(*単行本用の原稿として書いていたものですが、どこにも入らなくなってしまったので、ここにアップします。紙に印刷して本の形態で読む用の原稿であり、ブログ用の文体じゃないので、若干読みづらいかもですが、すいません)
「ポスト(post)」とは、基本的には「後の(after)」という意味だが、「ポストモダン」や「ポストコロニアリズム」といった用法に見られるように、モダン(近代)やコロニアリズム(植民地主義)が「終わった」ことを意味するというよりも、それらが新しい権力関係や資本、メディア、技術の中で、新しい段階に至ったことを指し示すものである。
カルチュラルスタディーズの大家スチュアート・ホールは、抹消記号としての「ポスト」を論じ、「脱構築は、諸概念が脱構築された形式で採用されるときに限り、現在を考えるための唯一の概念的道具、つまり手段として、それらの概念を維持しておくのである」(ホール)としている。ポストコロニアリズムというパースペクティブを取ることで、植民地支配が形を変えて行われているという議論が可能になる。
このことを踏まえれば、ポストフェミニズムというパースペクティブをとることで、第二波フェミニズムの議論を踏まえながら、変化した新しい社会状況において、いまでも有効なフェミニズムの主張と、限界を迎えた点とを精査しながら、議論をさらに進めていくことができると期待できる。
筆者は、とくに「性別役割批判」の可能性と限界という点に関心がある。第二波フェミニズムの性別役割分業批判が始まったのは、第二次産業を主要産業とする資本主義と福祉国家体制が確立した時期だった。「男は外で賃金労働、女は家の中で家事育児介護という再生産労働」という分業に基づいた家族が、この資本主義-福祉国家体制を支えていた。そのため、性別役割批判は、クリティカルな資本主義-福祉国家体制批判になりえた。
それに対して、第三次産業が主要産業となった資本主義は、ジェンダーに基づいた労働力管理よりも、男女に限らず短期契約で柔軟に(flexible)使える労働力を必要とするようになった。また、グローバル化の進展で福祉国家体制も切り崩されつつある。このような新自由主義体制のもとでは、第二波フェミニズムが行っていた性別役割批判の意味も変わってくることになる。例えば、性別役割を批判して、女性の労働力化を推し進めることは、新自由主義が要求する「柔軟な」(すなわち短期契約の不安定雇用)労働力化と共振し、推し進めてしまう役割を果たすことにもなりうる。
ポストフェミニズムというパースペクティブをとることで、福祉国家体制から新自由主義体制へという新しい社会の変化のなかでのフェミニズムの主張の意味合いの変化を捉えることができる。
ちなみに、フェミニズム文学研究者の竹村和子は、2000年代の初頭に、ポストコロニアリズムに対する深い造形に基づいて、 「 “ポスト” フェミニズム」を提起していた(竹村2003)。当時日本はフェミニズムに対するバックラッシュの真っ最中だったこともあり、この提起が広い裾野を獲得したとは言いがたい。だが、フェミニズムに対するバックラッシュがさしあたり一段落つき、そして他文化圏と同様にその後、ジェンダー意識の「保守化」傾向が見られる現在こそ、ポストフェミニズムについての議論を深めていく必要がある。
ポストフェミニズムに着目する理由
ポストフェミニズムは、とくに「女性のフェミニズム離れ」を主要な特徴とする。集合的アイデンティティの観点から単純に考えれば、女性の社会的権利を主張し要求する運動に女性が反対する理由はない。社会における経済的、文化的資源や地位権力などが男女に不均等に配分されていることの是正を求めることは、「女性」という集合的アイデンティティを持つ者にメリットをもたらす。
にもかかわらず、女性がフェミニズムに反対するという態度をとるとすれば、これは、男性という社会的アイデンティティをもつ者が、フェミニズムに反対することとは性質が異なる。女性によるフェミニズム批判やフェミニズムからの距離化は、ただたんに「バックラッシュ」の一環や「アンチフェミニズム」の一種といって済ませられる問題ではない。これまで論じられてきたアンチフェミニズムの枠組みでは捉えきれない問題である。
また、フェミニズムに反対する女性を、女性による女性性憎悪(ミソジニー)だと批判して済む話でもなさそうだ。フェミニズムから距離を取る女性たちの一類型として、恋愛に積極的で「女らしさ」や「女性性」を強調し、その享受を主張するというものがある。彼女たちに言わせれば、フェミニズムの方が、「女性性」から脱出しようとし、「女性性」を否定しようとする、女性憎悪に駆られた人々だということになる。
女性という社会的アイデンティティを持つ人々の、フェミニズムから距離を取る態度に焦点を絞って検討していくことで、バックラッシュの複雑な様相を捉えることができるだろう。この基礎的な考察を踏まえて、バックラッシュ後の現在の新しいジェンダー編成を捉えていく必要がある。
ポストフェミニズムというパースペクティブ(分析視角)をとることで、福祉国家(国民国家主義)体制からグローバル規模で進む新自由主義体制へという時代的社会的変化を踏まえたうえで、第二波フェミニズムの主張のうち現在でも有効な議論と限界を迎えた主張とを精査して、今後の継承につなげていくことができるようになる。この方向の研究として位置づけることのできる日本の研究として、菊地夏野(2019)がある。
また、高度資本主義においては、抵抗カルチャーとして登場したものが速いスピードで資本に取り込まれ、大衆化していくというサイクルが見られる(ストリートカルチャーとしてのヒップホップ、ラッブ、スケボー、ロックミュージック、インディーズバンド文化などがその典型)。いまやアンダーグラウンドカルチャーやサブカルチャーとハイカルチャー、主流文化の区別は成り立たない。抵抗カルチャーとして登場したフェミニズム原理もまた、すでに主流(マジョリティの)文化に吸収されつつあり、もはや主流文化対フェミニズム文化という構図では、捉えられないような文化状況になっている。例えば、90年代のアメリカ10代少女向けファッション誌界を分析したBudgeon and Currie(1995)は、主流文化の『セブンティーン』にもかなりの程度のフェミニズム的なメッセージが見られるようになっており、もはや「セブンティーン対ステイシー」というような分かりやすい構図では捉えられなくなっていることを指摘している。
このような文化状況を捉えるには、フェミニズムを支持する女性対アンチフェミニズムの女性という枠組みではなく、フェミニズム原理に基づく主張の意味合いが時代の変化のなかでどのように変化してきたのかを問題にするポストフェミニズムという枠組みが必要である。この方向の研究として位置づけることのできる日本の研究として、田中東子(2012)がある。(また、フェミニズム原理の浸透という文化状況の中で、なぜか執拗に「フェミニスト」に対する敵対的感情だけが残り続けるのもポストフェミニズム状況の特徴であり、探求すべき興味深い課題であると考えられる。)
最後に、「第三派フェミニズム」ではなく、「ポストフェミニズム」という分析視点をとることの利点は、フェミニズムに加担する/しないというイデオロギー上の決断主義に陥らずに、ジェンダー・セクシュアリティ秩序の社会学的分析をすることが可能になるという点にある。第二波フェミニズムが「女性」の連帯を強調するあまり、白人異性愛主義女性のイデオロギーと運動という傾向を持ったことに対する反省的視線を持つ第三派は、それゆえ、かなりの多様性を備えている。運動の多様性そのものは歓迎すべきことであるが、社会学的な理論的営為としてみたとき、第三派フェミニズム全体を扱うことは不可能に近い。若い女性のフェミニズムに対する態度に焦点を絞って、現代のジェンダー編成を捉えていくことが、理論的には有効な方法であると考えられる。