 
そういえば、大塚英志江藤淳と少女フェミニズム的戦後:サブカルチャー文学論序章』([1998-1999]2001)という本もあったな。これ、キッチュなタイトルだけど、タイトルですべてを語っている…(←色々議論すべきいい本です。)
 
彼らは、先行世代の「おっさん的」感性(セクハラとかを平気でする、サブカル作品内では女性にはお色気要素しか求めない)に対抗するために、少女マンガを読んで少女の内面を理解しようとし、少女文化を重視し、「少女」主体は高度消費社会を軽やかに生きる新しい主体のあり方だと称揚した。これは、彼らなりのフェミニズム消化の結果だったと思う。
 
だから、60年代生まれ第一オタク世代と、それに続く、70年代生まれの第二世代、80年代生まれの第三世代(これ、東さんの区分)…がどのような女性像と男性像を作ったのかということをきちんと見ていくのって、重要だなーと思い始めた次第です。
 
もちろん、現実に生きていると、60年代生まれ男性の女性像に「はへ?」って思うときはたくさんあるわけですが、しかし、フェミニズムの何をどう理解し、どういう経路で、そういう女性像/男性像(自己像)になったのかを理解しておくことは、議論を組み立てる上でも重要だな、と。
 
 
というかんじで、フックが見つかったので、おとといから東浩紀さんをまとめてがーっと読んでいます。
以下、私的メモのなかからいくつかだけ共有しておきたいと思います。
 
 
 
2.「大きな物語からデータベース消費へ」の問題点
大きな物語からデータベース消費へ」っていうパラダイム整理は、東さんの仕事のなかでも、その後広く引き継がれた重要なものでした。 
その原本を読み直してみると、今になってはじめて気づくこともある。良い仕事を読み直し、その問題点について考え、そして今後、自分がどういう仕事をしていこうかと考えることほど、楽しい作業はないですよね。というわけで、以下それをやります。
 
動物化するポストモダン』(2001)や『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)によく出てくる、この図がmisleadです。
 
 
問題点1
この図だと、「大きな物語」が「データベース」にとって代わられただけのように見える。
→しかし、実際には深層と、表層の「小さな物語」、「私」の3つの項の関係の仕方が変わったはず。
 
問題点2
私たちは近代(ツリー・モデル)においても、ポストモダン(データベース・モデル)においても、「小さな物語」を通してしか深層に到達できない。概念上、深層/表層はそうとしか定義できない。であるにもかかわらず、表層の外を通って、私と深層が直接関係できるかのような太い矢印が出ている。
→私が表層を通して深層とどう関係しているのかを図式化すべき。
 
 
 
3.魂の救済としての物語消費行動 
図の修正作業とかは省略。大学の授業でもし使うことがあったらその時作ります。
以下、私はこう考えるという議論。
 
近代(ツリー・モデル)において、深層にある「大きな物語」とは、例えば国民国家という一体感・連帯を醸成するような物語、政治的イデオロギー、科学的真理、神の理など。私は科学者なので、私にとっての「大きな物語」は「真理」だと言うとかなりしっくりきて、我がこととして考えられます。
私たちは、それらの「大きな物語」を読み解くために、表層の「小さな物語」を書き、読む。
 
真理への到達は、私たちにとって、魂の救済に近い機能を果たす。情熱をもって政治活動をしている人や学問に打ち込んでいる人は、たぶん、真理への到達が魂の救済だという話に同意してくれるでしょう。で、そういうパッションを信じていない人でも、「ある最終目的地点というのがあって、それに近づくための地道な一歩を踏んでいるときの充実感とか満足感ってありますよね」といえば、「それならわかる」と言ってくれると私は信じています。「魂の救済」といったら大げさかもしれないけど、「意義ある行為」、「人間的成長」くらいには思ってくれますよね。
 
近代(ツリー・モデル)においては、小さな物語を読むことは、その深層にある大きな物語の解明(真理の解明)につながるので、小さな物語を読むという作業そのものを通して、私たちは救済される。
 
それに対して、ポストモダン(データベース・モデル)においては、「私」は深層にあるデータベースを使って、表層の小さな物語を読み、キャラクターの組み合わせ順列的なカップリングを楽しみ享受する。表象で戯れることしかできなくなる。物語を読みながら、読むという作業を通して魂が救済されるということにはならない。「萌え」ることで性欲を満足させることはできるんだけど、根本的なところで救われる感がない。だから「戯れ」とか「遊び」とかいうような言葉で表現されることになる。
 
データベース消費になると、個人は物語を読むということを通して時間つぶしはできるが、「実存的に救済される」ということがなくなる。これがデータベース消費の衝撃だったのでは。少なくとも、私にとってはこれがデータベース消費の衝撃。
 
 
・2000年初頭当時は、表層で戯れるのがシュミラークルで、リゾームでかっこいいんだよ、という風潮だったので、こういう重たい話(物語によって実存的に救済されるということができなくなっちゃって、悲しいよねという話)はカッコ悪いので忌避されました。2010年代も後半の現在だからこそ言える議論だし、いま真面目にもういっかい「大きな物語からデータベース消費へ」というような話を考えるのであれば、考えるべきはこのあたりの問題――私たちは物語に接するときに救済されたいという欲望を持っているよね?――ではないかと、思っています。
 
 
物語に接することと救済という視点は、教養主義的読書から、2010年代のウェブにラノベ投稿する10代少年少女の物語関与の仕方まで、広くカバーできる点で、良い視点なんじゃないかなと思っていたりします。
 
80年代のオカルトブームが90年代のオウム事件に結実した結果、00年代は、「実存の問題」ぐらいは言えても、「魂の救済」とかは言いにくいという風潮があったような気もしていて、私たちは救われたいと思っているよね、というあたりの議論が手薄になっていたような気がします。これを社会学として展開するのは、非常に困難で、へんにアクロバティックな議論にしかならないので、文芸批評とかサブカル批評がここらへんの問題(魂の救済としての物語消費?)をきちんと考えるといいんじゃないかなー。
 
 
 
 
一足で、理論編の結論まで言ってしまいました。
以下、なぜ「救済」を問題にすべきなのかについて丁寧に話を展開したいと思います。
 
 
4.『動物化するポストモダン』の検討へ
大きな物語からデータベース消費へ」と変化すると、時間を費やして物語を視聴するという行為そのものを通して救済されないという問題が生じるんだよね、それでいいんだろうか、ちょっと悲しい気持ちがしないだろうか、というのが、ここまでの議論でした。
 
これに関連する東さんの議論として、
ポストモダンになると、人間は動物化するのだけれど、それでいいのだろうか?というのがある。
 
というわけで、次の記事では、東浩紀ポストモダンにおける「動物化」の議論について、考えます。
 

ポストフェミニズムとは――Ana Jordan(2016)の定義――

フェミニズム、アンチ・フェミニズム、ポスト・フェミニズムの違いを概念化してくれている論文を紹介します。

 Ana Jordan, 2016, “Conceptualizing Backlash: (UK) Men's Rights Groups, Anti-Feminism, and Postfeminism”, Canadian Journal of Women and the Law, vol. 28, No. 1:18-44.

 https://drive.google.com/open?id=1mh3tR2DEYSxwIq9tBYOBNOsyyOO4dFw4

 

論文概要: イギリスで最もよく知られている父親権利運動(father’s rights group)である「(Real)Fathers 4 Justice 」(RF4J、2002-)のメンバー9人(男性8人、女性1人)へのインタビュー調査に基づいたフェミニズムバックラッシュ(アンチ・フェミニズム)/ポスト・フェミニズムの概念化。

 

 

ジョーダンは、経験的主張/規範的立場の2つのレベルでわけて、以下のようにまとめているのですが、

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Jordan 2016:33

 

私は、「経験的主張」は「現状認識/実践」を区別した方がより分かりやすいと考えるので(カント主義者なので)、規範/認識/実践の3つの次元で整理しています。

 

表 - 1「フェミニズム」、「アンチ・フェミニズム」、「ポスト・フェミニズム」の違い(Jordan (2016)を参考に高橋が作成)

 

フェミニズム

アンチ・フェミニズム

ポスト・フェミニズム

規範:ジェンダー平等は望ましい目標

×

 

認識:現代社会においてジェンダー不平等がある

女性が不利益を被っている

男性が不利益を

被っている

×

ジェンダー不平等はない

 

実践:集合的・政治的なジェンダーポリティクスが必要

集合的なフェミニズム運動が必要

集合的なアンチ・フェミニズム運動が必要

×

ジェンダーは政治的な問題ではない

 

・初出:日本女性学会大会(2018年)報告「『Can Cam』の「めちゃ❤モテ」に見られる2000年代日本のポスト・フェミニズム」(高橋幸) 

 

 

――――

その他、Jordan(2016)論文に関するメモ

・インタビュイーの属性:F4JのブランチのRFFJに属する、ホワイト・ブリティッシュで、専門職についている、30代から60代の半ばまでの人たち。。

 ・バックラッシュ(=アンチ・フェミニスト)的な性質と、ポスト・フェミスト的な態度の人とが混在。バックラッシュの人たちは、フェミの思考法(”The personal is the political”とか)をけっこう取り入れて使っている。

 時間ができたら追記します…。