前回記事では、『恋愛社会学』(ナカニシヤ出版)でなされている恋愛の議論は、次の3つの定義に整理できるということを論じてきました。
- 定義1:恋愛とは「出会い」のこと
- 定義2:恋愛とは出会いから始まる親密な関係の深化(変化)のこと
- 定義3:恋愛とはさまざまな「好き」のあり方のこと
図にするとこういう感じで、赤が定義1、緑が定義2、青が定義3です。
次に、それぞれのこの定義のもとで、どのような問題系の研究がなされてきたと言えるか、そして今後どのような研究の発展可能性があるかについて整理してみましょう。
再び本文は「だ/である」調でいきます。
1. 「定義1:恋愛とは出会いのことである」のもとでどのような研究がなされてきたのか、なされているか
出会いをめぐる規範・コミュニケーション・欲求・行動などについてのさまざまな社会学的分析がすでになされてきた。
さらに、今回の『恋愛社会学』には収録しなかったが、恋愛を恋愛市場モデルで近似しようとする研究も、この定義1に属するものである。これはどのような属性を持つ人同士が「マッチ」しやすいのかといったマッチング構造の分析を進めるタイプの研究である。ゲーム理論などを用いた数理社会学的・経済学的な議論である(たくさんありすぎて、どれを参考文献としてあげれば良いか吟味中)。
1990年代くらいから「自由市場を適切に規制していくことが自由な競争を守るものになる」という経済市場のアナロジーを用いて、恋愛においても「何らかの規制」が必要であり、それをしないと「恋愛格差」や「恋愛弱者」が生じるという議論(宮台さんとか、山田さんもどこかで言っていたような)が提示されてきた。「非モテ論壇」において「男性恋愛弱者」問題が論点となる、など。(女性恋愛弱者論が弱くて、もっぱら恋愛弱者=男性の問題とされてきたという特徴もあり、中村さんはそのあたりに違和感を持っているのだと思う。)
この問題系は解かれたとは言えないので、今後さらにこの議論は重要だろう。いわゆる「恋愛的資源」「エロティックキャピタル」が低い人、「非モテ」の恋愛をどう考えていくかという議論だ。私としては、そもそもこれらの概念自体が定義が曖昧で社会科学的な議論に使うことができないので、「性的魅力とは何なのか?」の議論を深めることでブレイクスルーしていきたいと思っている。
すでに私の2021年のルッキズム論文でもちょっと検討していたことだが、「恋愛的資源」と言われているものは、コミュニケーション力、自分の外見に対する自己肯定感の高さ(ボディイメージの自己受容)、人気(ポピュラリティ)、アイデンティティ資源などに分解できる(し、コミュ力はさらに分解できる)。このような方向性でこの問題については考えているのだが、今回の本ではそこらへんを書く時間的余裕と紙幅の余裕がなかった!これは数年かかる一仕事。今度ルッキズムの本を書くので、その時までにこの問題を解きたい。
それから、以下は蛇足のような気もするが、このような恋愛市場モデルはあくまでも経済市場のアナロジーであり、理論上の近似としてのモデルでしかない。市場モデルで恋愛を捉えることの限界もいろいろある。
個人の財の最大化を目標とする経済的交換と、愛しあうことによる愛の産出及び増大化を目的とする愛の交換は、原理的に異なっている。
「結婚を通した個人の財の最大化」が個々人の結婚の目的であると信じられていた時期には、市場モデルで恋愛のマッチング構造を近似することは一定程度妥当だと感じられていたかもしれないが、女性も経済力を持つようになってくるほど、結婚は必ずしも財の最大化をもたらすとは限らないし、パートナー関係を結んだり結婚したりする最大の理由は財の最大化ではなくなってきているように思う。このような現状において、恋愛市場モデルで恋愛を分析することの有効性は、かつてよりは弱まっているのではないかという気もしている。
が、そうはいっても、マッチングの仕組みの解明やより良いマッチングをめぐる社会的制度的あり方についての議論は、恋愛社会学における重要なテーマであり続けるだろう。
アプリのビッグデータ分析:さらに今後は、マッチングアプリ会社が持っているビックデータを分析していく研究が今後かなり発展することは容易に予想できることだ。「社会調査法」の授業とかを受けてきた標準的な社会学者はビッグデータの分析の仕方は教わってきていない。だから、データサイエンティストとかと組んで分析しつつ、どのような方向にアプリの制度設計をしていくといいのかといったことを批判的に議論して行く研究が必要だと思われる。*1。
恋愛=出会いという社会的関係に関するインターセクショナルな構造的分析:齋藤さんの論文で個人的に興味深かったと思っている点は、恋愛についてのインターセクショナルセクショナルな議論が必要だという示唆をもたらすものだったということ。
被差別部落出身であることや、障害を持つこと、非異性愛的な恋愛的指向を持つことは、それぞれの仕方で、関係形成初期において「出会い」の機会が制限されるという社会的構造の中を生きることである。出会いが少ないことによって、関係形成初期での困難を経験しがちであるし、また関係継続期にあってもパートナーとの二者関係から離脱しにくくなるといった影響があると考えられる。マイノリティコミュニティが当人にとってもパートナーにとっても貴重な人間関係になっている場合、パートナーとの関係解消はコミュニティの喪失やコミュニティの人々との関係の変化を意味する場合も、狭いコミュニティほどありうるだろう。代替可能な他のコミュニティやつながりが容易には得られないというジレンマに直面しがちである場合、それも相まってパートナーとの関係解消(及び関係調整のためのさまざまな試行錯誤)がしにくくなるという固有の困難があると考えられる。したがって、それぞれの人が抱える困難を、その人の置かれた文脈に沿って読み解き、分析し、研究していくことは、恋愛や長期的なパートナー関係、愛などについて考える上で、とても重要だと思われる。
・これをやっている良例として『現代思想 特集=恋愛の現在』(2021)の島袋海理(2021)論文がある。現代のゲイ男性の出会いの場で成り立っている価値序列、規範、コミュニケーションを分析したもので、「ホゲる」ことによる男らしさ規範からの逸脱は、ゲイの出会いの場で制裁的な扱い(否定的に評価され、魅力的でないと判断されることになる)を受けることを論じている。異性愛中心的なジェンダー論界隈での恋愛論は、どうしても「同性愛」に希望(例えば、性別らしさにとらわれない愛の形、など)を見出そうとする論調があるがゆえに、ゲイにおけるルッキズムの問題や性別らしさの問題は言及が避けられがちだったような気がする。だが、このようなゲイカルチャーにおいて成り立っている規範の問題性を指摘し、それによってゲイ男性が直面している固有の困難について議論して行くことは重要だと思う*2。
2. 「定義2:恋愛とは出会いから始まる親密な関係の深化(変化)のこと」のもとで、どのような研究がなされてきたのか、なされているか
時間経過による親密な関係性の変化に着目する定義2の典型例として心理学のSVR理論がある。時間経過によって、何が対人魅力になるかが変化するという議論で、関係形成期には「相手と自分が似ている」という類似性や反社会性が「魅力」として映るが、関係が長くなってくると社会的信頼性が高いことや、自分と相手の相補的役割性などが「魅力」になるというふうに、時間経過とともにどのような特徴が魅力になるかが変化するという議論である。
社会心理学の中の対人心理学的な研究における恋愛研究では、「出会い」「関係継続期」「別離」というように、関係性をステージ別に区別して、それぞれについての研究が進んでいるという印象がある(あとで文献載せます)。
時間経過によって変化するのは、何が魅力になるかだけではない。情熱や欲望のあり方、関係上の規範(相手に対する責任や自己献身の度合い、何をしてくれて当然、何をしてくれたら感謝、になるか)なども変わる。したがって、このような時間経過による社会的関係の変化についての社会学的な研究の余地はかなりあるというのが、私の感触だ。
「別離」や「関係の消失」という問題に関しては、中森弘樹さんが2021年の『現代思想』論文をはじめ、ご著書(https://amzn.to/3DgQl4l https://amzn.to/3OX6gHI)等で、独創的な切り口での素晴らしい議論をして開拓されている。イルーズも、別離の問題系を視野に入れた愛の議論をしている。
そもそも、「親密な関係」という言葉を使って議論してきた家族社会学者を中心とする人々は、恋愛規範や結婚規範から距離をとりつつ、ある程度の持続する長期的な愛の関係を念頭においてこの「親密な」という言葉を使ってきているように見える。つまり、これは時間的経過を含んだ概念だと思われる。が、それにしては、「時間経過によって関係性がどう変わるのか」についての厳密なモデルは打ち出されずに、こんにちまで来てしまったような感がある。(え、こういう研究があるよ!というのがあれば、教えてください。離婚の要因分析においては、時間経過による関係の変化は重要論点だと思うので、離婚研究とかの領域では発達しているのかもしれません。そして私が勉強不足で発見できていないということなのかも)
全国家庭調査(NFRJ)などでも調査されているように、結婚後の夫婦間の関係満足度に関する議論はある程度蓄積があるので、それを「夫婦」や「結婚後」に限らずに長期的なパートナー関係における愛をめぐる変化(規範・責任・役割期待等についての変化)の研究として開いていくと同時に、インターセクショナルに見ていくことが、恋愛社会学的には重要だ。
・高橋第1章は、スタンバーグを忠実に読んでいったら「短期的な情熱」と「長期的な情熱」という二つの情熱があるということが読み解けるよという脱構築的な読みを提示しているのですが、そこで何をしようとしていたのかというと、いわゆる一般的に「恋愛から愛へ(恋から愛へ)」と日本語で言われてきた時間経過による関係の変化の概念化の試みでした。(英語では、恋愛も愛もloveですが、特定の人物とのパートナー関係を求めるような愛のことは、I'm in love.(私はいま恋愛中)とか、fall in love (恋に落ちる)のように、in love という言葉を使うのだと、『愛の心理学』https://amzn.to/3VGrsWaに書いてあった。)
3. 「定義3:恋愛とはさまざまな「好き」のあり方のことである」のもとでどのような研究がなされてきたのか、なされているか
アイドルやキャラクターへの強い思いを、恋愛とは異なるとする人もおり、そして恋愛感情だと語る人々もいる。恋愛として語りたくなるというその感覚は、絶対的に(近代社会の個人尊重の原理の立場に立つならば絶対的に)尊重されるべきだと私は思っている。
「その好きは「恋愛」という言葉の定義に該当しない」とか「する」とか、「別に恋愛という言葉を使う必要がないのでは」と上から目線で言ったりせずに、恋愛として語りたくなるというその現象は何なのかを考えていくことは、既存の恋愛規範を批判していく突破口となる可能性も秘めている。
このように、定義3は基本的には恋愛概念を拡張的に使うものだが、既存の「恋愛」という概念や規範を批判することで、異なる愛の形を目指していく方向性の研究もある。中村香住コラムのクアロマンティック論はその方向性の研究であり、ポリアモリー論は既存の恋愛の二者関係規範を批判し、その規範とは異なる愛の形を模索し実践し、それ固有の困難や問題を論じるものである。
さて、この方向性の議論としてどういうものがあるかであるが、例えば、「BLにおいて恋愛とは関係性萌えのことである」*3として、その関係性萌えについてさまざまに研究していくものは、私の中ではこの定義3に属する研究である。
私は数年前から、微量の恋愛感情というのをキーワードに社会的関係を分析したら、何か面白いことが見えてくるんじゃないか…と思いつつ、具体的にどのような事例の何を分析したらものすごく面白い分析になるかが閃いていないのだが、それも実現したら定義3に該当する。(モノへの恋愛感情とか、日常的な人間関係における「戦いモード」の絆(個人主義的)と「愛モード」の絆(融合的)みたいな分析とか…。)
そのほかにもこの定義3は、色々重要で面白い議論の展開がこれからの若い世代によってなされて行くだろうと思っております。発見された方は、ぜひご一報ください。追記していきます。