*某フェミニズム研究会で拙著の検討会をしていただきました。その時に出した著者解題をアップしておきます。
著者解題 高橋幸『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど:ポストフェミニズムと「女らしさ」の行方』(2020、晃洋書房)
概念整理
ポストフェミニストとは、「フェミニズムはもういらない」という考え方や社会的態度を持っている人のこと。
・このような社会的態度は、英語圏および日本語圏のポップカルチャー研究で指摘されてきた。本書で取り上げた代表的な例として『ブリジット・ジョーンズの日記』(第1章)と、日本の「めちゃ♡モテ」ブーム(第5章)。
・このような考え方や社会的態度に基づいて行動している人の具体例として、#WomenAgainstFeminismハッシュタグムーブメント(第2章で分析)。
ポストフェミニズム研究とは、
・ポストフェミニストの社会的態度を把捉し、そのような態度が生じてきた社会的背景を構造的に分析する研究。マルクス主義の凋落、ネオリベラリズム批判の議論という文脈の中で、フェミニストたちが形成してきた議論。具体的には90年代のリベラリズムとネオリベラリズムが融合した中道左派政権を批判する中で確立した用語(アンジェラ・マクロビーらのギデンズ批判を参照せよ→『現代思想マックス・ウェーバー没後100年特集』2020年12月号でこのあたりについて少し触れてもいます)。
・ポストフェミニスト/ポストフェミニズムという概念を立てることの意義:フェミニズムが一定程度浸透したがゆえに登場してきた、90年代以降の女性のフェミニズムに対する態度を、「保守女性」や「アンチフェミニズム」から区別して捉えることができるようになる。
→ポストフェミニズムに相当する事例、すなわち一見すると女性のフェミニズム離れや、フェミニズムの主張から距離をとるような意見・社会的態度の登場と見えるような現象を分析することで、単純に「保守化」とは言えない「多様な」女性のあり方(女性が自由を追求し、実現するあり方)が見えてくると期待できる。
・この事例を研究していくことが、現代の(具体的にはバックラッシュ後の)「女らしさ」をめぐる社会的意識や社会的態度を明らかにするものとなるのではないか、というのが高橋の狙い(このあたりは「あとがき」に詳しく書いてあります)。
ポストフェミニズム研究の目的・射程
なぜ私が「ポストフェミニズム」という語を使い続けたいと考えているのかというと、
・「フェミニズムはもういらない、フェミニズムは終わった」という女性たちもまた、実は「女性であること」をめぐるあれこれについてかなり真剣に考えている人たちであり、これによって起こっている社会現象もまた「フェミニズムの一種」ではないかと考えているから(第2章まとめp.56-59で書こうとして書ききれていないかも…なところ)。言い換えれば、彼女たちやそれによって引き起こされている社会現象はフェミニズムの文脈に位置づけて理解することができる(むしろ、そうしないと理解できない)と考えられるということ。
・第二波フェミニズムが一定の成果をもたらし、それと同時並行的にネオリベラリズムによる官製フェミニズムが進んでいるという現状を踏まえ、「一定程度フェミニズムが広がった後に起こっているフェミニズムの現状や問題」を捉えるための概念としてポストフェミニズムという語が有効だと、私は考えている。
第1章 先行研究整理からわかったこと
ポストフェミニスト女性の特徴は、1、フェミニズムから距離を取ろうとしていること(無関心もしくは反感)、2、恋愛や性に関する積極的態度を有していること。
→フェミニズムへの無関心や反発とは具体的にどのようなものなのか?の解明(第2章)
→恋愛積極的態度とフェミニズムは対立するのか?の検討(第3章)
第2章 #WomenAgainstFeminism分析からわかったこと
ポストフェミニストの主張の特徴として、「女らしさ」を楽しみたいという主張(「『女らしさ』重視」=女らしさへの自由)と、「女性」として扱われたくないという主張(「『個人』主義」=女らしさからの自由)の双方が見られることがわかった。
このような態度を的確に把握するためには、再度、公私二元論に近いものを持ち出して議論を整理する必要ありか? とも思われたが、それは色々と気が引けたので、第3章では、とりあえず「性別役割」と「性的魅力」に分けて整理した。性別役割としての女らしさからの解放と、性的魅力としての女らしさへの自由の追求。
(→さらに、この本を書き終わったあたりで、次のようにまとめると、より的確であるのかもしれないと気づいた。すなわち、ポストフェミニストたちは「自分が望まない女らしさを他者から押し付けられたくない」=「女らしさからの自由」と、「自分が望むような女らしさを実現したい」=「女らしさへの自由」の両方の自由を要求しているのだ、と)。
ポストフェミニストは、社会において性別による不利な待遇を受けないことを前提にして、「女らしさ」を楽しむことを追求しているということがわかる。これは、フェミニズムが要求してきたことが一定程度実現されているという信念のもとで、「女らしさ」を追求しているという第1章の先行研究の知見とも合致するものである。
第3章 「恋愛とフェミニズム」からわかったこと
「性別役割」と「性的魅力」の区別によって、フェミニズムの恋愛積極的態度批判の議論を次のように整理することができるようになる。フェミニズムは、他者に性的魅力を感じることを楽しんだり、自分の性的魅力を楽しんだりすることそのものを批判しているわけではないが、性的魅力の強化を通して性的差異が強化され、性別役割の固定化や、新たな性別役割の形成につながることを懸念してきたと整理できる。したがって、必ずしもフェミニストは恋愛積極的態度そのものを批判しているわけではない。フェミニストであることと恋愛積極的態度とは対立しない。
≪ここは、本を書き終わった後に考えたことなので、本には書いていません≫ ❶第1部と第2部のねじれ問題(第2部で扱っている日本の事例は「ポストフェミニズム」の事例なの?問題):端的に言えばポストフェミニズムとは恋愛性積極的態度を伴った「フェミニズム離れ」のことだった。しかし、本書で扱っている日本の事例はたしかに「フェミニズム離れ」かもしれないが、性は消極化しているんでしょ? そこどうなっているの? という問題。 バックラッシュ後を「ポストフェミニズム」の時期と定義し、その時期の女性向けポップカルチャーブームと社会的態度の動向を分析。
西欧のポストフェミニズムを理念型としたときの日本のポストフェミニズムの特徴は、この時期の若い世代における性的消極化が起こっていること。ここをどう分析し、捉えるのかを示す必要あり。 ❷この本で虫食いになっているところ(論証が抜けているところ)は、西欧における性積極的態度の実証。本書では、マクロビーとナターシャ・ワルターによるネオリベラリズム時代の女性の恋愛的性的積極的文化の紹介(この分野に関する日本語訳はほぼなし、すべて英語文献の紹介)で済ませているが、データにあたっても少し裏づけすることはできるはず。
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第2部「日本のポストフェミニズム」の概要
■性別役割分業意識の上昇(恋愛積極的態度を通した性別役割分業意識の上昇)
第4章 2000年代後半以降の性別役割分業意識の上昇:既存データの分析
第5章 バックラッシュ後の女性向けポップカルチャーで起きた流行現象で、性別役割意識の強まりを示す代表的な例としての「めちゃモテ」ブームの分析
2000年代後半以降の日本の20代、30代に見られる性別役割分業意識の上昇は、あたかも「若者の保守化」であるかのように見える。
→しかし、分析の結果、2000年代後半の性別役割分業意識の上昇は、個人のライフスタイルを決定する根拠となる価値観としての性別役割分業意識から、現実の状況に合わせて変えられるような性別役割分業意識への変化を伴っている。したがって、若い世代に見られた性別役割分業意識の上昇は、必ずしもフェミニズムが目指してきた理念の無効化や、若い世代のフェミニズムからの離反を意味しない。
「めちゃモテ」ブームを起こした当該時期の『Can Cam』内の「エビちゃんシアター」分析から、「かわいい」という感情を通して、男性と女性に対する異なる役割期待が形成されていることが明らかになる。かわいいものを理解できる感性を女性たちに要求するという、新しい女性役割期待が形成されている。『Can Cam』では、まさに「モテたい」と望む女性たちの恋愛積極的態度によって、「男らしさ/女らしさ」に新たな意味を付与されて蘇っている。恋愛積極的態度が、性的差異の強化を引き起こし、ステレオタイプな「男らしさ/女らしさ」を強化していることが見てとれる。
■性行動の消極化
第6章 2000年代後半以降の性行動の消極化:既存データの分析
第7章 性的消極化を象徴するような新たな性行動としての添い寝(ソフレフレンド)の調査
分析の結果、性行動の消極化の要因は大きく2つにまとめられる。第一に、ヘテロセクシャル男性と女性の間のダブルコンティンジェンシーである(3.)。男性においては、女性の意向を踏まえた自らの性欲表出の形式を模索するという「男らしさ」の変化と見られる行動が見られる。例えば、女性友人と対等な人間関係を築き、また、恋人同士であっても女性の意向に配慮して性交をしないと答えるカップルが見られるようになっている。女性においては「性的行為は男性が主導で行うもの」という男性イニシアティブ規範を保持している割合が男女ともに一貫して高い(男性も高いが、女性の方がより高い)。それゆえ、男性は女性の意向を踏まえた性的行動をとろうとするが、女性は男性が性的行動を主導するものという規範意識から、自らの意向をうまく伝えることができず、その結果、お互いに自分から行動を起こすことができないというダブルコンティンジェンシーの状況に陥っている。
第二に、「愛のなかに囲い込まれた性」の価値が高まり、性への閾が高まったことである(4.)。2000年代後半には交際経験率、性交経験率が低下しただけでなく、1990年代に観察された複数交際(ふたまた)やセフレといった恋愛・性愛行動は、2000年代後半以降急激に減り、高校生、大学生、若者(20歳から39歳まで)を調査したデータ上ではごくわずかとなった。性関係を結ぶためには、相思相愛の恋人になる必要があり、恋人になるためには、数回のデート、手つなぎ、告白といった儀礼を行うことが重視される傾向が高まっている。
「愛の中の性の価値化」は、恋愛積極的女性層(「めちゃモテ」女性に該当する層)が主導するかたちで、広がってきたことがうかがえる。愛のある性に価値があるとする人の割合は、高校生女子・大学生女子において1990年代後半から増加し、男子においても、2000年代前半から増加している。1990年代にピークを迎えた「性解放」後を生きる女性たちは、恋愛積極的であるだけで同時に性的にも解放的だとみなされがちだという状況にあった。2000年代以降の女性たちはこれに抗するように、愛の中の性の価値化を強めた。愛の中の性への囲い込みは、性解放後を生きる女性たちが、自らの望む形で、性の自由と愛の自由を両立させながら享受する方法だったと読解することができる。(これは必ずしも性行動の保守化とは言えない。性的自由とは、性行動に積極的になることだけでなく、したくない性行動をしたくないと言えることもまた「自由」を意味するのではないか。→参考資料も参照)
ソフレは、一見すると若者の性の消極化を示すものと見えたが、実際に調査してみるとソフレ関係を結ぶ男性は、いずれも性行動において活発な行動をしている人であるということがわかった。一晩を共に過ごすということをしていても一線を越えることを踏みとどまるという行動をする人たちには、「愛の中の性の価値化」があることが確認できる。
「ポストフェミニズム」という概念についての一歩踏み込んだ話(コラムⅠ)
1990年代に登場してきた、第二波フェミニズムを反省的に捉える新たなフェミニズムの潮流は大きく3つに整理されることが多い(田中2012、Haywood et al. 2006)。第一に、第二波フェミニズム運動が中産階級の白人女性中心的だった点を反省的に捉え直し、第三世界フェミニズムや女性の多様性(人種、エスニシティ、階級、セクシュアリティ等)を重視したフェミニズムの潮流(hooks 1981=2010、 Spivak1998=1998、岡2000)。第二に、フェミニズム運動が一枚岩的なものとして想定しがちだった「男性」や「女性」という二分法的概念や、「セックス/ジェンダー」という二分法に基づく既存のフェミニズム哲学を乗り越えた、新しい思想的可能性を探求するポストモダンフェミニズム(Butler 1990=1999、Haraway 1991=2017、竹村2003)。第三に、女らしさを肯定的に捉え、多様な女らしさのあり方を実現していこうとする文化政治的運動(カルチュラルポリティクス・ムーブメント)としての第三派フェミニズムである(Walker 1992、Baumgardner & Richards 2000)。本書で扱っている「ポストフェミニズム」とは、この三つ目である。
三つ目の文化政治的運動としての第三波フェミニズムは、90年代当初、ポストフェミニズムと混同されていた。両者とも、第二波フェミニズムが提起した「女らしさからの自由」に抗して、「女らしさへの自由」を主張するという点で共通していたからである。しかし、2000年代以降には両者は異なるものとして捉えられるようになった。第三波フェミニズムはフェミニズムを批判的に継承するという立場を取ったのに対して——つまり、「女らしさからの自由」を継承しつつ、「女らしさへの自由」をも求める(消極的自由と積極的自由の双方の実現を目指す)——、ポストフェミニズムは「フェミニズムを終わった」として、フェミニズムからの断絶も辞さない点で、第三波とは異なっている(と、マクロビーらが整理していると読解できる)。
今後さらに考察・議論する必要がある部分
- いつから「ポストフェミニズム」なのか? 時代区分の問題
・「フェミニズムはもう終わった」というような形でフェミニズムを無効化しようとする言説があることは、江原由美子『フェミニズムと権力作用』(1988)の冒頭でも、『ジェンダー秩序』(2001)の末尾でも言及されている。つまり、1990年代の日本ですでにポストフェミニズム状況が見られたのではないか?ということも可能かもしれない。本書では、①下部構造におけるネオリベラリズムの進展という変化と、②バックラッシュ後のフェミニズムに対する社会的意識の変化(上部構造=イデオロギー的な状況の変化)の2点に基づいて、ポストフェミニズムをバックラッシュ後に一般的に広く見られるようになったフェミニズムに対する態度として、位置づけ、定義している。(本書はバックラッシュが当時の若い女性に与えた影響を指し示し、これから議論をしていくための概念化であり、たたき台となる議論であると、私は考えている。)
ポストフェミニズム研究の今後の発展可能性
・本書が取り上げているのはポストフェミニスト女性だけだが、男性ポストフェミニストバージョンもあるのか? については、あると考えており、今後の課題だと考えている。
・例えば、男女ともに、「フェミニズムは終わった、もう古い」「まだ男とか女とか言っているの?」「フェミニストが男とか女とかいう概念で分析しているから、現代社会の男女不平等意識が残っているんだ」というようなことをいう人のことをポストフェミニストという。これは、フェミニズムを無効化しようとする言説の位置パターンで、アンチフェミニズムとは異なるものとして概念化しておくと、現在のフェミニズムをめぐる議論がよりよく整理できるようになる。
【感想】
検討会をやっていただいてみての感想。
長年運動をやってこられた方や、大御所多めの会でありまして、やはり、フェミニズムを批判しながら「女であること」を考えるというポストフェミニストの態度は受け入れられづらかった。予想できたことではあるが。#WomenAgainstFeminismに見られるように「アゲンスト」の立場をとっている時点で、彼女たちの話は聞いてもらえないというか、やっぱりフェミニスト的には、その点で引っかかってしまって、彼女たちが何を考えようとしているのか(ひいては、これを取り上げる私が何を論じようとしているのか)が理解されづらいのだなということが分かりました。(日本女性学会も基本こういう反応なのだろうなぁ…胃が痛い)
つまり、上記にも書いた「フェミニズムはもういらない、フェミニズムは終わった」という女性たちもまた、実は「女性であること」をめぐるあれこれについてかなり真剣に考えている人たちであり、これによって起こっている社会現象もまた「フェミニズムの一種」ではないかと考えているの部分が理解してもらえなかったということです。
ただそれでも、私は、現代社会の文化的風潮を捉えるために、そしてそれをフェミニズムの文脈で読み解くためにポストフェミニズムという概念化は有効であると思っているし、手放すべきではないと思っております。