ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

フェミニズム原理の日本社会への浸透

例によって、或る原稿のために書いた文章ですが、全面カットすることにしたので、ここに掲載させてください。どこかで今後使う可能性もあるので、ここ間違っているよ、とか、ここの論理展開が変ではというのがあったら、指摘してもらえるとありがたいです。

 

序章 バックラッシュ以後のフェミニズムとポストフェミニズム

1.フェミニズム原理の社会への浸透

1.1 

 フェミニズムには、大きく分けて、第一波フェミニズムと第二波フェミニズムがある[1]。第二波フェミニズムは、日本において1970年代から存在感を持ち始めた。そして、これ以降、「男女平等」な社会が公正な望ましい社会であるというフェミニズムが推し進めてきた原理は、少しずつ社会に浸透してきた。現在、男女差別や人種差別、いじめなどに反対し、それを改善するための行動をすることが社会的に望ましい、道徳的な態度と見なされるようになっている。フェミニズム原理(feminism principle)は、社会道徳の一つとなり、「社会」を批判する足場となっているといえる。

 だが、奇妙なことに、男女平等という理念は肯定するが、フェミニストフェミニズムという語に対しては拒否したりそこから距離を取ろうとしたりする行動が頻繁に見られる[2]。「フェミニズム原理」が広く薄く浸透していく社会で、「フェミニスト」が忌み嫌われ避けられるさまは、フェミニストはあたかも人身御供かのようだ。

 では、(なぜこのような事態になったのか。)日本の1970年代以降の日本でのフェミニズムの社会的あり方、どのように社会に受容されてきたのかについて概観してみよう。

 ちなみに、以下では「フェミニズム」と「フェミニズム原理」という言葉を区別して用いる。「フェミニズム原理」と言ったときには、広く社会的に受け入れられている「男女平等な社会が望ましい」という考え方のことである。

 

 1970年代から1980年代前半までフェミニズム原理を社会に浸透させる機能を担ってきたのは女性運動(Women’s Liberation)であった。「ぐるーぷ闘うおんな」や「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合中ピ連)」、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」などをはじめとする多くの女性運動が生まれ、大きな波となる。「個人的なことは政治的なこと(The personal is political)」を合言葉に、女性当事者の声を吸い上げて社会に問題提起し、社会的・政治的なものの領域を巻き込んだ議論を喚起していった。一方、この時期のマスコミは、女性運動を嘲笑しながら取り上げるという態度をとっている(江原[1981]2009)。

 1980年代中盤以降になると、放送・マスコミ業界の女性社員に支えられながら、フェミニストの学者、ジャーナリスト、小説家などがマスコミやジャーナリズムを通して活躍し始める[3]。マスコミを通したフェミニズム原理の浸透が始まった。消費と資本の論理で動くマスコミを媒介とするがゆえに、女性運動を媒介とする場合とは異なる――その意味で「歪んだ」――形で、女性が注目され、主題化され、議論の対象となっていった。例えば、視聴率や購買部数を稼げるネタとして、性的に解放された若い女性たちに注目が集まり、80年代の「大学生ブーム」、90年代の「女子高生ブーム(コギャルブーム)」が起き、「ブルセラ」「援助交際」が話題となった。また、経済力をつけた女性の生産・消費活動が主題化され、新自由主義政策と共振するフェミニズム――女性の社会進出(労働力化)や、消費主体としての新しい女性のあり方を論じるフェミニズム――が相対的に流通しやすくなった。

 マスコミを媒介としたフェミニズム原理の伝達は、若い女性のセクシュアリティと経済力に人々の注目が偏向することを対価としたが、着実に薄く広くフェミニズム原理が広まっていく下地を作っていった。

 1990年代中盤以降は、テレビ、映画、マンガ・アニメ、小説、音楽などのポップカルチャーフェミニズム原理を社会に浸透させる機能を果たすようになっていく。テレビドラマではキャリアウーマン表象が増え、性的に積極的な女性像の登場が話題になったりもした(『東京ラブストーリー』(ドラマ放映1991)、90年代論文引用挿入)。アニメ、マンガ、ラノベでは、自らメインで戦闘する戦闘美少女ものが、オタクの壁を越えて一般化する。これらの、フェミニズム原理と齟齬しない新しい女性像を描いたポップカルチャー生産-消費形態は、マスコミやジャーナリズムによる「女性性」消費とは異なっている[4]。そこで、これを「ポップカルチャーによるフェミニズム」と呼称することにしよう(本稿がポップカルチャーによるフェミニズムを重視しているのは、このような枠組みで捉えているからだ[5]。今後さらなる、ポピュラーカルチャーによるフェミニズムについての研究が必要である)。

 

1.2 フェミニズムの浸透による社会的道徳(「社会的に共有された価値」)のゆらぎ

 だが、このように社会のなかでのフェミニズムの存在感が増していく中で、フェミニズムは良くも悪くも人々の激しい感情的反応を引き起こしてきた。その理由は、第一にフェミニズムが人々の間に分断をもたらしたからであり、第二にフェミニズムが人々の道徳意識や社会全体で共有されていると考えられてきた価値や規範を揺さぶり、変化させるようなものだったからであると考えられる。

 

旧世代男性/新世代男性の分断:「おたく(オタク)」や「新人類」はフェミニズム原理を彼らなりに吸収して新しい世代意識を形成している

 フェミニズムはそれを支持する志向を持つ女性と、それに反対する志向を持つ女性との間の対立を引き起こしてきたことは、良く知られている(Bush 2007)。ただ、フェミニズムの社会への浸透によって分断されたのは、女性たちだけではない。男性たちもまた激しく分断されてきた。

 

 かつて男性フェミニストとは、俗に「女に甘い男」という意味になりえた[6]という事態は、男性内の分断があったことを明示するものだ。〈男/女〉と〈友/敵〉の二項対立を前提とした「男の味方/女の味方=男の敵」の世界観のもと、女の味方をする男性は男性を裏切る存在であり、自分だけ女に好かれようとする抜け駆け男だという判断形式があったのだ。

 1980年代に開花したオタク文化についての諸研究(大塚・ササキバラ2001, ササキバラ2004)に見られるように、1950年代末~1960年代生まれの新しい世代の男性たちは、1980年代に自らを「新人類」や「オタク(おたく)」と呼びながら、古い世代とは異なる世代意識(アイデンティティ)を確立していった。バブルの消費社会に適応した「新人類」と、それを横目で見ながらルサンチマンを抱えつつオタク的教養に没入した「オタク」は異なる存在だったとされているが(大塚 2004)、現在ではこの世代をひとまとめにして「オタク第一世代」ということが多い(東 2001)。重要なのは、「新人類」も「オタク」も、彼らが年長世代の男性(「おやじ」)とは異なる新しい世代意識を形成したという点で共通しており、そのさいにフェミニズム原理が取り込まれているという点である。ササキバラ(2004)は、「女性と見ればセクハラするような年長世代に抗して新たな世代意識‥‥」ということを論じている。

 オタク第一世代は、10代で直面したフェミニズムの衝撃を彼らなりに受け止めようとした最初の世代でもある[7]大塚英志(1958-)や宮台真司(1959-)に顕著に見られるように、彼らは少女マンガを読んで少女の内面を理解しようとし、高度消費社会を軽やかに生きる新しい主体として少女的主体を称揚した(大塚 [1989]2001, [1989]1997, [1991]1995, 宮台 [1994]1994, 1995)。大塚英志は「少女フェミニズム」という概念も提起している(大塚 [2001]2004)。高度消費社会を迎えた80年代日本の、新しい男性/古い男性という分断線を補強するものとしてフェミニズムが男性において機能していたことがわかる[8]

 

社会的規範や共有された価値の動揺:女子大生ブーム、コギャル、援交

 フェミニズムの社会への浸透は、オタクに限らず、より広い範囲の人々に影響を及ぼした。フェミニズム原理が社会に広まることで、家庭や恋愛・性愛関係といった個人的なものの領域(the personal)と職場などの社会的なものの領域(the social)の双方での変化が引き起こされた。恋愛や性愛の相手である夫婦関係や恋人関係において、それまで男性側が当然の権利と思っていたことに対する妻・恋人からの拒否・否定反応が示されるようになり、性別役割意識の再考を迫られるようになる。性愛という個人的な欲望と欲求に関連する相手からの拒絶や主張に対しては、個人レベルでの主体的な対応や行動が避けられなくなる。

 職場でも、女性社員の増加とともに女性社員の扱いに関する明文化されたルールの変化や、慣習や常識レベルの変化が起こっていく。全体社会を見渡してみれば、性の自己決定の原理に基づく、若い女性たちの援助交際ブルセラといった新たな社会問題が浮上してくる。

 多様な勢力が集まってうねりとなった第二波フェミニズムの主張を一言で言うのは困難だが、多くのフェミニストに共有されていた主張は、男女間の対等な権力の分配に基づいた女性の自立化を目指すものであったと、さしあたり言うことができる。女性の自立化のため、具体的にはおもに、女性の経済的資源へのアクセス権(職業キャリアの追求の自由=経済的・政治的自由)と、性の自己決定権(性的自立性・自由)の獲得が目指された。女性の性の自己決定が可能になると、男女は共犯的に性的解放へと進んでいった。セフレという言葉が一般化されたのは1990年代である。これが1990年代までの顛末である。フェミニズムが意図したかどうかは別として、結果的に、フェミニズムが社会に浸透したことで、女性の社会進出と女性の性的解放が同時に進むことになった。この二つが同時に進行したことで、人々の公私を巻き込んだ日常生活の変化がもたらされ、人々の不安を誘発し、社会道徳が動揺しているという感覚を引き起こした。

 

 1980年代には日本でもポストモダニズム思想が思想界・論壇のモードとなるなか、社会的に共有された価値・規範が失われたという議論が力を持った。「大きな物語の喪失」(Lyotard, 1979=1986)という議論に実感レベルでの裏づけを与えたものの一つとして、フェミニズムの浸透による女性の変化、それへの対応を迫られた男性の変化と分断があったと考えることができる。90年代になると、猟奇的な少年犯罪や少女たちの売春の背景として、繰り返し「心の不透明化」や「内面の欠落」が語られた(鈴木2017)。これらの議論もまた、大きくは「共有された価値規範の動揺」、「社会秩序の危機」という社会的意識に連なるものである。

 以上のように、フェミニズムは、女性の社会的権利の問題、実質的な生活上での決定権の問題であっただけでなく、社会全体の道徳や価値規範の変化を引き起こすものとして捉えられてきたという側面がある。

 フェミニズムが社会道徳の動揺を引き起こすものとして捉えられたがゆえに、フェミニズムに反対する勢力(バックラッシュ派)は、道徳性・社会秩序、伝統の回復といった道徳性の主張を通してフェミニズムのバッシングを行っていくことになった。

 

 

 

[1] 第一波フェミニズムとは、19世紀の欧米で始まった。奴隷制度廃止運動(Abolitionism)や労働者の参政権等の獲得を主張する運動を背景に、女性の財産相続権や高等教育を受ける権利、女性の職業をガバネス(家庭教師)以外に広げること、参政権などを要求してきた運動である。これらの運動は少しずつ前進し、女性を含む「国民」の全面的協力を必要とした20世紀の2つの世界大戦を通して、参政権も獲得されるに至った。

第二波フェミニズムというのは、第二次世界大戦後に生まれたベビーブーマー世代による1960年代のカウンターカルチャー(抵抗文化、社会を支配する権力に抵抗し、自由を追求。)のうねりの中で生じた。第二波フェミニズムは、日常生活における実質的な男女不平等があることを指摘し、人々の意識の内で暗黙の了解となっていた「性別役割」意識が、日常生活の男女不平等を再生産していることを告発していく。

[2] 例えば、Boxer(1997)のニューヨークタイムスの記事によれば、1997年のCBSニュースの世論調査において、すべての年齢の女性の3/4が「女性の地位は過去の25年間に改善した」と答えたが、「自らをフェミニストである」としたのはおよそ1/3であった。

[3] 江原由美子(1990:6-12)は、日本における女性学・フェミニズムの発展の時期区分として、次のようなものを提起している。1970年-1977年まではリブ運動の時代で、運動の側、活動家の側にフェミニズム論の主導権があった。1978年-1983年までは、婦人行政の変化を背景とする女性学創出期で、運動体、行政関係者、研究者のいずれも主導権をとれずに並びたった。1983年以降は有名人フェミニストによるフェミニズム論争の時代――「論を展開する際に、運動体名や層としての女に自己の論の正当性を求める(運動者がとるスタイル)のでなく、自己の論の受け手を学問世界に限定しその内部における評価を主要に追求する(研究者が通常取るスタイル)のでもなく、個人の名前でジャーナリズム等において社会評論等の活動を行うフェミニスト」(江原1990:12)によってリードされた論争が目立った時期――と整理している。

[4] 現在、ジェンダーの視点に立ったコンテンツ内容に関する分析――例えば、男性性/女性性がどのように表象されているのか等――や、オーディエンス研究――コンテンツがオーディエンスにどのように受容されているのか――のさらなる充実が必要とされている。多種多様多岐にわたるポピュラー・カルチャーを各領域、ジャンルをふまえながら詳細に把握するだけでなく、それを総合していくような視点も必要とされている。

[5] フェミニズム原理の社会への浸透機能を担った媒体の変化に基づいて、ウーマンリブが始まった1970年代からの日本のフェミニズムの流れを捉えるとき、70年代から80年代中盤までにそのプロトタイプが形成された「女性運動によるフェミニズム」、80年代中盤から90年代中盤までにそのプロトタイプが形成された「マスコミによるフェミニズム」、90年代中盤以降の「ポピュラーカルチャーによるフェミニズム」の3つに大きく分類することができる。2000年代以降のフェミニズムの展開は、この3つの理念型の組み合わせとバランスの変化による新たな編成として捉えることができる。2000年代後半以降には、SNS等を用いたインタラクティブなコミュニケーションの活発化のなか、新しい社会運動の編成が起こっており、フェミニズム原理の浸透機能における〈女性運動によるフェミニズム/マスコミを通したフェミニズム〉は新たな局面を迎えている。)

[6] 男女平等を求める若手フェミニストグループの「明日少女隊」が中心となって、岩波書店に対し、「広辞苑」の「フェミニスト」項の解説の修正を求めていた。2018年の第七版で、「①女性解放論者。女権拡張論者。②俗に、女に甘い男」(第六版)から、「①女性解放論者、女権拡張論者。②女に甘い男。女性尊重を説く男性」(第七版)に修正された。

[7] 男性学伊藤公雄(1951-)や細谷実(1957-)などのように、もっと早い段階でフェミニズムの衝撃を受け止めた人々はいたが、世代としてフェミニズムに向き合ったと言えるのは1950年代末から60年代生まれの男性たちである。

[8] ちなみに、女性文化現象を主軸にして世代分類する場合、1950年代末から60年代前半生まれは「アンノン族」である。