ボディースタディーズを牽引しているロンドン大学ゴールドスミス校のリサ・ブラックマンによる非物質的に身体を論じるというプロジェクトをまとめた本です。
例のごとく、私がこれ重要だなと思ったところを中心に意訳し、概要をつかむことを目指します。
第1章 情動の主体:身体、プロセス、ビカミング
脳ー身体のもつれあった関係(brain-body entanglement)について論じ、どのようにして人間と非人間、自己と他者、マテリアルとインマテリアルの境界線を引いているのかを論じていこう。
人間の身体は、人間と非人間のプロセスのアッサンブラージュ(集合体)でできている。
私たちの身体は潜在的に失われている。私たちの身体は、体(corporeality)から、種としての身体(body)や心理的身体、機械的身体、その他の世界的な身体へと私たちの関心が拡張するようなものとしてある。
この新しいボディセオリーのトレンドは、 エナジーを触発し、動き(motion)を創造し、身体を特徴づける(キャラクタライズする)2つの方法に関心を集中させている。すなわちムーブメントとプロセスである。身体を心理的・生物学的なシステムとして捉えるよりも、身体は開かれており、流れとアフェクトの通過(passage)への参加・実践(participate)であり、境界と拘束よりも相互的で協力的によってより特徴付けられるようなるものと捉えるのだ(Seigworth and Gregg 2010)。
1980年代の身体の社会学で、自然身体(natural body)の捉え方は取って代わられたが、人間の唯一無二の身体について語ることが多かった。アフェクトセオリーはさらに複数性(multiplicity)と運動にフォーカスすることで(この身体の社会学のトレンドを)鳴り響かせるだろう(resounding)。(たぶん身体論のトレンドをより大きくはっきりさせていくという意味だと思われる。なるべく音の運動比喩を使って思想を紡ごうとしている工夫が感じられる)。
身体の社会学
本書は、1980年代に「身体の社会学」として明瞭な領域となった人文学者による身体論とは異なるものである。
身体の社会学は領域横断的なものとして発展した。身体は、建築から、バイオテクノロジー、医学、健康と疾病、科学技術スタディーズ、映画、デジタルメディア、ニューロサイエンスまで様々な研究領域の対象となってきた。もはや自然科学/人文科学で分けられないのは自明だ。
例えば、バイオメディカル領域は身体化(具現化)された経験(embodied experience)を、無視したり曖昧にしてきた。『セオリー、カルチャー&ソサエティ』に載ったアーサー・フランクの1990年の論文を見よ。これはその後、同誌での身体の社会学の議論の盛り上がりをもたらした。
イギリス社会学者たちをパイオニアとする身体の社会学は、病気や健康や医学をはじめとする対象を分析しながら、身体をその主体として捉えるという身体論を展開してきた。マイク・フェザーストーン(1990/2007)、ブリヤン・ターナー(1996)、クリス・シリング(2003)やニック・クロスリー(2001)を見よ。(→高橋コメント:ただしこれらの研究は「人間」の身体を主題としてきた点で限界があるということが、ブラックマンがここで主張したいこと)
これらの研究によって領域としての基礎は形作られたと考えられるので、本書はこれらの伝統からは離脱する。
本書の特徴でありこれらの伝統からの顕著な変化となる点は、アフェクトの主体(subject of affect)に着目するところだ。メディアと文化、人類学、社会学、科学技術研究、地理学、哲学、政治学を横断するアフェクト研究を参照する。
アフェクトは非認知的で、主体横断的で、非意識的で、非表象的で、非身体的(incorporeal)で非物質的(immaterial)である(ブラックマン&ヴェン2010も参照せよ)。
アフェクトはもの(thing)ではなくむしろ、生とバイタリティのプロセスであり、身体の間を循環して過ぎていく(pass)ものであり、これまでの慣習的な方法論で捉えられるどのようなものとも異なっているのだ。
セジワース&グレッグ(2010)も、非物質的で非身体的にアフェクトを考えることで、それはコミュニケーションを循環させてつなげる(bind)ものであり、それはレイモンド・ウィリアムズ(1977)が述べたような「フィーリングの構造」を見出すことになるだろうと述べている。
ボディスタディーズとアフェクトセオリー
パトリシア・クラフ(2007、2008、2010a)、エリン・マニング(2010)、ブライアン・マッスミ(2002)の概論から始めることにしたい。これは、ドゥルーズ&ガタリ、スピノザ、ホワイトヘッド、ベルクソンを現代科学的に読むことでもたらされるアプローチである。「現代科学的」というのは特にコンピューターサイエンス、量子物理学、サイバネティクス、進化科学、ニューロサイエンス的に、ということである。
実際、現在の「ポストバイオロジカル問題系」では、もはや生物と非生物、有機体と非有機体、物質と非物質を区別する仕方ではなく、それらのアッサブラージュとして捉えるアプローチをとっており、そうでないと事態をうまく捉えられない状況になっている。
クラフは「バイオメディエイティド身体」について論じており、これはマターそれ自体がアフェクティブだとするもの。これは、スピノザの「インビディウムInvidiuum」と共鳴するもの。「インビディウムInvidiuum」とは身体/ものの関係を、これまでとは異なる配置で捉えようとする概念だ。
オートポイエーシス
進化論の研究者が進化のメカニズムをオートポイエーシスと関連づけながら研究しており、それをドゥルージアン哲学者アンセル・ピアソン(1999)などが参照していて、クローはそこらへんの系譜も引きながら研究している。
エド・コーヘン(2009)は免疫システムの研究から個体の研究をしている。
クラフ(2010a)は「ポストバイオロジカル」という概念を、サイエンスと人文科学のアフェクトアプローチをつなげる共通の存在論として用いており、それ自体は有益だ。だがそれは、オートポイエティックな器官としての身体を想定しているが故に、「人間」を置き換えるのに十分ではない(does not go far enough in displacing the human)。
だから、私(=リサ・ブラックマン)は、オートポイエーシスからは距離を取ることにする。私はアンナ・ギブス(2010)の「模倣コミュニケーション」のような研究がしたいのだ。具体的に本書では19世紀のテレパシーや催眠術、幻覚、幻聴といったアフェクティブ・トランスファーを見ていく。
高橋コメント:ブラックマンはクラフの仕事をこのように位置づけながら自分の仕事をしていることがわかります。人文学とクロスするアフェクト研究の中にもいくつものアプローチがあるんだな、ということが見えてきますよね。(このように複数のアプローチを走らせながら共存していくのってすごい重要。うまくこの構図を作っていくことが重要。研究者って似たような研究をしている人をメンタル的につぶしあってしまう(そう意図していなくてもアカデミアコミュニケーションの形式によって結果的にそうなっている現状や)傾向がありますので・・・!)
ボディ・アフェクト・テクニシティ
グレッグ&セジワース(2010)のアフェクトセオリー・リーダーは有益な概観をもたらしてくれる。身体論は豊かな現象学の伝統がある。
身体の統一性(インテグリティ)はどうやってもたらされるのか。「形態学的想像力」の話など。
身体の統一性
ボディイメージからイメージなしのボディへ
変身や消費文化では、鏡や視覚が強調されている。マッスミ(2002)もミラービジョンを論じているが、この概念が示すのは、身体のルックやアピアランスが強調されるとき、それは身体が静的スタティックなものとして捉えられていることである。
非視覚的で非表象的な身体は、触覚的コミュニケーションとしてよく言及される。身体がどのように感じられているかを強調する議論だ。その身体によって身体内部から身体はどのように感じられているか、という議論。身体間で生み出される強度や、運動ビジョンをエナジーや感情、強度によって捉えようとする議論。また、アニメーション(魂を吹き込む)や運動は、生の基礎であるといった議論。
・ボディイメージと身体の統一性はアフェクトセオリーにおいて重要で、特に現象学やポスト現象学によって深められてきた。マッスミやクローは人間身体を現象学的な知見も踏まえて論じつつ、それを「人間」や「単一的主体」の身体だけの話に収まらないものとして論じているところが良いところだ。
写真技術によって身体像は静的なものと捉えられるようになったが、ポートレイトはただたんに静的な像というよりは「情動の補綴」である。イメージ自体が情動を喚起し、アフェクトしアフェクトされるものだ。
アフェクトと科学/アフェクトと精神分析的主体/結論
*たとえ要約まとめだとしても、全節をきっちり要約して文章にしてまとめてしまうと色々問題が起こってきそうな気もしてきたので、今後、要約文を作るのは原文全体の半分以下にしておこうと思います。ということで、途中ですが、とりあえずここまで。
