ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

ネグリ&ハートの『アセンブリ』(2017=2022)まとめ—左翼たちよ「棘を抜いて傷を癒そう」

どんなテーマを扱っている本なのか

アラブの春、ポデモス(スペイン)、シリザ(ギリシャ)等々の顛末をみながら、これからの左翼運動のあり方を真剣に、最前線で、考えている本です。

ネグリ&ハートといえば『<帝国> ―—グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』(2003)や『マルチチュード ―—<帝国>時代の戦争と民主主義 』(2005)で、アイデンティティ・ポリティクスを批判し、マルチチュードの運動を提唱してきたことで有名です。実際、シングルイシューの関心を持つ有象無象の人がSNS等で情報収集して集まり、一時的に連帯して大規模デモを実現させる「マルチチュード」。この「群衆」とも「公衆」とも異なる新しい「マルチチュード」という概念は、2000年代頃からの運動を記述するのに有効であり、多くの論者によって用いられる概念となってきました。

この時期のかれらが批判していたアイポリ(アイデンティティ・ポリティクス)とは、一つのアイデンティティ固執、それを均質的なものとみなしてそれに同一化することを個々人に要求し、そのような連帯に基づいて政治的な要求をすることです。そのようなアイポリを越えて、マルチチュードの運動を!というのが、かれらの主張でした。

本書『アセンブリ』では、さらにこの”一時的な祝祭空間を作り出すマルチチュード”が(散発的な)運動体である状態を越えて、実際の日常的社会を回していけるような実効力のある組織として機能するにはどうしたらいいかという問題を考えています。

とくに、ボナパルティズムに陥らない左翼的指導者とはどのようなものかという問題、言い換えると、権力奪取後も、民主的であり続けられるような組織はいかにして可能なのかという問題が扱われています。

これまで「マルチチュード」は「リーダーレス」な水平的・ネットワーク的組織ということが強調されてきたが、「いわゆる指導者なき(リーダーレス)運動」は、自然発生的なものでは決してなく、高度に組織されたものなのである。(p.ⅵ)
マルチチュードを集合させる「指導者」は政治的な起業家(アントレプレナー)でなければならないのだ。彼らは人々を寄せ集め、新たな社会的結合を作り出し、互いに共同しあえるように規律化する。(p.3)

左翼組織の指導者(リーダー)というのは「マルチチュードの民主的な起業家活動」(p.9)であるというのがかれらの提起です。「新自由主義で称揚されてきたアントレプレナー」とは異なる「アントレプレナーオルタナティブ」として、左翼組織指導者を捉え、その可能性を模索しています。

ネオリベ批判をする左翼は、基本「アントレプレナー(起業家)」という言葉を聞いた瞬間に、反射的に「起業家とはネオリベに取り込まれた人たち」と糾弾しがちです。その理由は、「アントレプレナー」が決断力、実力、選択、自己責任などを引き受ける現代のネオリベラルな成功者像(IT企業創業者とか)として広がったためだったりします(例えばアンジェラ・マクロビーがThe Aftermath of Feminism, 2008とかで言っています、他にも多数こういう議論をしている人がいる)。また、ニューパブリックマネージメントなどを通して、地方自治体の公的機関が果たすべきケア等の仕事が、民間NPOなどに委託され、その受注先としてNPOや社会的起業家などがあったりしたことも左翼がアントレプレナーをポジティブに捉えることを躊躇してきたことに関わっていそうです(でも、後者の文脈において、福祉を外部化する自治体を批判するのは分かるけど、そこで受注先のアントレプレナーを批判するのは論理的に言っておかしいですよね)。このような状況の中で、ネグリ&ハートが「アントレプレナー」こそが現代では重要で、これがマルチチュードを引っ張るリーダーの像なのだという方向の議論に一歩踏み出してくれたのは、とてもありがたいことだと、高橋個人は思っています。

・というのも、私の世代、私のまわり(同世代からその下の世代)には優秀な社会的起業家が多く、かれらがどんなに奮闘して頑張っており、実際社会的課題をビジネスとして解決しているかを知っているからです。社会的起業活動は、現実的に社会課題に対処し、社会を変えていく有効なやり方だと思っているので、左翼組織のリーダーをアントレプレナーとして捉えるのは、とても筋が良いと私は思います。こういうことを断言してしまうと、上の世代の左翼からイヤミを言われるだろうけど*1

議論の骨格を成す論点1——革命運動や解放運動の歴史が辿ってきた左翼組織のリーダーシップの問題 

運動のなかでリーダー的役割を果たすような知識人は何をすべきなのかと言うと、

学者は象牙の塔に閉じこもるべきだとか、理解不能な専門用語で書くべきだとか言うことではなく、…...運動の中から現れ出た、理論的知識と政治的意志決定に寄与したり、それらの価値を増大させたりしながら、共同調査のプロセスに協働的に関与すべきだ(p.30)

納得できる提言だと思いました。実際、すでに現在40代から50代の先輩社会学者で、こういう仕事の仕方をしている人はけっこういるなと思いました。例えば、アクションリサーチ(平井太郎さんが色々書いている)とかも、このような方向性の中で可能性を持つ研究方法の一つだと思います。次のようにも論じられています。

「民主的かつ水平的な社会運動」(すなわちマルチチュードのこと)は「社会的領域全体を把握して、持続的な政治プロジェクトを丹念に作り上げる力」を発展させている(p.39)。したがって、知識人や幹部が組み立てた「戦略」で運動をするといった中央集権的やり方ではなく、「運動に戦略を、指導に戦術を」(p.39)というように、従来の役割を逆転させて捉えることが重要だ。

そして、「マルチチュードの戦略的能力を発展させることに力を注ぐべき」(p.42)である。

指導者が立てた戦略で運動体を動かすのではなく、運動体を成す個々人の議論や相互作用から出てきた戦略で運動体が動いていくという方向性が重要だよね、という話で、納得*2

・今回の本書のネグリ&ハートの左翼組織論は、少しリーダー論に偏っているようです。私個人としましては、マルチチュードを形成するメンバー間の相互作用がどのように一つの「組織」への求心力として作用し、そして組織の統合を保ち続けられるのか、その可能条件やメカニズムの解明が重要な気がしています。が、そのあたりのことは「指針は示した、あとは組織論の人とか運動論の人とかに任せた!」という感じなのだろうと思います。

議論の骨格を成す論点2——公(public)の復権ではなく共(common)へ

本書『アセンブリ』の重要な点は、コモンの創出を提唱しているところです。公(パブリック)の復権ではなく、コモンという、私的所有を組み替えた新たな「社会的所有」を提唱しています。近年の新しい左翼はこのようなコモンを目指すことを「新しいコミュニズム」と言ったりしていますよね。

ネグリ&ハートによれば「コモン」とは、

「集合的な自己統治の能力の育成と発達」(p.ⅷ)であり、

「コモンとはすなわち、地球の富や社会的富といった、私たちが分かち合い、その使用を共同で管理運営するもののことである。」(p.5)

「コモンの権利とは、民主的な意志決定手続きによる、富への開かれた平等なアクセス権のことだ」(p.124)

と定義されています。

とりあえず一般的な「コモン」の議論で言われているのは、SNSなどのプラットフォーム。これが<コモン>として、国家の管理でも私企業の管理でもない、社会的な共同管理・共同統治の下に置かれるべきだという話は、分かりやすいし賛同の多い意見だと思います。

ネグリ&ハートの議論が面白いのは、かれらの見立てでは、現在の資本主義の発展によって、生産様式が「社会的」になっている(「社会的生産」の領域の拡大)。だから、新たな「社会的共有(コモン)」の創設が可能だし必要だとされているところです。

詳しく見ていきましょう。

「資本主義的発展が私的所有の基盤を掘り崩し、オープン共有可能な<共>的な富(common wealth)の諸形態に適した潜勢力が作り出される」(p.ⅸ)

「資本はあらゆる社会的協働形態がより大きくなっていくことを必要としており、それらの形態には政治的な組織化と政治組織の基盤を形成することのできる潜勢力が宿されている」(p.ⅸ)

生産様式が社会的になっているから、そこでのつながりがマルチチュードの「潜勢力」にもなりうるはずだという論理展開になっています。

ところで、「生産様式が社会的になる」とはどういうことなのか? かれらによると、

生産が<共(コモン)>になりつつあると言うとき、……それが意味するのは、生産原理とその重心が変移し価値創造がネットワーク状につながった主体性を活性化し、それがともに生み出すものを捕獲し、吸い上げ、そして共有することをますます含意するようになっている、ということなのだ。(p.52)

と説明されています。例えば、SNSインフルエンサーがフォロワーとのコミュニケーションの中で、フォロワーの需要をくみ取りながら新たな商品を作り、その商品を組み込んだ彼女のライフログみたいなyoutube動画が享楽されるのと同時に、その動画が拡散して商品が売れ、その商品やインフルエンサー個人の物語が人々に共有されてコミュニケーションされていく......というようなことが、「ネットワーク状につながった主体」による「価値創造」によって資本主義が回っている、ということにあたると、さしあたり解釈することができそうです。

そして、このような価値創造をもたらす社会的つながりが、マルチチュード(政治的社会的運動体)をもたらす潜勢力にもなりうるんだという話だと私は理解しました。

もちろん現代の全ての労働が社会的労働になっているわけではなく、むしろそれはごく一部なのですが、「社会的生産」の領域が広がりつつあり、その協働のネットワークが「社会的ユニオン」や「社会的ストライキ」をもたらす潜勢力になりうる(ちなみに、その社会的ユニオンやストライキをもたらしうるのが「マルチチュードの起業家活動」です、p.200)という論理自体は、現実的な現代の運動の可能性とロジックを描いているのではないかと思いました。これが、社会的生産に基づいた社会的共有(コモン)の創設へという議論の骨子です。

 

この話の筋が面白い理由は、第一に、既存のネオリベ批判を越えた、建設的な未来像の方針の提示になっているからです。ネオリベ批判のひとつに民営化批判というのがあります。国営だったものが民営化され、公的なものが市場原理に飲み込まれていくことを問題視してきました。国鉄民営化反対、郵政反対、水道事業民営化反対などなど。このような民営化を進める与党を批判する左翼は、「じゃああんたは何を求めているの?」と聞かれると、公的なものの領域を守れ、福祉を手厚くして再分配をきちんとせよ、大きな福祉国家を維持せよという社会民主主義的な主張を述べてきました。

それに対して、ネグリ&ハートは、公的なもの(国家の領域)の復権という方向ではなく、<共(コモン)>という、私的所有を組み替えた新たな社会的所有というあり方を提起しています。私もこの方向の方がいいと思います。(社民党の国会での議席が3とかしかない現在の日本において、社会民主主義的な主張をすることにはあまり希望が持てないというのもあります。)

さらに、この議論が面白い第二の理由は、コモンの構想は、既存の私的所有概念や主権概念の組み直しを必要とするということをネグリ&ハートが論じているところにあります。この点は、社会思想史的に重要ですが、長くなるので別エントリーにします。

さいごに

結局のところ、この分厚い本が主張していることを一言で言うならば、「左翼は権力を奪取せよ、しかしこれまでとは別の仕方で」ということです。左翼は権力を奪取すると、権威主義的な既存政党のような組織になってしまったり、政権運営能力がないことが明らかになってしまったり、できる経済政策の自由の幅はそんなにないということが明らかになったりですし、選挙のたびに負けることが多いので敗北感からの諦めに満ちてしまうことも多いです。それに対して、ネグリ&ハートは「棘を抜いて傷を癒そう」と述べます。これは、けっこう私には刺さりました。以下の箇所を夕方にビールを飲みながら、ちょっと油断して読み直していたら、思わず涙が出ました。そういう刺さり方でした。

「人々を活気づける解放運動の残した苦さ」「失敗に終わった革命プロジェクトや、有望ではあったが内部で腐敗し、分裂した組織の残した苦々しさ」「私たちは組織に対するこうした反発を理解できるし、これらの敗北の多くを通じて、彼ら/彼女らと一緒に生きてきた。だが、敗北に打ち負かされてしまうことなく、敗北を認識しなければならないのだ。棘を抜いて傷を癒そう。……組織を拒否する社会運動はたんに無益なものであるばかりか、それ自身にとってもその他の組織や人々にとっても危険なものなのである」(p.22)

次のエントリーでは、所有概念と主権概念をどう組み直すべきだとネグリ&ハートが主張しているのかをまとめます。

ytakahashi0505.hatenablog.com

*1:ということで、日本の社会的起業家やNPOは、もっと報酬面で評価されるべきであり、社会的課題解決をしているという意義の度合いに応じて、もっと金持ちになるべきだと思います。今の状況は、かれらの優秀さと労働量、社会的意義の大きさ(地域の人々からの感謝され度)に照らして金銭的報酬が少ないという意味で不公正です。かれらがお金持ちになれるような社会制度を備えればこそ、そのようなビジネスに取り組む若者も出てくるので、報酬面は重要です。今のところこのNPO周りの報酬改善策として思いついているのは2つで、一つは補助金助成金を1年単位で使う必要があるという制度の見直し。もう一つは寄付金に関する税制上の扱いの是正。税控除等を効かせることで日本の寄付文化の規模を大きくし、政治家への献金・寄付ではなくNPO等の社会的団体への寄付額を大きくする必要があると思う

*2:→そうなると、かつて盛んに称揚されたジジェクが提唱するようなシニカルなイデオロギー理解(メタ的な視点に立ったイデオロギー理解)とかはどこまで有効なのか?という問題が出てくるような気がします。シニカルなイデオロギー理解とは、イデオロギーは、その真偽はともかく、人々がそれを信じていると人々が信じられる限りで機能しているものであるというようなもの。