ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

ポストフェミニズムとは何なのか

本ブログ運営者は「ポストフェミニズム」をどのようなものとして考えているのか?を手っ取り早く知りたい方は、

WAN『女性学ジャーナル』内の「若い女性の「フェミニズム離れ」をどう読み解くか」論文をお読みください!

https://wan.or.jp/journal/details/8

 この論文の内容を一般向けに書かせていただいた記事として、

『現代ビジネス』内の「「フェミニズム離れ」する若い女子が抱いている違和感の正体:ハッシュタグ運動から見えること」があります。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65223

 

また、ポストフェミニズムについての本『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど:ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』が2020年6月30日から発売中です。 

 

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規制の問題を考えるときには、まずは「わいせつ」と「性差別」を区別しよう:堀あきこさん「性表現の規制をフェミニストは求めていない」(基礎文献1)を読んで考えたこと

wezz-y.com

1.「わいせつ/性差別」の区別は重要

まず、堀さんは「わいせつ」と「性差別」を区別されています。これ重要です。

堀さんの議論によると、性器表現などの「わいせつ」は法規制されてきたが、フェミニズムにとっては「わいせつ」を規制することは、弊害の方が大きい。それに対して、「性差別」はこれまで法規制の対象になってこなかったが、現在*1ツイッター等での炎上が頻発しているところのものである。

 もう少し詳しく整理すると、こういうことになります。

 

法規制

自主規制

わいせつ

刑法175条で規制されている

(これ以上の法規制強化にならないように注意した方がいい。なぜなら警察権力や国家権力の増大につながるので。その意味で、青少年健全育成条例とか、児ポ法とかに対して、注意を払い続ける必要あり)

 ー

性差別

法規制はせずに、市民同士の話し合いによる相互理解を深め、合意形成をしていくのが重要。

出版業界団体(例えば、出倫協)の出版倫理での記載あり。

広告や公共広報に関する地方自治ガイドラインあり。

で、堀さんによると、青少年健全育成条例有害図書指定の場では、「わいせつ」の問題ばかりを議論していて、「性差別」については考えることができていないのが問題である(と読解したのですが、なにせ私は有害図書指定関連の議論を今勉強しているところなので、詳しいことをまだきちんとは理解していません。すいません)

 
このように「わいせつ」と「性差別」の違いを踏まえた上で、私(高橋)はとくに、広告表現の規制について考えてみたいと思っています。なぜなら、最近の萌え絵広告炎上問題は、広告表現の問題だからです。
 
私は、広告表現に関する規制も法規制の枠組みではやるべきではないと思っています。しかし、広告業界団体の自主規制や、広告に関するガイドラインの議論を活性化させて何がどう「性差別」表現なのかを明らかにしたうえで、規制をやっていくということはありうるのではないかと思われます。
実際に、日本のJARO日本広告審査機構)のモデルとなっているイギリスのASA(The Advertising Standards Authority)は、すでに広告における性差別表現の規制をやっています。
JAROとASAの仕組み等については、別エントリーで書きます。
 
日本でここまで広告における「性差別」表現が話題となり、さらなるアクターを巻き込みながら議論が拡大している現状を踏まえますと、広告の性差別表現の自主規制というあり方は一つの手の打ち方(対処策)としてあるのではないだろうか。
*「性表現の規制をフェミニストは求めていない」という文献を読みながら、広告における性差別表現の自主規制はありなのではという考え方を提起する私もどうかと思いますが(文章が読めてないとか、表面的読解とか、不勉強だとかいう誹謗中傷を投げかけられて、いろんな人に怒られそう…)、しかしめげずに続けましょう。

*実際には、広告の自主規制コードとか作らずに済むなら、その方がいいのではないかと思います。なるべく文面化・分節化しなければ、誤って法規制に悪用されてしまうリスクも少なくなるしねぇ。ここは本当に悩ましいところだなぁ。

 
2.
次に、堀さんの議論においては、文脈や意味づけの問題なのだということが、何回か強調されています。私は、堀さんが考えた地点からさらに次の一歩を踏み出したいと考えていて、とくに「文脈」や「背景」とおっしゃっているところを、何とかもう少し明確化し、なんらかの「基準」として提起できないだろうかということを考えています。
 
大切なのは、性的な意味合いを持つ表現技法がどんな風に使われているのかという文脈の問題です。成年コミックがエロいのはダメじゃない。「いやらしいからダメ」ではないんです。
 難しいのが、何が性差別表現なのか、「この表現は差別!」と区切れるようなものではないということです。どのように女性が表現されていて、それはどんな所で使われているかなど、社会的な背景の中に置いて批判がされるからです。 
 女性表象への批判は、この「ほかの理由とあわせて」という文脈の問題と、表現技法の問題がからみあっています。表現技法への批判として、身体を立体的にみせる陰影のつけ方、ポージング、困り顔、頬の紅潮、肌に張り付くような服装といった表現が指摘されてきましたが、こういう技法は性的な作品だけに使われるものではないので、使い方の問題だと思います。 
「文脈」や「背景」を明確化する一つの方法として、何が性差別なのかの目安(基準)を提示するというのがあるかも、という見通しを今のところ持っています。
(本来なら、「文脈」や「背景」と言われているものが何なのかを明らかにするためには、「こういう場合のこれが問題」という「場合分け」を無数にやりながら議論を積み重ねていくのがいいと思いますが、あえて違う道をとってみる。そういう思考実験もあると、議論が豊かになるかもしれないと思うので。)

 

 例えば、公共の場に何を置いて良くてよくて何を置くのはよくないのかの目安(基準)を決めることができるのであれば、そうするといいのではないか。 

 

広告における目安や基準を決めることは、広告の規制につながりやすいので、それ自体よくないと考える人もいると思います。従来のリベラルフェミニズムも、基本的に「規制は反対」という立場をとってきました。

しかし、1で述べたように「わいせつ」を規制することと、「性差別」を規制することは異なります。そして、広告の「性差別」表現を、非・法律的に規制するというやり方は、もしかしたらフェミニズムの原理に基づいて支持できるのかもしれないぞと考えました。

この後者のフェミニズムはなんと名付けましょうかね。さしあたり、ラディカルフェミニズム批判的に継承しているという意味を込めて、ネオラディカルフェミニズムとでも呼んでおきましょうか(ネオを付けてもラディフェミと言った瞬間にリベフェミと対立するものという先入観が働くかもしれずそれは避けたいな、どうしようかね。うーん、ま、命名の精度を上げるのは後回しで)。

 *広告の性差別表現の非・法律的な規制におけるネオラディフェミとラディフェミの違いは、ネオが「性道徳」に基づいて規制を要求するのではなく、それが性差別表現だから広告表現としての規制を要求するというところにあります。この違いが重要な点なのですが、そのためには「性差別とはなんぞや」を説明しないと伝わらないと思うので、いまは理解していただかなくてもOKです。

 

さて、公共の場に何を置いて良くてよくて何を置くのはよくないのかの目安(基準)を明瞭化することができるのであれば、そうするといいのではないかというのが、私の提起でした。これについて表現の戦士さんたちはどう反応するでしょうか。

考えてみると、表現の戦士さんの中にも2種類ありそうな気がします。ナイーブな(=素朴な)タイプの表現の戦士さんと、よく考えている表現の戦士さんです。ナイーブタイプは「すべて規制は悪だ、今の状態から何かを禁止する必要はない」という立場をとるでしょう。しかし、よく考えているタイプの表現の戦士さんのなかには「ダメなものの基準を明瞭にしてもらった方が、むしろ自由だ」と考える人もいらっしゃるのではないかと想像されます。

もしそうだとすれば、案外、後者のフェミニズム(性差別表現は広告業界で自主規制するのがいいかも)と、後者の表現の戦士さん(何がダメなのかの基準が明瞭な方がより自由かも)は、「広告における性差別表現の基準を明らかにしよう」という点で手を取り合うことができるかもしれません。

→「何が性差別なのかの目安(基準)を明瞭化する」という課題にすでに着手されている論考として、小宮さんの論考があります。こちらについては、別稿で考察します。

 *なぜ私が基準の明瞭化をすればいいんじゃない?ということを言っているかというと、基準に関する市民的議論をすることで、小宮さんがもう一つの論考「なぜ表象はフェミニズムの問題になるのか」の中で言っている「認識的不正義」の解消の一歩になるからです。

だから、私個人としては全くもって実際に規制をしたいわけではない。(でも、こういう議論はやればやるほど、規制のための道を作っていくことにもなる。いまはまだ獣道を作っているくらいの状態だけど、基準を明瞭にすればするほど、悪い人に悪用されて規制のための法律とかに転用されかねない。だから、実際のところはかなり慎重にやるべきだと思う。)

 

*例えば、公共の場におかれる広告における性差別表現のガイドラインとしては、私が今のところ考えついたのは、

・スカートはべた塗りしましょう とか、

・スカートは短すぎないようにしましょう とか

・肌の過度な露出はさけましょう(「過度な露出」→「理由のない露出」(小宮)でもいいかも) とか

 ・不自然な高揚感を示す、ほほを中心とした顔の赤らみは抑制しましょう とか(笑)

・服が身体に過度に張りついたり、身体のラインが強調されたりしないように注意しましょう とかですかね。

なんか学校の制服に関する校則みたいになってきた…。そのうち、ポスターに描かれる高校生は、髪の毛が肩についたら結びましょうとか、バックは変な持ち方をせずに正しく持ちましょうとかになるのかしらww いやそこは性差別にはかかわらないからいいのか。

 

3.
最後に、ここまで「わいせつ」と「性差別」の区別を踏まえて議論しましょうと言ってきましたが、そもそも、私は堀さんが言うところの「性差別」というのが何なのかを明らかにしたいという欲求もあります。
ポスターやイラストの女性表象への批判に対し、「絵と現実は別物」「オタク男性の視線は三次元女性に向いていない」という反論がされます。たしかに、ファンタジーとリアルは同じではないけれど、まったく無関係ではないです。そして、ジェンダー不平等な社会で生きる女性にとって、実写もイラストも性差別であるという点は同じなんです。
「実写もイラストも性差別」というときの「性差別」とは何を指しているのかを、もう一歩具体的にできるといいなぁと思いませんか、思います。
実写とイラストの関係がアンチフェミさんたちの主要関心ごとの一つにもなっているようなので、そこも自分なりに整理できるところまで整理して言語化したいなと思っています。 
 
「性差別とは何か」という問題に関するとっかかりとしては、こういうことを考えています。これまで一般的に、sexual discriminationやgender discriminationは「性差別」と訳されており、sexismも「性差別」と訳されてきました。でも、後者は、性区別主義くらいの方が文脈的に適切な時もあります。例えば、私が『現代思想 フェミニズムの現在』(2020年3月臨時増刊号)で詳しく書いた「好意的セクシズム」は、「好意的性差別」と訳してしまうと強すぎます。強すぎるというか、何のことを言っているのかよくわからなくなるところがありますので、がんばって訳すとしたら「好意的性区別主義」などと言う必要があります。
ちなみに、好意的セクシズムとは、相手のことを「男性として」とか「女性として」褒めるという行動がもたらすセクシズムのことを言います(詳しくはお読みください)。
 
racismを人種差別と訳してきたのと同様に、(↓たとえば)
 
sexismも性差別で通用してきたのですが、

ejje.weblio.jp

 私個人としては、「性差別」という表現は強すぎる時があると感じています。強すぎるがゆえに無駄な反発を引き起こして議論が拡散し、不毛…もしくはぐるぐる回りになっているところがある。

日常生活で考えてみてもね、今どき「あなたの今の行動は性差別的だ」って言われたら普通、人は、人格批判されたと思いますよね。そして「何か失礼なことをしてしまったかもしれないが、「差別」はしていないぞ!」ってすごくかたくなな態度になってしまうわけです。それくらい「性差別」という言葉は日常で使うには重たい。もちろん、そう言う必要があるときもあるのですが。したがって、「性差別」とか「女性差別」と言われてきたところのものをより細かく整理し、その上で適切な言葉を使った方がいいのではないかと思っています。

→これについても、別稿で整理することにしようと思います。
 
以上、ともかくも堀さんはとても大事なことを考えていらして勉強になりました、で、そこからこういうことを考えましたので、今後これらについて議論を発展させようと思っていますという話でした!
 
*11月24日追記。1の図表を挿入したり、色々書きたしたり、てにをはを整えたりしました。

*1:私は、萌え絵炎上が頻発していることは、#MeTooインパクトの一つと言える気がしてきました。2010年代後半は、性暴力や、性的対象化の暴力性に対して敏感になった時期だったといえそうです。英語圏の#MeTooやTime's Upは、各界の実在の大御所男性を引きずり下ろしたのに対して、日本の#MeTooは広がりが弱かったと言われてきました。しかし、日本では実在の人ではなく表象を燃やしているのかもしれません(このような日米の差をフェミニストは、日本のフェミニズム運動の弱さや日本女性の社会的地位の低さと解釈しがちだが、それはちょっと論理飛躍があるような気もする。実証するにはもう少し間を埋める論理とデータが必要)。いずれにしても、これまでの社会において「普通」「当然」「自明」とされてきた慣習や人間関係のなかに、女性やセクシャルマイノリティにとっては不快なものがあるということを指摘する声が高まっているという状況は、日本語文化圏と英語圏で共通して起こっていることと言えます。 

#シンこれフェミ にご参加のみなさまへ(ご挨拶&ウェルカムメッセージ)

1.自己紹介
#シンこれフェミ にご関心を持っていただきありがとうございます。
私、高橋幸は、フェミニズムを研究している人間です。
アカデミックの世界に15年くらい住んでいる関係で、
日本の学的なフェミニズムで、「だいたい」どんなような議論がなされてきたのかを知っているところが、私の強みであり、今回呼んでいただいた理由もそのあたりにあるようです。
つね日頃ツイッターをチェックしている人間ではないので、当日は「その用語は知らない」というようなことがあるかもしれませんが、その場合は、どなたか教えてください。
 
「女性」は一枚岩ではなく、 「フェミニズム」も多様なものとしてあります。
だから、私の考え方は、フェミニズムの「代表」ではないですし、これが「アカデミックに正しい」ということでもありません。ただ、私はこのような論理で考えているということは喋ることができます。
 
そもそも、社会運動や市民の抵抗運動は、首尾一貫した論理に基づいて主張をしなければならないとは考えられてきませんでした。だって、権力によって抑圧されていたり、社会的マイノリティだったりする人たちに、「現状の社会を批判するならそのオルタナティブを出せ」と要求するのは、酷なことですよね。それは実質的に声を上げるなと言っているのと等しくなってしまう。だから、いま声を上げている「フェミニスト」の全員が、理路整然とした論理に基づいて主張しているとは限りません(し、それは別に悪いことではありません。近代社会の市民とはそういうものです)。
ただ、私は、フェミニズムが結局のところ何を要求していて、どういう社会を理想として思い描いているのか」を、現状できる範囲で理路整然と明らかにしたいという欲求をなぜだか持っている人間です。それゆえ、このような討論会の場で喋るには適切な役回りだということになるのかなぁと思われます。
 
私個人としましても、フェミニズムの内部だけにとどまっていると、論理飛躍や論理展開上の穴とかに気づきにくいということがあるので、違う意見の方の疑問や質問——例えば「フェミ」が言うことのココがわからないんだよね(論理飛躍があると思うんだよね)というような点——を聞かせていただいて、今後さらに考えを深めていきたいなぁと思っている次第です*1
 
 自己紹介を続けると、
私は自分のことを文化派フェミニストだと考えています。対義語は社会派フェミニストです*2
社会派は社会的正しさや政治的運動を重視し、したがって自分の研究や発言の政治的効果を重視する傾向がありますが、文化派は道徳的・政治的正しさよりも、文化的な意味の厚みに面白さを見出すタイプです。
 
ツイッターフェミニズム活動している方は社会派が多いのかなという「印象」を持っており(強調の意味の「」です。「あくまで印象!」という意味)、青識さんをチェックしているみなさんが日頃、目にしている「フェミニスト」の議論の仕方とは異なるところがあるかと思いますが、そういう人もいるんだなーと思っていただけるとありがたいです。
  
2.さて、何を討論しようか。論点は。
討論会の式次第は、すでに主催者さんが出してくださっている通りで、末尾に載せますが、みなさんが知りたいのは、おそらく、青識さんと高橋と(あと、坂爪氏にも絡んでもらおうと思ってますが)でどのような議論が期待できるのかですよね。
 
まず、私は「表現の自由」に賛成の立場です。
ですから、「フェミニズムー対ー表現の自由戦士」という対立構図はミスリーディングmisleadingです。
その意味で、堀さんのこのタイトルの記事は、超重要。(基礎文献1)
 
「性表現の規制をフェミニストは求めていない 堀あきこさんインタビュー」
 
そして、志田さんがおっしゃっているように、法規制は最後の手段であり、それ以前にやれることや、やるべきことがあるという主張に、私も賛成(基礎文献2)。
 
志田さんの記事より引用します。 例えば、こういう点に賛成です。
児童虐待家庭内暴力(DV)の問題は緊急を要する課題である。こうした行為を助長するおそれのある表現を規制するという話の前に、この問題に対しより直接的な方策をとり、必要な財源を割り当てる議論をするほうに問題意識を集中させるべきだろう。
国の政策努力が「表現規制」という比較的容易な課題のほうに流れ、現実の虐待問題解消に向けた、支援的・福祉的取組みが疎かになってはいけない。
 
 以上のような前提(高橋は「表現の自由」に賛成という前提)を踏まえた上で。
 
例えば、第2部で話題にするもののうち、いまのところ、人工知能学会「家事をする女性型アンドロイド」のイラストと、②宇崎ちゃんポスターについては、その問題性をある程度明瞭に説明できそうです。
なので、もうその話は飽きたよ、といわずに、ぜひ聞きに来てください。
これだけ話題になったものに関しては、ちゃんと考え切る(もしくは繰り返し考える)ことが重要なのではないかと思います。
 
とくに、宇崎ちゃんに関しては、青識さん(現在、猫識ニャ論さん←すんごい、かわいすぎるんだけど、なんなんだ!さっき気づいたよ。トランプが勝ったらなるんじゃなかったの?トランプが負けを認めてないから、とりあえず猫識になったの?ともかくかわいい)が力のこもった文章を書いておりますので、これを批判する形で議論をすると、お互いにヒートアップできて面白いかなぁーと思っています!(今から準備するけど、赤十字社の歴代オタ向けポスターはデータとして収集したよ。ユーモアあるポスターが多く、相当自由やなぁって感じで面白いよ)(基礎文献3)

note.com

ところで、↑ここでの議論の、小宮さんの論考の扱い方に関して、論理飛躍があるよね?

「論理飛躍がある」は別に人格批判ではなく(書き手への不信感の表明とかでもなく)、私がそう感じられるということは、私たちの理解(文脈や背景に関する理解や、小宮論考に関する理解)がズレているということなので、議論のなかで、そこらへんも明らかになればなと思います。

・ちなみに、小宮論考をめぐる江口さんのブログ記事(全11回)も読みまして、江口さんが「わからない」といっているところは、バックグラウンドが社会学ではなく倫理学だからなのではないかというのが、私の結論です。(具体的に言えば、例えば、ウェーバーからシュッツが引き継いだ「理解社会学」の考え方と新たに確立した「シェーマschema」という概念を、江口さんが知っていれば、江口さんは「小宮さんが言う「理解」という言葉が理解できない」とは言わないのではないか、など。すいません、細かい話に入りました。これは別立てで議論すべきですかね)

分かりやすく言っておくと、私は、小宮論考はほぼ問題ないと思う。小宮さんいいお仕事をされていて偉い。本にして後世に残してほしい。そして、青識派(現在猫識派)のみなさんは、小宮さんに下記の現代ビジネスの論考(基礎文献4)を書かせてしまったことで、自分たちの首を絞めたのでは?と思っていますがどうなのでしょうか。(いや、詳しい経緯は分からないし、普通に考えて、べつに猫識さんたちが煽ったがゆえに、小宮さんがいいお仕事をされたとかそういう因果関係ではないのだろうとは思いますが。まぁ、これはセンシティブな話で詳しいことを文面に残しておくと問題もあろうから、討論会の中でお喋りしましょう。)

gendai.ismedia.jp

 

キズナアイちゃんは議論しにくいんですが(なぜなら、すんごいかわいいという個人的感情が入ってしまっており、もはや、かわいい動物動画と同じだよねと言いたくなってしまうところがあって、これはいかん…フェミの立場からの論理構成は重要)、当日まで、もう少し色々調べて考えておいてみます。

 
④ 3つの地方自治体・公共交通系キャラの話は、それぞれに局所的・地域的な細かい文脈があり、その意味で議論を始めると膨大な時間を費やす必要がありそうで、二の足を踏んでいますが、これについても、当日までもう少し考えて整理できそうだったら整理しておきます。
 
  

 

<当日のタイムスケジュール予定>

16時45分 ズーム受付開始~諸注意

17時00分~17時50分(50分) 第一部

・開始の挨拶~今回の開催趣旨の説明(坂爪)

・ゲストの自己紹介(青識さん&高橋さん)+『「許せない」がやめられない』に対するご感想

◆これからの萌え絵と正義の話をしよう(青識さんの発表:20分)

1.2019年11月の『#これフェミ』が目指したもの

2.『#これフェミ』によって変わったこと、変わらなかったこと

3.フェミニストとアンチ(オタク・表現の自由戦士等)の対話、その可能性と限界

4.何が対話を阻んでいるのか(フェミニスト側の問題点、アンチフェミ側の問題点)

◆「フェミニズムはもういらない」とみんないうけれど。(高橋さんによるミニ講義:20分)

1.フェミニズムのこれまでと現状(アカデミックフェミニズムからの見え)

2.フェミニズムは何を目指しているのか?の整理

3.「フェミニズム表現の自由戦士」の現在の論争点

4.アカデミズムの世界から見た、ツイッター上で「フェミニズム」「フェミニスト」として語られているものに対する違和感+「表現物の炎上」と「それに反対(抵抗)する人々」への所見 


<5分間休憩>


18時00分~18時50分(50分) 第二部

◆ネット論客と研究者が一緒に振り返る、公の場での性表現と萌え絵をめぐる炎上事件簿(25分)

2013年 人工知能学会「家事をする女性型アンドロイド」のイラストが炎上

2014年 三重県志摩市の海女の萌えキャラ「碧志摩メグ」が炎上

2015年 岐阜県美濃加茂市観光協会とアニメ『のうりん』とのコラボが炎上

2016年 東京メトロの「駅乃みちか」を萌えキャラ化したイラストが炎上

2018年 バーチャルYouTuberキズナアイ」の炎上

2019年 『宇崎ちゃんは遊びたい!』献血ポスターの大炎上


◆「フェミニストとアンチフェミの対話の場を作る」ために必要な条件とは?(25分)

・オタクに欠けていた視点、フェミニストに欠けていた視点

フェミニスト内での価値観の違い・・・アカフェミ(学問)・ツイフェミ(SNS)・ラディフェミ(社会運動)、それぞれの立ち位置と緊張関係

・性別役割と性的魅力の「分節化」

・現代を生き抜く戦略としての「アンチフェミニズム」?

・性的モノ化「からの」自由、性的モノ化「への」自由

フェミニストとオタクの「紳士協定」は可能か

・対話を実現するために、フェミニスト側に求められることと、アンチフェミ側に求められること・・・など

18時50分~19時30分(40分) 第三部 参加者との質疑応答
 
 
 とりあえず、今日はここまで。
というわけで、どうぞよろしくお願いいたします。
 
日本語文化圏(日本社会)をこれからも共に生きていく者同士、色々議論していきましょう。こういうかんじの議論なんだったら、行ってみようかなという方のご参加も、お待ちしております。 

*1:おそらく、アンチフェミとフェミの意見の違いは、現状認識レベルのズレ、理想(規範)レベルのズレ、実践レベル(どのような行動が正しいか)のズレの3つとして大きくは整理できるのだろうと思っています。

*この3つのレベルで区別して議論するやり方は、拙著『フェミニズムはもういらないと、彼女は言うけれど』のp.13で、具体的にやっています。

*2:文化派フェミニスト/社会派フェミニストは、高橋の造語です。

研究室の仲間と飲みながら喋っていた時に、「社会学者って、社会派と文化派がいるよね」という話になり、その会話から借用しています。

坂爪さんのコーディネートによる青識さんとの討論会をなぜやるのかについて(フェミニズム研究者向け)

坂爪さんのコーディネートで、青識さんと討論会をします。
高橋が出ていく理由
1、坂爪本に良い意味で煽られたため:坂爪さんの今回の新刊本『「許せない」がやめられない』(2020)に煽られたところが一番大きいです(笑)。
坂爪さんは、今回さらに新しい一歩を踏み出しておられまして、同書では「女が許せない」「男が許せない」「LGBTが許せない」という立場をとる人々によってどのような議論がなされているのかをまとめて下さっています。
で、これらの人々を「ジェンダー依存」に陥っている人々と呼んだうえで、坂爪さんは次のように述べている。
ジェンダー依存の人に寄り添っていく自助グループや支援団体の立ち上げは、これからのフェミニズム男性学クィアスタディーズに課せられた使命ではないだろうか。
ミソジニストに届く言葉を生み出せなかった男性学、ツイフェミの跋扈を防げなかったフェミニズム、ターフたたきや当事者の二次利用によって多くの被害者を生み出してしまったクィアスタディーズにできることがあるとすれば、ジェンダー依存の人を否定・排除することではなく、同じ言葉や痛みを共有する「隣人」として、彼らと細く長いつながりを作り続けることではないだろうか。(p.279)
(「なぜ「すべて(=ジェンダーセクシュアリティ界隈の多くの人)」を敵に回すようなことをあえて言うのだろうか、この人は」という気持ちを持つ方もいらっしゃるかと思いますけど、そこは上野千鶴子先生のまな弟子ですから、血は争えません(笑、何の話だ、せめて血ではなく知か?(でも、社会学の場合はとくに研究室を聞くととりあえずのバックグラウンドが分かるみたいなところはあって…以下略))
私としましては、すべてを敵に回しても一つの正しいこと(=自分が信じたこと)を言おうとする坂爪さんの姿勢は尊いものだと、心打たれてしまいました。
 
上記の坂爪さんの主張そのものに賛同するかどうかは置いておくとしても(もう少し穏当な言い方はできそうとか、色々確認した方がよさそうとか、そういう細かいことはあります)、SNS上で坂爪さん自身傷つきつつ、同様に自他ともに傷つけあっている人々を見て、一冊本を書きあげたことは本当に偉いことだなぁと思うし、こういうひどい状況にあるのにそれを静観しているフェミニストは何なんだ? という訴えに、たしかにそうだよなと納得してしまったわけです(こういうのを煽られたというのではないかと思います、たぶん?)
 
「いやいやいや、『静観しているフェミニスト』だけじゃなくて、ちゃんと日頃からツイッターで活動してるフェミニストもめっちゃいっぱいいるよ!」っていう話はあると思うのですが、私個人はやってなかったので、そうか、ちゃんとウォッチングして運動やツイッター上の「フェミニスト」たちが行き過ぎてたりしたときには、指摘するということはした方がいいよな、と思ったという次第(でも、ツイッターは文字数少なすぎてなんか私と相性が悪いので、たぶん別にツイッター活動をしたりはしないのですが)。
 
政府主導の「フェミニズム」政策が始まる前の第二波フェミニズムの時期の理論家は、運動が行き過ぎていたとしてもある程度放置してきたところがあったと言えるんじゃないかと思う(←これから実証する仮説。論文とか読んでると吉澤夏子さんとか坂本佳鶴恵さんとか瀬地山角さんとかが「ミスコン粉砕は行き過ぎ、正当化の論理が成り立たない」というようなことを、ちゃんと書いているんだけどね(『フェミニズムの主張』1992、勁草書房)。でも運動の声をかき消すほど大きな声で主張しまくったわけではなかった)。当時は、フェミニズム内部で戦うのではなく、なるべくまずはフェミニズムそのものの輪を広げることが重要だという意識があったように思うし、それは正しい戦略だったと思う*1
 
でも、政府主導で「フェミニズム」政策が進むネオリベラリズム時代には、逆に、権力によってフェミニズム的なものがどのようにカモフラージュ的に使われてしまっているのか(=権力が本当の意図を隠すために、社会的正しさを確保するものとして「フェミニズム的な」言説を使っているところがあるということ)を的確に把捉しながら、フェミニズムを進めていく必要があると思う。……なんかとりとめがなくなってきたけど、第一のまとめ!
 
●高橋はなぜ出ていくのだろうか?とお思いになった方で、日ごろツイッターをやっていらっしゃらない方は、まずは、ぜひ坂爪(2020)をお読みくださいませ!
 
 
次に、日頃ツイッターをやっている方で、高橋はなぜ出ていくのだろうか?とお思いになった方に向けて。
 
 
2、00年代バックラッシュとは異なる感触があるアンチフェミニストに対して、個人的に興味があるため
 
「同じテーブルにつかせるな」をどう考えるか
日ごろツイッターをやっていて、ツイッター上でのフェミ、ジェンダー関連の状況をよく知っていらっしゃる方は、おそらく「青識亜論を同じテーブルにつかせるなんてけしからん」という気持ちを持っていらっしゃるのではないかと思います。
「差別主義者」と同じテーブルに着いてしまうと、それを「対等な」(検討するに値する)議論だと認めることになるので、やめた方がいいというものです。たしかに、現在、LGBTQやエスニシティに関するヘイトスピーチをする人たちに関してはこの議論が当てはまると思います。が、シス女性に関するフェミニズムの議論においてもいまだにこれが当てはまると言えるのだろうか?(そもそもシス女性と一括りにできるのかとか、女性関連といってもものやテーマによってかなり状況が違うぞとか色々あるんですが)という疑問がちょっとあります。いや、うーん、一般論にしてしまうとちょっと判断しにくくなりますね。具体的に考えましょう。
 
今回の件に関して、出ていかない方がいいのではないかと考える方は、具体的には、私が出ていくことで、
① 私個人にとって不利になるだけでなく、
② フェミニズム全体にとっても不利になる
(=逆に言うと、得るものは何もなくない?)
というふうに考えていらっしゃるのではないかと察します。
 
この2点はどちらも論駁しにくくて、事実半分くらいは当たっているのですが、私個人の見解としましては、
 
②→フェミニズムが多様化した今、私一人が出ていったところで別に「フェミニズムの代表」にはなりえない(まぁアンチの人たちは「代表」とみなすのだからフェミ全体に弊害があると言われたら返す言葉はないのですが、しかし政府主導の「フェミニズム」政策が進む現在でもなお、本当に「利益/不利益を共有するようなフェミニズム全体」というようなものはあるのでしょうか。80年代までと、現在とではフェミニズムをめぐる状況は異なっています)。
しかも、私はポストフェミニズムの専門家の中の、さらにポストフェミニストという、フェミニズム界隈のなかの「際物」(?)の専門家なので…(以下略)
 
①→個人的には、2000年代のアンチフェミたちとはなんか感触が違うような気がしていて、そこをちょっと知りたい気持ちがある。『社会運動の戸惑い: フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動 』(2012)の2020年代版をやりたい*2ということですね。
この間の打ち合わせで青識さんが自分のことをハイエキアンだと言っていたりして、その言い方とかで「はぁそうかそうか!」みたいな面白さがある。
ポストフェミニズム状況の現代を語るさいに、ツイッター上でのフェミニズムに関する議論抜きに考えることはできないのは事実なので、せっかくの機会をいただけるならフィールドワークした方がいいかなみたいな気持ちであります。ゆるっ。 
・あと「フィールドワーク」を公開でやる必要はないんですけどとか色々突っ込みどころはありますが。ただまぁ公開でしか聞けない話っていうのもあるわけで(←研究者向けの文章だと、注釈に注釈を重ねる文章になるの、おもしろい。読みにくくてすいません。)
 
その他の理由
その他、コロナで授業減ったこともあって若干生活苦しいからたしにしたいし、という実利的な(でもそれなりに生活かかっている)部分もあるし、
せっかくわざわざ本読んで企画書書いて声かけてくださったのだし、断るまでもないかなぁー、パワポ作るの1時間もかからないしなぁー、というような付随的ないくつかの理由により、やろうかなという判断に至った次第です。
 
討論会で何を喋ろうか
私は、
【1】今の「フェミニズム政策」と見えるものは「グローバル資本と結託した政府」主導で進んでいて、アカデミックフェミニズム(思想)も、運動も、ツイッター上のフェミニズムも、国家が法制化して進めているような「フェミニズム」にはほとんど影響力持っていないよ(政策系のフェミニズムを除く)」という現状認識を共有したうえで、
 
【2】フェミニズムのレトリックを「使って」なされる法整備等に見られる、ネオリベラリズム権力のあり方を読み解くという社会学的な分析をしようかなーと思っています。
 
フェミニズムは、現実の個人としての男性と戦うものというよりも、権力(「家父長制」や「男性優位社会」と言われてきたもの)と戦うものであり、表現の自由派も、その原理からいえば「規制する国家権力‐対‐市民」のはず。両者はともに権力に抵抗する個人や市民のはず。
なのに、有効で適切な「権力分析」が不足していたり、それがツイッター上でのフェミ議論や表現の自由戦士たちに届いていない(響いていない?)ために、弱者同士が戦い合いつぶしあう状況に陥っているのではないかと思われます(ちなみに、権力の強大さとそこでの強者から見れば、われわれは皆、圧倒的に弱者です)。
このような見立てから、やはり権力分析、ネオリベラリズム分析が重要だなぁと思っている次第で、そこらへんの話をしつつ、フェミニズムは何を守ろうとしていて、何を主張・要求しているのかをまとめるというかんじです。
 
というわけで、フェミ対アンチフェミ!が期待されているという空気はびんびんに感じてますが、思いっきり空気を読まずに、権力分析とかやります(笑)。アカデミックフェミニズムの伝統を踏まえれば、ここで滔々と権力分析をせずして何をする?ってかんじですからね(実際には20分しかないので、「滔々と」はできなさそうですが)。
「せっかく戦うなら、確実につぶせる敵とではなく、みんなで一緒により大きな敵と戦おうぜ!」って話です。(←いや、私はあまり戦うつもりはないんだけど、なんかノリでそうなった。市民同士の戦い(これはハーバマス的な「熟議・討議」とはまたちょっと違うよね、熟議は重要よ)をするより、いい文化作品に対する批評文を書いている方が生活が充実するし、やる気がでるタイプ…)
 
そのようなわけですので、ご関心をお持ちになった方や、高橋を見届けてあげようという心優しき方は、ぜひぜひご来場ください!
 
*これからツイッター上でフェミニズム活動をされている方向けとアンチフェミさんたち向けの説明、というか事前のウェルカムメッセージを、(会の当日までには)書けたら書こうと思っています。
とくに、まずはツイッター上でのフェミニズム活動をされている方たちのことを学術的には第四波フェミニズムと言うのですが、彼女ら彼らの呼称は「ツイフェミ」でいいのか?これは自称ではなく、他称(つまり、アンチさんとかが呼んでいる名称)ですよね?という点の確認からさせてもらいたいというようなことがありまして……ええ、すいません、またそれ関連については、丁寧に書きます。
 
 
追記。
おーっと、いま発見。この討論会がWANに掲載されたようですが、この掲載判断をしたのは、主催者とWANで、私には判断権限がなかったということは書き記しておきますー(念のためね!)
 
さらに10月25に追記。
「ツイフェミ」は蔑称だというご指摘をさしあたりお一人からいただいたので、上記、地の文で使っていた「ツイフェミ」1カ所を「ツイッター上のフェミニズム」に修正しました。まだ残ってたらごめん(←編集者さんや校正・校閲の方にめっちゃお世話になるタイプ)。
 
さて、この新勢力フェミニストは何て呼ぶのが適切なのかしらねぇ?英語圏SJWみたいな自称は成立していないのかな? あと、できればざっくりした年代層や、いつから、なにをきっかけにツイッターで発信するようになったかなどの基礎データを収集したい。
しかし、グーグルフォームとかで一斉にばらまくやり方でやると、アンチさんたちが成りすましで回答してしまって正確なところを取れなかったりする可能性がありそうで、この点の対策を取らずにやったら査読論文で出した時に方法論に不備があるって絶対指摘されるよね。スノーボールサンプリングでのグーグルフォーム調査かなぁ。
 
どなたか、ツイッター上のフェミニズストたちの基礎データを収集するいい方法論を思いついたら教えてください(っていうか、興味のある方がいらしたら、共同研究しましょう)。

*1:それでも当時も激しいフェミニズム内部の戦いはあり。

*2:まだ迷い中、もうちょっと色々調べてみて面白そうだったり、やれそうだということになれば、ですが。

「女性の性的主体化形式」論文の引用文献でオンラインで読めるものまとめ

私の「女性の性的主体化形式」に関する論文の引用文献のうち、オンライン上で読めるものと、その場所をまとめました。

American Psychological Association. (2007). Report of the APA task force on the sexualization of girls, Zurbriggen, Eileen L., Collins, Rebecca L., Lamb, Sharon, Roberts, Tomi-Ann, Tolman, Deborah L., Ward, L. Monique, Blake, Jeanne, (ed). American Psychological Association.

https://www.apa.org/pi/women/programs/girls

  

Bivona, Jenny M. (2008). Women’s Erotic Rape Fantasies, Dissertation Prepared for the Degree of Doctor of Philosophy, University of North Texas.

digital.library.unt.edu

 

Bivona, Jenny, & Critelli, Joseph. (2009). The Nature of Women’s Rape Fantasies: An Analysis of Prevalence, Frequency, and Contents, The Journal of Sex Research, Vol.46, No.1, pp.33-45.

https://cynlibsoc.com/clsology/pdf/The-Nature-of-Womens-Rape-Fantasies-An-Analysis-of-Prevalence-Frequency-and-Contents.pdf

 

Erchull, Mindy, J., & Liss, Miriam. (2013). Exploring the concept of perceived female sexual empowerment: Development and validation of the Sex is Power Scale, Gender Issues, Vol.30, No.1-4, pp.39-53.

scholar.umw.edu

 

————. (2014). The Object of One’s Desire: How Perceived Sexual Empowerment Through Objectification is Related to Sexual Outcomes, Sexuality & Culture, Vol.18, pp.773–788.

www.researchgate.net

(こちらは、ReserchGateから、相手にFull-text申請しないと全文にはアクセス できないかも。私の時は、相手が申請に応じて送ってくれた記憶があります。)

 

Lamb, Sharon, &, Peterson, Zoe, D. (2012). Adolescent Girls’ Sexual Empowerment: Two Feminists Explore the Concept, Sex Roles,  Vol. 66, pp.703-712.

www.researchgate.net

 

Leitenberg, Harold, & Henning, Kris. (1995). Sexual fantasy, Psychological Bulletin, Vol.117, No.3, pp.469–496.

https://pdfs.semanticscholar.org/0cec/591a75b65e160824d4b0b65a6e4f27431481.pdf

 

Liss, Miriam, Erchull, Mindy, J., & Ramsey, Laura R. (2011). Empowering or Oppressing? Development and Exploration of the Enjoyment of Sexualization Scale, Personality and Social psychology Bulletin, Vol.37, No.1, pp.55-68.

(こちらもたしかReserchGateで、頂戴しました)

 

 

Rich, Adrienne, C. ([1980]1983), Compulsory Heterosexuality and Lesbian Existence, Snitow, Ann, Stansell, Christine & Thompson, Sharon, (ed.), Powers of Desire: The Politics of Sexuality, Monthly Review Press, pp.177–205.

https://we.riseup.net/assets/481062/AdrienneRichCompulsoryHeterosexuality.pdf

 

Rubin, Gayle, S. (1975). The Traffic in Women: Notes on the “Political Economy” of Sex, In Rayna R. Reiter (ed.), Toward an Anthropology of Women, Monthly Review Press, pp.157-210.

https://philarchive.org/archive/RUBTTI

 

Tolman, Deborah. (2012). Female adolescents, sexual empowerment and desire: A missing discourse of gender inequity, Sex Roles, Vol.66, pp.746–757.

 www.researchgate.net

 

 

女性の性的主体性についての論文を投稿しました。その引用文献の一部を紹介。

(ふわっとした前置き長めです)
 ラディカルフェミニズムは、現代社会の「男性による女性支配」や「男社会」は性的なもの(セクシュアリティ)を通して完成しているのだと言いました。たしかに、女性を性的対象として捉えたり扱ったりするときには、人や場合によりますが、ときに蔑視や格下げ(「仲間」や「対等な相手」ではなく「女」)が伴うことがあります。だから、この話は、現在でもまだ通用するものだと思います。
 ラディフェミは、恋愛(ロマンティックラブ)によっても、男性による女性支配や男社会の再生産が起こっていると論じました。例えば、当時はびこっていた「母性愛神話」(母は子どもを「本能的に」愛するのだ的な)や、「ロマンティックラブイデオロギー」(恋愛と結婚と性を一人のパートナーとすべし、これはいまでも一般的なので、はびこっていたとか言ってはいけませんね)を問題視し、これらの愛情規範が女性を家庭に縛り付けているのだと批判しました。
 これらのラディフェミによる告発は、意義のある重要なものだったと私は考えています。が、現在という地点のなかで考えてみると、「性関係を通して男に都合のいい社会が作られている」まではなんとか首肯されても、「恋愛を通して男性による女性支配が起こっている」という命題は、なかなか受け入れられがたいのではないかと感じています。
 そう私が感じている理由のひとつに、「恋愛の場においては女性の方が強者」という考え方がある(ように思われる)からです。性的欲望を持たされてしまっている男の側の方が、交渉上立場が弱いから、恋愛や性の駆け引きの場では、男の方が弱い。女は、男からのアプローチを受けたあとに、フるか受け入れるかの選択権をもっているから、恋愛において主導権を持っている強者は女だ、というような考え方がある(ような気がする)。
 しかし、私個人としましては、男が作った「恋愛関係」の中で期待される女性役割を演じさせられる女は、別に強者ではないんだよなーという気がしています。女性の外見をしているというだけで、自分が望まない形で恋愛や性の関係に巻き込まれ「選択」させられる状況に置かれるということの苦しさや生きづらさというのがあると常々思っているのですが、これについてがっつり論じている論考に、いまだ私は出会っていない。あ、江原先生の『ジェンダー秩序』がいちばん、このあたりをがっつり論じていますかね。でもあれは「恋愛論」という形ではなかった。私が恋愛論で書きたいと思っていることはこのあたりにあります・・・のですが、
 まぁ、まずは、日常感覚として世俗的に経験されている「恋愛や性の駆け引きにおいては女性の方が強者」感を把捉するための概念を確立しておく必要があります。「恋愛関係においては、女は男と対等に戦えている」感は、現在のヘテロセクズムなロマンティックラブという関係に社会適応できた女性自身によっても持たれています。そこをきちんと概念としておさえていかないと、フェミニズム的恋愛批判論かもしくは恋愛称揚論のような一面的な恋愛論になってしまう。
 と、ふわっとした前置きが長くなりましたが、そのために、今回の論文では、Liss &Erchull 2011のセクシュアリゼーション享受(Enjoyment of sexualization、ES)尺度を論じました。これは『性関連評価尺度ハンドブック(第4版)』(2019)にも収録されており、この尺度を使った研究も蓄積されてきています。「他人の性的注目を集めることを楽しむ」態度の度合いを測定するもので、自分を「セクシーだと感じることが好きか」、「自分が美しく見えることでエンパワーメントの感覚を持つか」、「異性からの性的な注目を集め」たり、「異性に外見を褒められ」たり、「口笛を吹かれ」たりすることを肯定的に捉えるか等の質問項目から成り立っています。ちなみに、発展版となる「性は力尺度(sex is power、SIP)」尺度(Erchull & Liss, 2013)もあります(これについては、以前このブログで書きました)。
 「口笛を吹かれる」というのはつまり、ストリートを歩いているときに「お、いい女!」という意味で「口笛を吹かれる」というやつで、キャットコーリングと呼ばれ、「ストリートハラスメント」として第三波フェミニストたちが問題視しているやつですね。私も、ストリートハラスメントは本当に不快だ失礼だと思っているフェミニストの立場です。ただ、「自分が仲良くなりたいと思っている相手の気を引けたときは楽しい」という意味でのenjoyment of sexualizationの意味は分かるという立場でもあります。このあたりをきちんと分節化して理路整然と恋愛を論じることって重要です、こんどやります。
 
Liss, Miriam, Erchull, Mindy, J., & Ramsey, Laura R. (2011). Empowering or Oppressing? Development and Exploration of the Enjoyment of Sexualization Scale, Personality and Social psychology Bulletin, Vol.37, No.1, pp.55-68.

————. (2019). Enjoyment of Sexualization Scale, Milhausen, Robin R., Sakaluk, John K., Fisher, Terri D., Davis, Clive M., & Yarber, William L., (ed.). Handbook of Sexuality-Related Measures, Routledge, pp.159-160.

 

 で、この尺度を使った研究を見ていくと、色々と面白いです。例えば、アーチャルとリス(2014)は、「セクシュアリゼーション享受」得点の高さと、オーガズムに達したフリをする「フェイクオーガズム」を行う頻度の高さに相関があることを実証しています。女性がいったフリをする「フェイクオーガズム」というのは、一般的には性的パートナーの性的スキルに確証を与えるためになされるパフォーマンスであると解釈されており、自分の性的快楽よりも「相手のために」なされるものと考えられています。実際には、早く終わらせたいからいったフリをするというような細かい(けれども大事な)ことは色々あるのですが、少なくともフェイクオーガズムは「女性の性的満足度の向上」には貢献していないことが多いと解釈されることが多い(アーチャルたちもそう解釈している)。
 ここから、「男性に性的に注目されるのが楽しい」「男性が自分の性的魅力に魅了されていると、男性を意のままにできているような気がして権力感が持てる」と考える女性たちは、過度に相手からの評価を気にしたり、相手との関係をうまくやろうとして女性役割を演じたりしすぎるために、自分自身の性的満足感を高めることができていない可能性があるということが見えてきます。
 つまり、女性におけるESの得点の高さとフェイクオーガズム頻度の相関からは、(本人たちは、ESを「女性の性的エンパワーメントの一つだ」と主張するけれども)本人たちがいうほど「性的エンパワーメント」が達成できているわけではないのではないか、ということがと見えてくるということができます。

Erchull, Mindy, J., & Liss, Miriam. (2013). Exploring the concept of perceived female sexual empowerment: Development and validation of the Sex is Power Scale, Gender Issues, Vol.30, No.1-4, pp.39-53.

————. (2014). The Object of One’s Desire: How Perceived Sexual Empowerment Through Objectification is Related to Sexual Outcomes, Sexuality & Culture, Vol.18, pp.773–788.

 

 リスとアーチャルの研究グループによるここらへんの研究は、けっこうおもしろくて、アーチャルとリス(2013)は、ES得点が高くてかつ自分を「フェミニスト」だとする女性を見ると、このフェミニストは、「家父長制的抑圧に焦点化するラディカルなフェミニズムイデオロギーを支持するフェミニスト」とは異なる、「男女の平等というリベラルなフェミニズム的関心を持つフェミニスト」であるというふうに特徴をまとめている。

 セクシュアリゼーション享受(ES)の得点が高い女性たちが「保守的」なのかそれとも「解放的」な思想の持ち主なのかについては、従来の「保守性/解放性」の二分法では整理しきれない独特な態度が見られて、「セクシスト信念」(敵対的セクシズム並びに好意的セクシズムによって測定)が高く、いくつかの伝統的な女性的規範(女性として「ナイス」であることやロマンティックな関係を重視すること)が見られる(=保守的)が、「多様な性的パートナーを受け入れる態度」との相関も高く、部分的に「非伝統的」な態度もあることがわかる(Erchull & Liss, 2013, p.2342)。

 だから、男性の性的まなざしを肯定的に受け止めて、女性としての性的エンパワーメントだと主張する女性たちが、保守女性なのかそれとも解放的な女性なのかということは一概には言えない問題。

 

*その他、思春期の女性のセクシュアリティを専門とする心理学者デボラ・トールマンの、女性心理学会賞(the Association for Women in Psychology)を受賞した著書『欲望のジレンマ:セクシュアリティに関する10代の少女たちの語り(Dilemmas of Desire: Teenage Girls Talk about Sexuality)』([2002]2005)にも言及しました。

Tolman, Deborah. ([2002]2005). Dilemmas of Desire: Teenage Girls Talk about Sexuality, Harvard University Press.

————. (2012). Female adolescents, sexual empowerment and desire: A missing discourse of gender inequity, Sex Roles, Vol.66, pp.746–757.

  

「母性空間」からの脱出、そのための新たな愛の関係とは ――宇野常寛著『母性のディストピア』(集英社2017、早川書房2019)書評――

「母性空間」からの脱出、そのための新たな愛の関係とは

――宇野常寛著『母性のディストピア』(集英社2017、早川書房2019)書評――*1)

 

本書の主題

 本書は、マンガ・アニメ作品読解を通して現代日本社会を論じる文芸評論家・宇野常寛の評論集である。世界でもてはやされる日本アニメの巨匠の作品(宮崎駿富野由悠季押井守監督作品)を読み解き、それらが共通して「近代的かつ男性的な自己実現」の不可性を意識する「矮小な父」と、そのような男性を慰撫するため男性に無条件の肯定を与える母的少女(「肥大化した母性」)との「愛」の物語という構造を持っていることを明らかにしていく。輝かしい日本文化コンテンツの根底に横たわる「敗戦によって傷ついた日本の男性性」という「トラウマ」を再考して引き受けようとする意欲作だ。

 宇野は、「母」を収奪する「矮小な父」に義憤を抱く「息子」であり、「母」の情緒的支配空間から逃れようともがく「息子」である。彼は、「母」ではない新しい恋人を獲得することで「父」になるという成熟モデル(エディプス・コンプレックスの克服による成熟)を信じることができない。なぜなら、「日本社会」は、妻をめとって子をなし「父」となってもそれによって再び「妻=母なるものの空間」に閉じ込められてしまうという閉域としてあると、宇野は捉えているからだ。この閉域が「肥大化した母性空間」、「ディストピア」と呼ばれている(「肥大した母性と矮小な父性の結託こそが戦後日本を呪縛した母性のディストピアだ」(p.374))。

 「母性のディストピア」が生じるメカニズムは、おもに二つ。第一に、第二次世界大戦の敗戦後、日本の政治的決定力や軍事力はアメリカによって制限され「12歳の少年のままで」いることを強要されていること。日本の政治レベルでの「成熟した市民になること」は虚構にすぎない(p.25)。

 第二に、政治的領域での成熟のできなさの代償として、日本の男性は「母のような少女」を所有することで「父」となるという「疑似的な成熟」を私的領域において達成しようとし、このような男性の要求に合わせて、女性たちは母性を肥大化させてきたこと。

 「アメリカの影」に付きまとわれ、政治的領域で成熟する(=市民になる)ことが「虚構」でしかないという戦後日本の政治的・社会的環境の中で、アニメの想像力と批判力とが花開いたというのが宇野の議論である。

 

かつての「母性の喪失」論との違い

 日本文化を母性原理社会だとする肯定的な日本文化特殊論は1970年代から80年代に多く見られた(青木保(1990)は、1964-83年を「肯定的特殊性の認識の時代」としている)。土居健郎(1971)は「甘え」を、小此木圭吾(1982)は「阿闍梨コンプレックス」を、河合隼雄([1976]1997)は「母性的社会」を論じた。日本文化の倫理の根幹は、苦しむ母、自己犠牲的に献身する母に対する一生かかっても返しきれない「恩」の感情にある。自分が「何か」の犠牲の上に成り立っており、自分はすでに「何者か」に負い目があるという感覚が日本文化社会の道徳・倫理の根源であり、その「何者か」を一身に引き受けてきたのが「母」(実際の母であり、シンボルとしての「母」)であった。

 

  江藤淳は1975年に、日本の倫理的根幹をなす「母」が崩壊している(女性たちが自己犠牲的な「母」役割から離脱しはじめている)と論じ、「母の喪失」を受け止めることが成熟の条件であるとした。上野千鶴子は江藤の議論を評価し、「苦しむ母」を見て育った娘たちは「不機嫌な娘」となり、もはや自分を犠牲にしながら子育てするという規範や美徳を引き受けようとしないと論じている(上野 1997)。事実、90年代には、母と息子の一心同体的な情愛のあり方を批判する「マザコン」(母の意見を過剰に気にかける成人した息子を指す語)が流行語となり、母と息子の関係に関する反省的まなざしが社会的に形成された。娘の立場から「母の重たさ」を告発する議論の多さに対して、息子が母について積極的な発言する様子はあまり見られないが、その理由はすでに「不機嫌な娘」が「母」となり、新たな母子関係が登場しているからと見なす向きもある(品田2017)。

  それに対して、宇野は現代でもなおマンガ・アニメの想像力において「肥大した母性」空間の支配が存続しており、そこは「ディストピア」だという認識を持っている。リアル(現実)な人間関係を主要な分析対象としてきた社会科学的な議論とアニメの想像力を分析した宇野の議論を並置して見渡すなら、リアルの女性が自己犠牲的で献身的な「母」を引き受けなくなったぶん、フィクションの世界での「母」需要が高まっているということになるのかもしれない。むろん、文字を読む以前の幼少期から接するアニメが、ジェンダー観、人間観の基本的枠組みを作る大きな要素となることを踏まえれば、アニメの想像力がフィクションにすぎないものとして済ませられる問題ではない。

 宮崎駿作品中の主人公の少年は母的存在に見守られているときにのみ空を「飛ぶ」ことができ(第3部)、富野作品中のアンチヒーロー・シャアは母的少女であるララァを失ったことで永遠に救われることなくニヒリズムの底に落ちていく(第4部)。「母的な少女」の愛を獲得することが、主人公の救済になるという物語の型がある。

 

 

宇野が問題視する「母」とは

 本書では「母」の語が比喩的に用いられるため多義的になっているが、宇野が「ディストピア」と呼ぶ母性空間とは、母の息子に対する情緒的支配空間であるというよりも、むしろ「母的少女」への憧れや恋愛感情によって「男性」が閉じ込められてしまうような場のことである。

 典型例として高橋留美子が作り上げたラブコメの空間が挙げられている。「男性作家の宮崎駿が無自覚に描いていた男たちの零落したマチズモを疑似的に回復させてくれる母性的なフィールド(胎内)を、女性作家である高橋は半ば自覚的に、より洗練された形で形成したと言える」(p.253、第5部)。

 『うる星やつら』の主人公・諸星あたるは、「押しかけ女房」のラムによって、「その主体性を発揮することなく――少女を得、マチズモを充足させる=『父』になる」(p.253)。あたるは「好きな女を好きでいるために、その女から自由でいたい」(p.289)とうそぶき、ヒロインのラムはあたるが「ラム=母=(本)妻への愛を否定しない限り」、あたるの浮気を大目に見る。あたるのふるまいは、「抑えきれない男としての欲望」や「自由」を言い訳に浮気という手段で女性を裏切るが、それでもなお女性が自分への愛情を失わないというふるまいを見て、女性の愛を確認するものだ。女性の側は、相手が自分を裏切ってもなお慈愛と寛容さ、自己犠牲、献身を忘れないという「女性的な徳の高さ」を示すことによって、相手の男性よりも精神的に優位な立場に立とうとする。相手の女性を裏切る行動である浮気をしても愛想を尽かさないという積み重ねが、「何があっても切れない」という絆の強さと安心感を成立させているのだろう。母とは何があっても子どもとの感情的なつながりを断ち切らず無償の愛を与えるものという前提のもと、妻にも母同様の無償の愛を求めるという関係がある。

 このような妻と夫の「甘え」の関係は、フィクション内だけでなく江藤淳とその妻というリアルな関係にも見られる。江藤は、日本の戦後民主主義が虚構的な成熟であることに自覚的であること、そして家制度下の道徳を支えた「母」の喪失に耐えることの2点を成熟の条件として主張した(p.26)。だが、戦後日本の政治的成熟の虚構性に対する鋭すぎる江藤の自覚は、私的領域における「母的な妻」への過剰な依存と暴力とを代償としていたと宇野は分析している(第1部)。妻への家庭内暴力について、江藤自身がこう書いている。

 それにしてもなぜあざができるほど殴ったのだろう?「楽しくなれ、楽しくなれ」と相手を殴っているのはこっけいな話だ。殴られて陽気になる人間があるわけはない。私は家内を遠ざけ暗くしていくなにものかと戦っているはずだが、それが家内の中にあるものか外にあるものかが分からない。それともそれは私の中にある何かなのだろうか。(p. 27)

 

 自分の中の満たされないもの(「暗くしていくなにものか」)を外部の妻に投影して妻を殴りながら、恍惚とした自分と妻との同一視(一心同体化)によって暴力の自己正当化が行われている。このような江藤のふるまいに対して、宇野は、「江藤のアイロニズムは、成熟のコストを家庭内の被差別階級としての女性(妻=「母」)に転化することで成立している」(p.31)と一蹴し、江藤の成熟とは異なる新たな成熟――すなわち 「母殺し」、母性空間からの脱出――を模索することになる。

 さて、江藤の成熟とは異なる新たな成熟は、どのようにして可能なのだろうか。日本の政治がアメリカの軍事的・政治的影響力の下にあるという事態は、江藤の時代と比べて現代でも大きくは変わってはいない。それでもなお、江藤の失敗した成熟とは異なる成熟を目指すならば、「アメリカの影」に自覚的でありながらなお、「女性」を収奪せずにすむ「愛」の関係が明らかにされる必要がある。

 宇野は第6部で「母性空間」を「現代の情報空間」と等置することで、議論をずらしていく。そのため、女性が与える無条件の承認によって成熟を達成するという「女性の収奪からなる男性の成熟」とは異なる成熟モデルとして、具体的にどのようなものがあるのかという根本的問いの答えが、本書では明瞭ではない。

 

さいごに 所有の愛ではない、新しい愛の関係という問題についての評者の見解

 女性の情緒的支配空間をディストピアと呼び、そこから脱しようとする男性(「息子」)という立ち位置からの議論は、構造上、女性憎悪的なものへと転落しやすい。母や、性愛関係を結ぶ相手から身を引きはがすふるまいは、激しい愛憎を伴うことが多く、「グレートマザー神話」や「母殺し」物語に見られるように、女性に対する畏怖と崇拝の入り混じった「差別的」な語りの型を踏襲してしまうことが多い(上野 2010)。

 そのため、評者はどのような女性憎悪表現が出てくるかと身構えて本書を読んだわけだが、宇野は「母性空間」=「現代の情報空間」へと議論の方向を転換していく。第6部で「母性空間」とは、現代の情報社会のことだとし、近年一般的にインターネット技術がもたらす「情報の繭(information cocoon)」――すなわち自分が見たい情報や自分と近い意見のものだけが見られるようになっている心地よい情報世界のこと――へと「母性空間」の意味を拡張している。

 最終的に「母性空間=情報社会」へと意味を拡張させることで、母性的なものによる支配をどう終わらせ、母性的なものとの絆をどう結びなおし、どのような成熟を目指すべきなのかという問題に決着をつけずに済んでおり、同時に「母=女への憎悪」の表明というような事態にもならずに済んだように見える。だが、このような議論の方向転換によって、ここまで積み上げてきた具体的な「母」や「母的少女」という女性との関係の結び方という議論の焦点がぼやけてしまっている。

 そこで、宇野が投げかけた江藤の成熟とは異なる成熟のあり方という問いに対する、評者なりの答えについて、最後に考えてみたいと思う。江藤は「母の喪失に耐える」ことを成熟の条件として挙げながら、「母のような妻」を「所有」するような愛の関係を結んでしまったことで、家庭内暴力という凄惨な事態を避けることができなかった。所有の愛とは異なる愛の関係として、どのようなものがありうるだろうか。

 相手を所有しあうような愛とは、相手を自分につなぎとめようとするあまり、相手の選択肢を狭め、自分から離れないよう支配することを指す。男性たちは、少女とセックスすることで彼女を「ものにした」(=「所有」した)と思い込むが、「少女もまた所有される(セックスする)」ことで、男性を自分の「テリトリー内」に安住させ、取り込み、所有してきた。

 しかし、愛の関係が愛という感情にのみ根拠を持つものであり、感情は揺れ動くことをその本性とするものである以上、愛の関係は原理的に揺れ動く不安定なものだ。一度「両想い」になったからといって、永遠に「両想い」であるとは限らない。相手の変化や心変わりは前提であり、いつかは離れるかもしれないというかたちで将来を未決にしておくことが、相手と自分の「自由」を守るものとなる。

 その前提のもとに立つからこそ、愛は輝く。互いの権力行使も束縛もなく、ただ互いの自発的感情のみによって愛の関係が成り立ち、それが継続できるとき、そこにはじめて「ありえないことが起こっている」という奇跡の感覚、掛け値なしの喜びや純粋な嬉しさが生じる(ギデンズの言う「純粋な関係」)。私たちは、義務としての夫婦愛や夫婦としての責務に耐え忍ぶことの自己憐憫ナルシシズム)には心打たれなくなってきている。所有の愛ではない愛は、これまでの恋愛において課せられてきた性別役割をニュートラライズ(neutralize)するだろう。それは、束縛が愛の強さを示したり、相手の愛を試すような甘えを自己犠牲的に受け入れることが愛を意味したりする従来の物語とは異なった物語を紡ぐはずだ。

【註】

*1 本稿の引用頁番号は、2017年版に基づく。

 

【文献】

青木保『日本文化論の変容:戦後日本の文化とアイデンティティー』(中公文庫、[1990]1999)

土居健郎『「甘え」の構造』(弘文堂、1971)

江藤淳「日本と私」『江藤淳コレクション2』(ちくま学芸文庫、[1975]2001)

小此木圭吾『日本人の阿闍世コンプレックス』(中公文庫、1982)

河合隼雄『母性社会日本の病理』(講談社+α文庫、[1976]1997)

山村賢明『日本人と母』(東洋館出版社、1971)

品田知美「第1回母親業はやめられない」『母と息子のニッポン論』晶文社スクラップブック(2017年6月27日)http://s-scrap.com/1446(2019年7月25日取得)

上野千鶴子「「日本の母」の崩壊」平川祐弘萩原孝雄編『日本の母:崩壊と再

生』(新曜社、1997)pp.198-218.

――――『女ぎらい:ニッポンのミソジニー』(紀伊國屋書店、2010)

 

 

第三波フェミとポスフェミの共通点と相違点(Piepmeier 2006)

Alison Piepmeier, 2006, “Postfeminism vs. the Third Wave“ Electronic Book Review, March 17, 2006, の内容を紹介しつつ、私が第三波とポスフェミの違いをどう同定しているかを書いておきまーす。

electronicbookreview.com

 

 第二波フェミニズムから自分たちを区別するという点で、第三波フェミニストとポストフェミニストは共通している。では、両者の相違点は?

 Piepmeierによれば、第三派フェミニズムは、世代差を問題にする傾向がある。60年代、70年代の女性運動を生きた世代か、その後の世代かで、とくに90年代に10代から20代を迎えた女性たちは、ウーマンリブ世代とは異なるという点を強調する傾向がある。

 それに対して、ポストフェミニズムは、フェミニズムが「目標達成しており」「犠牲者マインドを呼び起こすもの」という見方を持っている。個人的なチョイスや自助努力によって、女性のエンパワーメントと平等はもたらされるのだ、というのが信念。

 だから、第三波フェミニストは、「(フェミニズムとして)やるべきことがまだまだたくさんあるわ!」というのに対して、ポストフェミニストは「すすり泣きをやめて、マノーロ・ブラニクを買いに行きましょ」ということになる。

 

 

The controversies surrounding the use of the term "third wave feminism," however, are different from those surrounding "postfeminism." When feminists debate the third wave, generally they're trying to determine if there's enough of a generational divide between older and younger feminists to warrant a whole new label. The question seems to be, have we moved far enough from the social issues that propelled the women's movement in the 1960s and '70s to be able to suggest that there's a new wave?

 

The rhetoric surrounding postfeminism, by contrast, tends, as Lisa Yaszek notes, "to describe the contemporary moment as one in which the goals of feminism have been achieved" and "to invoke a `blame-the-victim' mentality." Often arguments made from a postfeminist perspective rely on what Elyce Helford identifies as "the belief that personal choices and `bootstrap' efforts can bring a woman (and hence all women) empowerment and equality."

 

While the third wave says, "We've got a hell of a lot of work to do!" postfeminism says, "Go buy some Manolo Blahniks and stop your whining."

 

Postfeminism relies on competitive individualism and eschews collective action