ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします…!

ポスフェミ基礎文献:三浦玲一(2013)について

三浦玲一, 2013, 「ポストフェミニズムと第三派フェミニズムの可能性:『プリキュア』、『タイタニック』、AKB48」, 三浦玲一・早坂静編著『ジェンダーと「自由」:理論、リベラリズム、クイア』彩流社: 59-79.

 

1.「新しい左翼」の模索の延長線にあるポストフェミニズム

 三浦玲一先生の上記論文は、現在のポスフェミ関連論点がほぼほぼ入っているといっていい、すごい論文です。(もちろん、分量は一般的な論文サイズなので、論点が萌芽的に入っているというような意味です)

 これを読むと、ポストフェミニズムの議論が、冷戦後の新左翼の行き詰まりという議論の延長線上に出てきたものだということがよくわかります。

(冷戦後の)「(新左翼に代表されるような)左翼的な想像力全体の変容――それはつまり、現状に対するオルタナティヴをどのように想像するのかという想像力全体の変容でもある――のなかに第二波フェミニズムからポストフェミニズムへの移行はある。逆に言えば、この状況を如実に象徴しているからこそ、ポストフェミニズムを十分に踏まえながら、フェミニズムの未来を想像することには重要な意味がある」(三浦 2013:67)

 新自由主義政権(とくに、三浦のいう「第二期新自由主義政権」であるクリントン、ブレア、小泉以降)が「変革」や「革命」のレトリックを用いて統治を進めている現状において、左翼はどのようなオルタナティヴを提示していけるのか?という問題系のなかで、連帯による社会変革を目指した第二波フェミニズム(=新左翼的なもの)の失効を指し示すのがポストフェミニズムだというのが、三浦先生の議論の枠組みになっています。

 

2.新自由主義を下部構造とする「文化」としてのポストフェミニズム

 三浦(2013)は、基本的にポストフェミニズムというのは、90年代の「文化」であると規定しています。

「ポストフェミニズムは、このような時代状況(=新自由主義)における「文化」としてある。それは、女性の社会進出の達成を象徴すると同時に、社会運動を重視する連帯の精神としての第二波フェミニズムを批判し、市場における達成を重視して個人主義を称揚するものであり、政治的改革ではなく自己実現と「私探し」こそをゴールとする「文化」として広く受け入れられたのである。」(三浦 2013:66、()は引用者による)

 引用文中「このような時代状況」とは、前段落の「冷戦の終焉からグローバル化という流れは、社会主義の終焉という一般の認識に帰結し、そして、新自由主義グローバル化時代における必然として承認されたのである」を指しているので、ひとことで言えば、「新自由主義」。

 カギ括弧つきの「文化」には、新自由主義の「偽文化(quasi-culture)」というような意味合いが込められているのではないかと推察できます。というのも、次の引用箇所を見ると、新左翼の「オルタナティブを想像しようという文化的な運動」の文化にはカギ括弧がついていないので。

「既存の社会に対するオルタナティヴを想像しようという文化的な運動、つまり、60年代の移行の新左翼的な(そして第二波フェミニズムもその影響下にあった)学生運動やヒッピー・ムーヴメントが、結果として、新自由主義に簒奪された」(2013:66-67)

 新左翼の文化には「」がついていないことから、新自由主義の「文化」は偽文化だというような意味が込められています。 …と思いましたが、同論文内で、新自由主義の文化と述べている箇所で、カギ括弧がついていない「文化」という記述も発見してしまいました。

「ポストフェミニズムの特徴は、日本で言えば、1986年の男女雇用機会均等法以降の文化だという点にある」(2013:64)

「このようなポストフェミニズムの誕生は、同時代のリベラリズムの変容・改革とかなりはっきりとつながっている。それは、バジェオンやギルも指摘するように、新自由主義の誕生であり、新自由主義の文化の蔓延である」(2013:64)

 というわけで、文化はカギ括弧なしでもよいのかもしれません。ともかくも、ポストフェミニズム文化として捉えられているということは確実そうです。

 ここから、ポストフェミニズムという議論は、マルクス主義知識社会学的な枠組みに基づいて、ネオリベラリズムを下部構造とする文化(上部構造)として展開されていると、まとめることができそうです。

 菊地夏野さんの『日本のポストフェミニズム』(2019)でも、第1,2章でネオリベラリズムが論じられ、第3章以下でポストフェミニズムと見られる文化現象についての研究がされていました。下部構造が変化したのに伴って、文化状況も変化しており、フェミニズムの位置づけや意味も変わってきているという議論をしているのが2000年代後半以降のポストフェミニズム論だといえます。

 まとめると、

 

 上部構造:家父長制

 下部構造:世界大戦後の福祉国家体制+公私二元論を前提とする資本主義

    ↓

 上部構造:ポストフェミニズム文化の蔓延 

  下部構造:ネオリベ

 

 ただし、知識社会学的な議論に対して、上部/下部の二元論は妥当なのか?本当にそんなにきれいに切り分けられてているものなのか?という批判的(反省的)思考は、現代の思想状況の中で思考していれば否応なく働きます(二元論を疑うのは脱構築の基本、みたいな意味で)。

 なので、ポストフェミニズム論は、「文化」を扱いつつも、それが女性の労働とどうかかわっているのかという「労働」とジェンダーという問題系へと発展していくという傾向があります。三浦(2013)論文も、後半は、労働とジェンダーの問題になっている。

  ・ちなみに私は、政治経済体制(下部構造)/文化やイデオロギー(上部構造)というマルクス主義的-知識社会学的な議論の構図をズラす別の方法として、社会学的古典の一つであるジンメルの個人レベル/社会レベルという枠組みで分析してみるというのがあるのではないかと思っています。ジンメルマルクスを知りつつマルクスに抗して個人/社会という分析レベルを立てているので、現代において再度ジンメルの試みに立ち戻り、その分析枠組みを使ってみると、案外面白い結果が導出されるかもしれない(個人的には個人/社会という二つの水準での分析は、とても重要だと思っていて、思い入れがある)と思ったりもしているのですが、それについてはまた今度、詳しく書きます。

 ・ちなみその2。私は、ポストフェミニズム論でよく使われている「福祉国家から新自由主義ネオリベラリズム)へ」という枠組みはあやしいような気がしており、経済学や福祉社会学ネオリベラリズム分析を詳しく検討して議論を展開したいと思っているところです。が、これがね、誰もが予想することだと思うけど、大変でねぇ。まだ勉強不足なので、その全体を示すことはできないのですが、とりあえず私は「福祉国家からネオリベラリズム」とは言わず、第二次世界大戦後に形成された福祉国家の「新自由主義的再編成」と言うようにしています。現代でも福祉国家という理念(とそれに基づく国家の正当性という信念)が手放されたわけではなく目指しつつも、緊縮財政とか税制改革とかやって、痛みを一部の人に押し付けたりしながらやっているという状況なので、「福祉国家新自由主義的再編成」です。

 

3.新自由主義において女性は「特権的な記号」?

 私は、この論文のなかで、一点だけうまく理解できていないところがあります。それは、新自由主義においては女性は「特権的な記号」になっているという議論です。本当に、「特権的な記号」という概念化でいいのだろうか?という疑問があります。(たぶん私の脳が「特権」という概念に反応しすぎていて、うまく理解できないだけかもしれないのですが)

「女」は新自由主義下における労働者の特権的な記号であり、そして、特権的な記号であるとは、「女」が優遇されるということと同時に、新自由主義経済の矛盾は、「女」という記号において集約され、かつ、正当化されるという意味でもある。(三浦 2013:75)

 「特権的」は、以下では「規範的・象徴的」と言い換えられて説明されています。おそらく、「規範的・象徴的」と言った方が良い。

新自由主義の世界において、規範的・象徴的労働が男の労働から女の労働になった。(三浦 2013:70)

 新自由主義的な政治経済下で、サービス産業が増えたとか、感情労働を必要とする対人関係労働が増えたというようなことを指して、「労働力の女性化」が起こったといえるということは、なんとなく雰囲気としては理解できるのですが、色々とはてなマークも浮かんでいます。

 例えば、サービス産業や、対人労働や、感情労働や、外注化されたケアワークなどをすべて一緒くたにして「労働の女性化」と言ってしまっていいのか? それに「女性」という概念を使うのが的確なのか?何らかのアナロジーとしてしか機能しないのではないか?といった点についてもう少し考えてみたいと思っているところです。

 三浦(2013)の議論が、

ジェンダー化され、女性を「特権化」しているかを指摘しつつ、その性差別をどのように突破していくかが示される必要があるだろう。」(三浦 2013:72)

 に見られるように、新自由主義下の労働が「女性化」することで、女性労働者が矛盾した状況に置かれ、これまでとは違う性差別状況に直面しているという問題をあぶりだそうという射程を持つものだということは理解しているのですが、色々とデータをそろえ、詳細に検討したうえで議論すべきことも多い論点なので、この点については、私自身、もう少しゆっくり色々考えてみたいと思っているところです。

 

ANTや新唯物論によって、社会学理論はどう更新されうるのか:その方向性について

1.
 新唯物論とかANTとかをざっくり読みつつ思っているのだけれど、考えるべきは、これらを社会学に持ち込むことで、社会学理論はどう更新されるのか?だ。
 例えば、主体/社会構造が循環的にお互いを構成しているというギデンズ流(構造化理論)の「主体/社会構造」二元論が、ズラされたり更新されたりするのであれば、ANTを言う意義(社会学理論的意義)はあると思う。
 が、ただたんに「社会記述のさいに『もの』も記述しよう、人間がものによって動かされていることにも注意を払おう」という話だったら、アーキテクチャとか各種デザイン(空間デザイン、コミュニケーションデザイン…)とか、アフォーダンスとかで、すでにやられてきたことだし、別にわざわざANTっていう必要なくない?という気がする。
 たしかに、一部の領域では、人間-非人間の異種混交性に着目して社会を記述することで、今まではできなかった新しい社会記述ができるようになる可能性はある(例えば…ってまだ勉強不足なのだけれど、バイオテクノロジー社会学とか、環境人文学や環境地理学と連携した社会学とか、モビリティの社会学とか…?)。
 しかし、それはたぶんごく一部。本当に社会学全体において、構築主義社会学において重要なものとなったのと同程度に、新実在論とか新唯物論とかANTとかが重要で、多くの社会学者が参照すべきものなのかどうかについては、冷静に考えてみるべき。
 
 例えば、人というアクターと「もの」というアクターを同列に記述するだけだったら、マックス・ウェーバーの理解社会学の枠組みでもできそうだよ、それを越えるようなANTの意義って何なの?というような社会学の古典を踏まえたきちんとした議論は、必要だと思う。
 
「機械をはじめとする一切の制作物は、その製造や使用に人間の行為が――実に様々な目的のために―ー与えた意味、または、与えようとした意味を考えて初めて解釈も理解も可能になるものである。意味へ遡らなかったら、機械は全く理解することができないであろう。つまり、機械のうちで理解可能なのは、手段としてにせよ、単数あるいは複数の行為者の念頭にあって行為の方向を定める目的としてにせよ、とにかく、機械と人間の行為との関係である。」(マックス・ウェーバー社会学の根本概念』清水幾多郎訳、岩波文庫、初版1972:13)
 ウェーバーのこの記述のどこかに、「機械による偶然的な意味の発生」のような一説を付け足せばいいだけなのだとしたら、大騒ぎして、ANTだANTだという必要はない。
 
 で、私の立場はどうなのかと言うと、マテリアル(物質、もの、身体)に着目しますという現代の潮流は、主体/構造の二元論でやってきた社会学理論モデルを更新できる可能性があるのではないか、だから、ANTや新唯物論はけっこう大事だと思う!という立場。笑。えぇ、ぜんぜん冷静じゃなくて、盛り上がっているんだけど、論理的に説得的な冷静な議論が必要だよなと思ってはいる、という話です。
 
2. 
 とくに、ジェンダーフェミニズム論は、主体か社会構造かという二元論の中で議論を組み立てることの限界(説明力不足)というのが見えやすい領域だったと思います。
 例えば、人間の外見美を評価する尺度は、既存の社会(=ラディフェミ風に言えば「男性社会」)が作り上げて女性に押し付けたものなのか、それとも女性主体が作り上げたものなのか、という問題。英米の70年年代、日本の80年代のフェミニズム理論では前者が力を持っていましたが、90年代に入り、男性が求める以上に痩せようとする摂食障害摂食障害の患者の男女比はおよそ1:9)や、「自分のために美しくなりたい」と言って主体的に美容整形手術を受ける女性の可視化とともに、後者の契機もあるということが言われるようになり、議論は膠着状態に陥りました。つまり、美の尺度は男性社会が作り上げたものであるか、それとも女性主体が望むことで作り上げている尺度なのかという問いに対して、どちらが正しいとも答えられない状態になった。
 こういうときは、問い自体が間違っているのではないかと疑った方がよいと思われます。
 
 ちなみに、パーソンズ社会システム論に基づけば、既存の社会構造が作り上げた美の序列を、女性主体が「学習」(文化システムの社会システムへの影響)し、「内面化」(文化システムのパーソナルシステムへの影響)したものだという説明の仕方になります。だが、パーソンズのこのような説明形式は、文化システム至上主義という批判を浴びたので、そこを修正して発展させたギデンズの構造化理論では、男性社会が作り上げた美の尺度によって、女性主体が主体化され、その主体がさらに美の基準に則った行動をしたりそれを批判したりすることを通して新たな社会の美の尺度(=構造)を作り上げている、というふうに、社会構造と主体が循環的にお互いを構成しあうことで、社会は変化しているという説明の仕方になりました。
 ギデンズの話は、論理としては通っている。美の尺度は男社会が作ったものでそれを女性に押し付けているのか、それとも女性主体自身が望んで形成しているものなのか、どっちなのか?という問いに対して、「どちらも正しいです。互いに循環的に形成しているので」というのがギデンズの答え。ま、たしかにそういう「うまい答え方」はあるよね。しかし、私はこれは説明力不足という問題を抱えているという点で、やはりそろそろ更新されてもいいんじゃないかと思っている。
 どういうことかというと、ギデンズの構造化理論の説明では、現代の女性たちの「美をめぐる実践」(日々自分の顔に関して悩んだり、カバーしようとあれこれ試したり、あの人が私にこんなことを言ったのは今日の私の服装が女の子っぽぎて威厳に欠けたからなのだろうかとか見当違いなことを考えたり、今日はデートなのでまゆは薄めで(うふふ)、みたいな色々な実践)が、一体何をしていることになるのかについて、ちゃんと社会学的に説明できているという感じがしない。「社会構造」とはこの場合これこれを指しており、構造はこのように細分化できて、とか「主体」とはこういうことでというふうにより細かく説明していけば、私たちの日々の美をめぐる社会的実践を説明できるような気もあまりしない。
 美は、魅かれちゃうものだし、気になっちゃうものだし、気にせざるを得ないという形で強制されるものでもあって、もちろん主体的にコミットしている側面もあるけど、そうじゃない側面も多い。それを「主体」という語でくくってしまうことで見えなくなることはけっこうたくさんある。同様に、美の尺度や「社会構造」ってそもそも何?美の画一性とか規範性とかがとりあえず批判的に言及されることが多いけど、美ってそういう話に収まるものではないのでは、という大きな問題がある。
 
 
3.
 ジェンダーフェミニズム論における「主体か構造か」の二元論の行き詰まりを明晰に書いている論文として、
 
西倉 実季, 2005, 「美」を論じるフェミニズムの課題―二元論的思考を超えて , 『F-GENSジャーナル』 4 61 - 67. (これは、インターネット上で検索すると読めます)
西倉実季, 2003, 「ミス・コンテスト批判運動の再検討」, 『女性学年報』24 21 - 40. 
西倉 実季, 2003, 「ジレンマに向き合う―外見の美醜を語るフェミニズムのために」, 『女性学』 10 130 - 150.
 
があります。
 
西倉(2005)では、私が上記で整理した美についての議論の展開を、
「80年代後半までに獲得された「抑圧としての美」というパースペクティヴと、フェミニズムへのポストモダニズムの導入以降に主流となった「規律実践としての美」」(要約より引用)
 というふうに整理しています。男社会によって美の基準が作られたという美のパースペクティブを「抑圧としての美」、実は女性自らが美しくなることを主体的に求めているという美についてのパースペクティブを、それは女性に対する規律権力が働いているのだという解釈に基づいて、「規律実践としての美」と呼んでいます。すごくいい概念整理ですよね。
 この議論を踏まえると、2010年代以降の我々は、いったい「何としての美」の中を生きさせられているのでしょうか。(誰かいい用語を思いつく人いたら教えてください。)かつて、私はある研究会で、「2000年代から2010年代の新自由主義の中で、女性たちは、自分に自信を持つために美しくなることを目指すという、『エンパワーメントのための美』を生きさせられているのだ」と言ったら、自分としてはけっこう的を得た、これ以外ない良い表現だと思っていたのですが、「なんかすごく第二波的な響きがする」「ぜんぜん新しい感じがしない」と言われ、却下されてしまいました…。今後どうするかは考え中です。
 2000年代以降のフーコーの系譜を引き継ぐ新自由主義時代の権力論で出てくる「監視=管理社会」とか、「認知資本主義」とか、「ハイパー資本主義」とかを入れてみても、美の場合にはピンとくる概念にならないってところが面白いところです。
 
ここまでの議論を補強するために、補足的に例を挙げると、近年の女子力の議論を見てもわかるように、女子力を上げるのは、
 
1、自分のため、
2、異性にモテるため 
3、同性もしくは全方向モテのため
4、仕事を円滑に遂行するため
 
のようなものが挙がるようになっており、4は社会構造による強制と解釈することもできるような気がするし、2も異性愛主義的な現代社会による強制と解釈できるとしても、1,3のあたりの女性の一主体としての主張を無視するわけにもいかない感じになっており、やはり美は社会構造によるのかそれとも主体によるのかの二分法に関しては、どちらもです、という答えになってしまって、女子力分析がうまくいかない。
 
 以上より、「現在の社会で通用している美の尺度は、社会構造が作り上げたものか、それとも主体によるものなのか」の二分法では現在の美の実践は読解できないということが結論づけられるのではないかと思う。
 
 というわけで、物質そのものとそのネットワークに着目する分析方法が、主体/社会構造の二分法を打ち破る新たな社会学理論モデルになるのではないか(そうなるといいな)、そうなると社会学理論の進化だと言えるな、と思っている、今日この頃でした(案外私のミスコン調査はこの方向を目指しているのかもしれないと、考えを整理していてわかってきました。2月のミスコン研究会は諸々の事情によりお休みなので、この論考を研究会代わりにここに置いておきます)。

フェミニストたちの言う新唯物論について2: ブライドッティ『ポストヒューマン』(2013=2019)第1章まとめ

 本ブログ筆者・高橋が、「ポスト」フェミニズムや「ポスト」ヒューマニズムを重視するのは、「ポスト」以下にくっついている「フェミニズム」や「ヒューマニズム」の思想を、新しい時代や社会の状況を踏まえて、練り直す必要があると考えているからです。(沢山発生している「ポスト◯◯」論って、80年代ポストモダン論の副産物なんだよなぁ。)

 今日は、ロージ・ブライドッティ『ポストヒューマン』(2013=2019)第1章の議論の大枠をまとめます。すごーく分かりやすく書く、というのが今日の目標です。フェミニズムの話は、広く多くの人に伝わることが重要なので。

 

1.なぜブライドッティを読むのか

 ブライドッティに着目すべき理由は、彼女が新しい主体の理論を構想しているからです。 

ytakahashi0505.hatenablog.com

  上記でも少し触れましたが、社会構築主義(=ポスト構造主義)以降、主体が権力によって構築されているのだとすれば、抵抗主体はいかにして可能なのか?という大きな問いが残っていました。バトラーの「パフォーマティブ」という概念に抵抗主体の可能性を見出すというような形でなんとか乗り切られてきたり…していました。が、網の目状に張り巡らされた権力関係(=社会)の中の「主体」とはどのような存在なのかについて、ポスト構造主義アプローチとは異なる理論的説明をしてくれる理論はけっこう待望されていたと言っていいと思います。

 ブライドッティの良さは、新しい主体の理論を目指しているところにあります。これが私の立場です。では行きましょう。

 

2.第1章「ポスト人文主義」のまとめ

 基本的にブライドッティの議論は、次のような構図の中でなされている。

【1】ヒューマニズム → 【2】アンチヒューマニズム → 【3】ポストヒューマニズムもしくはポストヒューマン

 

【1】ブライドッティが言う「ヒューマニズム」とは、ルネサンス人文主義ヒューマニズム)ならびに、ファシズムに抵抗したヨーロッパの共産主義共産党ヒューマニズム

 このヒューマニズムの思想家として、例えばサルトルボーヴォワールらの実存主義哲学者がいる。


【2】「アンチヒューマニズム」とは、のちにポスト構造主義と呼ばれる、68年世代の思想家のこと。彼らの思想は、教条主義的な共産主義ヒューマニズムを批判するところから始まった。思想家として、ブライドッティが重視しているのは「人間の死」を宣言したフーコードゥルーズフェミニストとしてイリガライ。

 彼ら彼女らは、マルクス主義が案に含み持つヒューマニズムを批判。すなわち、

「人間を世界史的中心に絶えず位置づけようとするヒューマニズム的傲慢」(ibid. 40)

を批判し、

弁証法的で対立的な思考法から身を引き、人間の主体性についての変わりゆく理解に対処するための第三の方法を展開した」(ibid. 40)。

 第三の方法というのが、脱構築だったり、権力分析といったポスト構造主義的な方法でした。

 

 このようなポスト構造主義によって、人間観が変わりましたポスト構造主義は、「人間本性」という人文主義的通念に対する不服従を呼びかけ(=「人間の死」)、「人文主義、合理主義、普遍性に基づくヨーロッパ的アイデンティティの古典的な定義を拒否するに至った」(ibid. 43)。

 その結果、人間は「一つの理想でも、客観的な統計上の平均や中庸の立場」でもなく、人間は歴史的・文化的に構築されたものであり、「人間なるものは一つの規範的な約束事」(ibid. 44)であるという人間観が思想上、一般的なものになった。

(人間とは、)「識別可能性――すなわち〈同一性〉――についてのある体系化された基準であり、それによって他のものすべてが査定され統御され、所定の社会的な場所に割り当てられる。そのこと自体は悪いことではないが、ただそれが人間を高度に統御的なものにし、またそれゆえに排除や差別の実践に加担するものにしている。」(ibid. 44-5)。

  

【3】そして、現代のポストヒューマニズムもしくはポストヒューマンと言われる思想についてです。現代のポストヒューマニズム/ポストヒューマン思想の流れはおもに3つあると、ブライドッティはまとめています。

(1)道徳哲学に由来するもの ポスト構造主義以降の価値相対主義的な状況に対する応答としてのポストヒューマン思想。

ヌスバウムら現代のリベラルな思想家によるもの。「人文主義的なコスモポリタン普遍主義」を復活させることで乗り切ろうとしている(ibid. 63)。

「私はヌスバウムが主体性の重要性を強調していることに大変満足している。しかし、彼女がその主体性を個人主義や固定したアイデンティティ、安定した場所、そしてそれらを束ねる道徳的紐帯に対する普遍的信念に再び結び付けているという事実には不満である。」(ibid. 63)

(ブライドッティって、ほんと端的に分かりやすく書いてくれる良い思想家ですよね)

 

(2)科学技術論に由来するもの
①ラトゥール
②分析的な形式のポストヒューマン理論、フランクリン、ルーリー、ステイシーら(パンヒューマニティを提唱)
③ニクラス・ローズ
④フェルベーク

 

(3)批判的ポストヒューマニズム:これがブライドッティの立場
1、批判的ポストヒューマニズムは、科学技術統治(政治的次元)の関係を扱うもの

ポストヒューマン理論は、科学技術の複雑性、そして、それが政治的主体性や政治的エコノミーや統治の諸形態にとって含意するものの両方を含むものでなければならない。:69

2、ポストヒューマンの主体は「多数性」によって構成されるが、説明責任を有するもの

わたしは、批判的なポストヒューマンの主体を、帰属の多数性をめぐるエコフィロソフィーの内部で、多数性において/によって構成される関係的主体として定義している。それは、種々の差異を横断して作用し、内側から差異化されてもいるが、それでもなお確固とした根拠に基づき説明責任を有する主体である。(78-79)

・ポストヒューマンな主体がもつ「説明責任」とは、「非単一的な主体のためのポストヒューマン的倫理」に基づいたもの。そのポストヒューマン的倫理は、「自己と他者――非-人間ないし「地球(=大地)」の他者を含む――の拡大された意味での相互連結を提示する」。

 うむ、ここらへんはもう少し説明が欲しいですよね。ブライドッティがここで言っている「説明責任を持つ多数性によって構成される主体」のあり方を分析するためのツールは、その後の章で論じられているので、今後さらにそれを理解していく必要がありそうです。

 

3.まとめ

 第1章は、「ポストヒューマニズム」を扱っていました。ブライドッティは、基本的に、ヒューマニズムは何度も「終わった」と言われ、そして何度でも蘇るものであると考える立場をとっているように見えます。ヒューマニズム自体が批判を受けて変容し、相手を取り込みながら生き続けるという、そういう力を持っていると言えるのではないかと、私も思う。

 ヒューマニズム人文主義人間主義)が「健康な成人・白人・男性」を理想的規範とする人間観に基づいた思想だったからと言って、「ヒューマニズム全体を捨て去るべき」と主張することは、なかなか難しい。というのも、「女性にも発言させろ!」、「有色人種にも同等の権利と社会的承認を!」と主張するとき、私たちはヒューマニズムの伝統と理念に基づいているわけなので。

 ということを踏まえると、ポスト構造主義による「人間の死」とは、それまでのヒューマニズムの限界を指摘し、新しいヒューマニズム(西洋中心主義・男性中心主義・白人中心主義的でないヒューマニズム)を目指したものだったというブライドッティの見方は、穏当で妥当な見方だと言えると、私は思います。

「ポスト植民地主義思想が主張するのは、仮にも人文主義に未来があるとすれば、それは西洋世界の外側から、ヨーロッパ中心主義の諸限界を迂回してやってくるに違いないということである。」(ibid. 42)

 

 そして、このようなヒューマニズムのあり方は、フェミニズムにもおそらく共通している。フェミニズムは何度でも終わったと言われるが、言われるたびに批判相手を取り込みながら変容し、復活していくのではないかと思います。 近代が終わったと言われながら、何度でも復活してくるみたいに。

 以上、ポストモダニズムから発生してきたポストフェミニズムとポストヒューマンの話でした。

フェミニストたちの言う新唯物論について

1.

 ジェンダーフェミニズム領域において社会構築主義は意義深いものでした。「男/女」という性別をジェンダー(歴史的文化的に構築されてきた性差)とセックス(生物学的性差)に分け、前者を問題にするという形で、性別の脱自然化( denaturalized )を可能したからです。

 しかし、最近、社会構築主義は「言語論的モデル」だとか、言語一元論だ(Frost 2011)とか、デカルト心身二元論だ(Tuin& Dolphijn 2010)、とか言われて批判されています。一元論だと批判する人もいれば、二元論だと批判する人もいるのですが、言われているのはだいたい同じことで、社会構築主義的アプローチは身体・肉体(body)の物質性をきちんと扱ってこなかった!軽視してきた!ということです。

 このとき念頭に置かれているのは、社会構築主義的や、ポスト構造主義的な議論であります。が、具体的に誰の何の議論が批判されているのかというと、実のところはっきりしません。ポスト構造主義の理論家として例えばバトラーがいますが、バトラーの著作を挙げて直接批判している新唯物論者はあまりいません。みんな「言語論的モデル(linguistic model)を乗り越えなければならない」とか、「超越論的な(transcendental)認識論に立つことなく、物質を重視し」などといって済ませております。社会構築主義は重要だと思っている私としては、このようなずさんな批判に対しては言いたいことが色々あるのですが、ここはともかく、社会構築主義批判者の言い分を聞きましょう。*1

 

2.

 色々なフェミニストがそれぞれに「新しい唯物論」(new materialismやneo-materialism)を言っていて、少しずつ異なっています。

 Van der Tuin, I. and R. Dolphijn (2010). ‘The Transversality of New Materialism’.
Women: A Cultural Review 21.2: 153-71. (検索するとウェブ上で読めるよ)

 によると、 一つ目に、90年代後半に デランダ(DeLanda)やブライドッティ(Braidotti)が言い始めた新唯物論がある。これは、スピノザの思想を重視したドゥルーズの思想にインスパイアされている。スピノザは、心身二元論デカルトを批判した一元論者。この思想を、社会構築主義デカルト的二元論(自然/文化)を克服するためにぶつけています。

  二つ目に、文化理論(culture theory)の中でも物質性を大事にする文化理論の人たちが言い始めた新唯物論がある。例えば、ハラウェイは「naturecultures」と呼んで「一元論」を探求し、デカルト心身二元論を乗り越えようとした。

 どちらも、身体や物質の具体性を強調する傾向があり、デカルト心身二元論ではないものを探求する点で共通しています。

  Tuin& Dolphijn (2010)が分けた二つのそれぞれに対して、私は次のような印象を持っています。

 ブライドッティの方は、環境人文学とか地理情報学、バイオテクノロジー、コンピューターサイエンスなどの学問領域を視野に入れて、人新世とかポストヒューマンとかシンギュラリティ(AIが人間の知能を越えること)とか言いながら、新唯物論を考えているという特徴がある。

 科学技術の発展に伴って考えなければならないテーマとして浮上してきた研究対象群を捉えるためには、社会構築主義ではうまく捉えられない部分も出てきており(地層学や環境人文学に基づいた人新世とか、バイオテクノロジーがどう社会的に使われて社会秩序を作っているかとか)、それらを捉えるための新しい分析視点として新唯物論を提示している(←これからさらにきちんと検討して論証します)。

  それに対して、後者のニューマテリアリズムを言うフェミニストたち(文化理論の人たち)は、けっこう素朴に身体の経験に根ざした思想を目指している人が多く、フェミニズムがずっと考えてきた女性の身体性や女性としての身体の経験に関する考察の系譜に基づいていることが多い。「妊娠という経験」についての深い考察とかはフェミニズムの十八番(おはこ)でした。こういうのを大事にしている人たちは、社会構築主義全盛期に疎外感を抱えていて、「やっぱり身体の具体性も大事じゃない?」と言うために、「ニューマテリアリズム」と言い出したというかんじがしています。(今後、さらに勉強して、この印象を検証していく予定です。この点に関して何か知っている方がいたら教えてください。)*2

 今日は、後者の文化理論の「ニューマテリアリズム」の方の紹介です。

 

【紹介する論文】Frost, Samantha, 2011, "The Implications of the New Materialisms for Feminist Epistemology",  In H. E. Grasswick (Ed.), Feminist Epistemology and Philosophy of Science, Springer:69-83.
 

 

 これは、一般的で無難なニューマテリアリズムの論文だと思います。ちなみに、一般的で無難なというのは、私においては実はあまり誉め言葉ではありません。「とくに面白いところはないがよく見られる、パターン化されたロジックが書かれていて、安定感のある論文」くらいの意味です。 引用されている回数が多く、ニューマテリアリズムの基礎文献の一つと言えるのではないかと思います。

 

 大事なところだけ抜き出すと、

New materialists aim to shift feminist critical analysis from a framework within which the agency of bodies and material objects is understood largely as an effect of power – a unidirectional account of agency – to a framework within which, for example, culture and biology have reciprocal agentive effects upon one another. In calling for feminists to acknowledge that matter and biology are active in their own right, new materialists push feminists to relinquish the unidirectional model of causation in which either culture or biology is determinative and instead to adopt a model in which causation is conceived as complex, recursive, and multi-linear. To shift our understanding or model of causation in this way represents a huge challenge: feminists will have to retool their theories of explanation and political critique so that they encompass both an awareness of the ways in which power is discursively naturalized and an appreciation of the distinctive and effective agency of organisms, ecosystems, and matter. This in turn will demand that feminists rethink how to apportion responsibility for injustice and assess the possibilities for and paths toward social and political transformation. (Frost 2011:71)
 
 ざっくり意訳すると、「ニューマテリアリズムというのは、次のようにフェミニズムの分析フレームワークを変えることを目指すものだ。すなわち、身体の主体と物質的客体は権力の効果であるとするフレームワーク(これは主体の一方向的な説明)から、文化と生物学が相互に活発な影響を与えるというフレームワークへ。文化かもしくは生物学かのどちらかが決定要因になっていると考えるのではなく、多元的に考えることを目指すのだ。これによって、有機体の主体性や、エコシステムや、物質を有効に説明することができるようになる。」(Frost 2011:71、意訳)
 
 New materialists aim to counter the figuration of matter as an agent only by virtue of its receptivity to human agency. They try to specify and trace the distinctive agency of matter and biology, elucidate the reciprocal imbrication of flesh, culture, and cognition, investigate the porosity of the body in relation to the environment in which it exists, and map the conditions and technologies that shape, constrain, and enhance the possibilities for knowledge and action.(Frost 2011:74)
 
 
In their effort to denaturalize nature and deculturalize culture, new materialists push feminists to decenter human intentionality and design in the conceptualization of the relationship between nature and culture. In tracing the dynamic interactive processes that constitute objects and organisms as at once ‘100% nature and 100% nurture’ (Fausto-Sterling 2005, 1510), they insist that we attend to both the agency of the human or cultural upon the biological or natural and the agency of the natural or biological upon the human or cultural. (Frost 2011:77)
 
  もちろんこれは、本質主義への回帰を意味するのではないと繰り返しかかれている。例えば、

In working against biological essentialism, feminists quite understandably have tended to deny matter or biology any agency at all in shaping social or political relations.(Frost 2011:71)

 で、このマテリアリズムはデカルト的な心身二元論で想定されていたような「物質」とは異なる。マルクスが、人間によって働きかけられる「物質」とも異なるよ、と言われているが、どう異なるのか、この論文だけではうまくつかめなかった。

  この立場は、ダナ・ハラウェイが指摘するようなパースペクティブの部分性(partiality)を大事にするものになる、とのことです。

partiality of perspective that is so central to the various iterations of standpoint theory – although, as Donna Haraway has pointed out, the recognition of such partiality is both a useful prompt to political humility in the face of diversity and a goad to coalition building (Frost 2011:79).

 

 

 3.新唯物論フェミニズムは何を分析しようとしているのか

 かつての唯物論フェミニズムは、家父長制の経済的基盤を分析しました。新唯物論フェミニズムは、何を分析しようとしているんだろうか? この方法論(ニューとかネオとかが付いたマテリアリズム)をとることで、結局のところ何が分析されているんだろうか? ということが気になっているのですけれども、いまのところ、まだ明らかではありません。グローバル世界のジェンダー秩序を構成している何かなのではないかと期待しているのですが。もう少し色々読んで、わかったら、お知らせします。

 

*1:注)お、 以下で述べるTuin& Dolphijn (2010:3)は、批判対象としてバトラーの名前を挙げていますが、

the failed materialism in the work of Judith Butler, and of the Saussurian/ Lacanian
linguistic heritage in media and cultural studies

「ジュディスバトラーの著作の中の失敗しているマテリアリズム」となっています。バトラーの理論の全部がダメって言ってるわけじゃないんですよ、と、きちんと予防線を張っています。ちなみに失敗しているマテリアリズムの著作ってBodies That Matter, 1993, のことですかね...

*2:こういう言い方をしてしまいましたが、現在でもなお分析すべき身体の経験があることは確かです。例えば、私はミスコン調査の調査計画を今申請中なのですが、なぜそれをやろうと思っているのかというと、外見という女性の身体的経験をもっと具体的にその物質的なレベルで見るべきだと思っているからだったりします。

ジンメルの「個性(Individualität)」概念の現代的有効性:後期近代の「個人化」のなかで(高橋幸)要約

ジンメル研の会報に載せてもらう要約文作った。昨年のジンメル研での報告の要約です。

ポストフェミニズムにはあまり関係していないけれど、せっかくなので公開させてください。ジンメル研究会会報は商業媒体雑誌ではないので、たぶん、ウェブ公開しても怒られないと思う。

これから校正が1回入る予定なので、もし誤字脱字や日本語の変なところ、論理的な矛盾(それは、今からは直せないが)などに気づいた方は、教えてください。

 

タイトル:ジンメルの「個性(Individualität)」概念の現代的有効性:後期近代の「個人化」のなかで(高橋幸)

要約

 1980年代中盤の欧米から始まる第二の近代において「個人化(individuation)」が進んでいる。個人化とは、個人の脱埋め込み化と再埋め込み化(ギデンズ、ベック)による個人の決定権の増大のことを指す。第一の近代における個人化が有産階級男性のものであったのに対し、第二の近代においては女性を含むより広範な人々の個人化が起こった。後者は、離婚・再婚・非婚の増加に見られる、親密な関係性の変容を伴っている。

 一方で、個人化という概念は、個人が抱えこむことになる社会的問題を表すものとして用いられてきた。社会的連帯の弱体化や、ライフコース選択とその結果の過度な自己責任化、雇用契約の短期化や結婚期間の短期化による自分は社会における代替可能な歯車の一つでしかないという感覚の高まりなどの問題が指摘されている。他方で、個人化という概念は、近代的個人が目指すべき自律的で個性的な個人の確立を指すという価値概念としても用いられてきた。個人化は、社会科学的な用語でありつつ、思想上の価値概念でもあるという特徴がある。

 現在「第一の近代」と呼ばれている近代化プロセスが個人に与えた影響について詳細に論じた社会学者としてジンメルがいる。ジンメルは、社会が近代化すればするほど個人は個性化すると論じたことでよく知られている。では、近代化プロセスのなかでも、とくに何が、個人の個性を発展させる社会的条件になるとジンメルは考えていたのだろうか。第一の近代の分析からジンメルが析出した「個人の個性的発展のための社会的条件」を特定することは、現代日本で起こっている第二の近代のもとでの個人の個性的発展のあり方を分析するための視点を確立するのに役立つと期待できる。

 上記の問いを明らかにするため、ジンメルが近代化と個性化について論じている『社会分化論』と『社会学』を分析した。その結果、ジンメルは、個人が個性を発展させるための社会的条件として、(1)個人の所属する社会圏が大きくなること、(2)圏が分化し、個人が複数の圏に所属するようになること、(3)個人が大きな圏の内部にあるより小さな圏での人格的コミュニケーションがなされることの3つを論じているということがわかった。ジンメルは、個人を既存の社会的しがらみから解放することが個人の人格に自由をもたらすと考えており、多様な圏に所属することで個人の多様な側面が発展し個性的人間になるとし、小さな圏での人格的コミュニケーションを通して、個人は自らの代替不可能性の感覚を養い、個性を発達させていくことができると考えていたことがわかる。

 この3つの社会的条件を現代日本に当てはめて考えてみると、例えば、日本語文化圏を越えたより大きなグローバル政治経済文化圏を準拠集団とすることや、ICT技術を用いて多様な人々とのつながりを作っていくことなどが、それぞれ(1)(2)に相当する。ジンメルは(3)として、『社会分化論』第3章ならびに『社会学』第10章で、「家族」を念頭において論じている。ただし、冒頭でも述べたように現代では家族が人格的コミュニケーションの場として機能していないケースがあったり、非婚者が増えていたりすることを踏まえると、個人に人格の代替不可能性感や唯一無二の感覚を備給する人格的コミュニケーションは、既存の家族の形態にとらわれない、より多様な形で展開されている可能性がある。

 本研究の知見を踏まえて、今後、現代日本における個人の個性的発展のあり方を分析するさいには、個人が所属している社会圏の大きさや数だけでなく、個人の個性に社会的裏付けを与えてくれるような小さな圏での人格的コミュニケーションが、具体的にどのような場でどのようになされているのかを、家族という枠組みにとらわれることなく見ていく必要がある。

女性の男性に対する敵対的/好意的セクシズムについて

【論文紹介】阪井俊文, 2007,  「セクシズムと恋愛特性の関連性の検討」,『心理学研究』第78巻,第4号:390-397.

 

 セクシズムとは「人を性で区別すること」くらいの意味であり、性差別(sex discrimination)とは異なります。

 敵対的セクシズムや好意的セクシズムは、男性の女性に対するものだけでなく、女性の男性に対するものも、当然あります。

  両価的セクシズムを提起したのは、グリック&フィスクら(1996)の研究ですが、女性の男性に対するセクシズムにも焦点を当てています(Glick & Fiske 1999)。 

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(阪井 2007:397)

 このブログを書いている筆者(高橋)は、女性の位置づけを次のように考えています。

 現代社会において、女性はいまだいくつかの観点から「マイノリティ」や「弱者」だと言えるところもある(つまり、マイノリティとはたんなる人数の問題ではないという立場を私はとっている)。

 しかし、女性は現在の社会構造下で全面的に抑圧された存在であり、全面的に弱者であるという考え方は、有効ではない。どの点で弱者化されているのか、弱者ゆえにどのような抵抗の仕方や権力の発揮の仕方をしているのかという抵抗的主体のあり方や弱者の権力の発揮の仕方をきちんと解明していくべきだ。その作業を経ない限り、現代社会のジェンダー秩序の編成原理を明らかにすることはできないのではないか。

 このような作業に取り組み始めると多くのフェミニストが警戒するだろうことは予想している。だが、新自由主義的な経済的・政治的構造の再編が進む現代の「ジェンダー秩序」を説明するためには、この作業に踏み込まねばならない。

 かつての「家父長制と資本制の二元的原理からなるジェンダー秩序」を指摘するためには、女性を抑圧するような構造を明らかにすることで十分だった。だが、現在の権力はより相互的な権力の行使によって成り立っていると言われることが多い。このような権力観を認めるのであれば、女性の側が男性に対するどのようなセクシズムをもってコミュニケーションしているのかも、ニュートラルに見ていかないと、権力構造全体と現代社会の権力の原理はうまく把握できないだろう。

 

 

 さて、阪井論文の言葉を使って女性の男性に対する「敵対的セクシズム/好意的セクシズム」とは何かをまとめると、女性の男性に対する敵対的セクシズムは、「男性優位の勢力関係に対する反発や反感に基づく否定的な態度や信念であり、男性は自分たちのことを見下してい る、すぐに性的な嫌がらせをしようとするなどの信念・態度」で構成されている。

 女性の男性に対する好意的セクシズムは、「男性優位の勢力関係を受容し、男性を経済的に支えてくれるありがたい存在と見なす態度や、自分たちにとって必要な存在とする価値観」のことを指す。

 これはいずれもステレオタイプに基づいた判断であることはたしかで、私もこの論文を読んだとき「あぁ自分はけっこうステレオタイプ化された男性像に基づいて現実の男性に接していたかもしれないなぁ」と思ったのですが、まぁ一度そういうことに自覚的になり、「いやまてよ、でも現実の男性でこういうところもあることは事実だし」…とかいうことを一周ぐるっとまわって考えたうえで、さて、このようなステレオタイプは妥当なのか、なぜこのようなステレオタイプが歴史的に成り立ってきたのか、これによってどのような社会的効果や権力の効果が発生しているのかなどを考えていくことが必要だと思う。

 

 阪井さんは、好意的セクシズムは男女間でパートナーシップを結ぶことへの適応として形成されたものであるという前提に立ち、好意的セクシズムは恋愛関係や結婚関係に対しては必要不可欠な要素なのではないかとしています。つまり、好意的セクシズムが強いことは、恋愛関係や結婚関係にポジティブな影響を及ぼしているのではないか、と。

 この仮説そのものがこの論文で検証されているわけではないので(後述するようにもうちょっと色々複雑)、ピンポイントでこの仮説が支持できるのか棄却されるのかは明らかではありません。これ調査したら面白そうだし、調査自体はできそうです。その人の交際人数とか恋愛経験と、その人の好意的セクシズム度を測定して相関関係を見ればいいという話なので(調査が簡単か面倒かとか、予算あるのかとかは置いておくとして)。

 ここまででとりあえず分かるのは、阪井さんは「セクシズムだからすべて悪、排除すべし、セクシズムをなくしていくにはどうしたらいいか?」という議論をしようとしているわけではないということですね。セクシズムがどのように機能しているのかを、ニュートラルに見ていこうという立場だとわかります。

 で、このような研究をしたからと言って、「現状肯定主義者!」とか、「保守主義者!」とかいうのは、当たらないと思います。だって、こういう権力のミクロな関係性の分析とか、権力の作用の仕方とかを解明しなければ、セクシズムを変えていくこともできないわけですから。

 

 それから、敵対的セクシズムに関して言えば、敵対的セクシズムを抱きつつ異性と付き合うという矛盾するようにも見える現象にどのように適応しているのか?という問いが成り立つわけで、それを調べるために、色々検討されています。

 

・・・続きます。

(今日は、いまからジンメル研究会会報に載せてもらう文章を書く予定なので、続きはまた今度) 

#metooというハッシュタグ運動の拡がりについての論文を紹介

「2010年代中盤からのファッションとしてのフェミニズム」を読み解くための文献紹介シリーズ1:#metooというハッシュタグ運動の拡がりについて
 
論文1.Hugo Browne-Anderson, 2017, "How the #MeToo Movement Spread on Twitter:
What can data science tell us about tweets with the #MeToo hashtag? ", November 14th, 2017,DataComp,  (https://www.datacamp.com/community/blog/metoo-twitter-analysis,
の内容を紹介します。 
 
ウィキによると、「10月15日にアリッサ・ミラノが#metooを呼びかけると、15日中にそのフレーズは20万回以上使われており、16日までに#metooを含むツイートが50万回投稿された。Facebookでは、最初の24時間にこのハッシュタグが、470万人以上によって、1200万回投稿されており、そのうちの45%が、北米のユーザーだった。」
 
The phrase had been used more than 200,000 times by October 15, and tweeted more than 500,000 times by October 16.On Facebook, the hashtag had been used by more than 4.7 million people in 12 million posts during the first 24 hours. The platform reported that 45% of users in the United States had afriend who had posted using the term.
 
というわけで、ツイッターAPIで、 2017年11月24日から11月10日までの#metooを含むツイート50万件を抽出して、分析した。
 
ツイッターAPIは、部分集合(subset)を引いてくることしかできないので、#metooを含むすべてのツイート数をカウントすることはできないが、いつ、どれくらい、どこでツイートされたのかという全体のトレンドを捉えることができる。
The Twitter API allows you to pull a subset of all tweets so, although the absolute number of tweets will not account for all of them, you'll be able to see the overall trend.
 
 

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ハッシュタグツイートは、たいていの場合、半減期を持つのだが、#metooの場合は、
2週間たっても減らず、第3週目になってようやく減り始めたことが確認できる。
 
24時間の中で、いつ投稿されているかを見ると、下記のようになる。
 

 

アメリ東部標準時間(Eastern Time)での生活サイクルと合致するので、ツイートのマジョリティが北米在住者だったことがわかる。

 

#metooツイートを言語別に見ると次の通り。