ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

認識的不正義:「表象はなぜフェミニズムの問題になるのか」(小宮友根)(基礎文献4)の読解と考察

1.認識レベルの不正義 
上記の小宮論考は、私たちがいま使っている言語体系や思考枠組みにおいて、女性に対する暴力や抑圧を言い表す言葉が不十分であるという「認識的不正義」があるということを論じたものです。
・小宮さんが「コード」(たぶんゴフマン~エスノメソドロジー由来)と呼んでいるものを、私はシュッツの言う「認識枠組み(schema)」と言い換えられそうだなぁと理解し、「認識枠組み」を日常語でいえば「思考枠組み」かなと思ったので、ここでは思考枠組みと一般向けに言い変えてみています(「コード」が社会学者以外にはわかりにくいという指摘を読んだので)。
 
整理すると、 
認識レベルの不正義
行動・実践レベルの不正義
小宮「表象」論考はココを論じたもの
 
(1)表象物による「男とはこういうもの」、「女とはこういうもの」という固定 観念(ステレオタイプ)の再生産の問題を指摘。
(2)認識的不正義があることを指摘 
(ここらへんは念頭にはおかれているが、別に「表象」論考で論じられているわけではない)
●性別分業
 ・ジェンダーペイギャップがある
 ・セカンドシフトの問題
 ・DV被害者は女性の方が多い
 ・性暴力・性被害にあうのは女性の方が多い
 
この論考では2つのことが論じられていますが、どちらも認識レベルの不正義の話をしています。
(1)前半のポロック~ゴフマンのところでは、表象物による「男とはこういうもの」、「女とはこういうもの」という固定観念(=ステレオタイプ)の再生産の問題を指摘。
 
(2)後半のフリッカーのところでは、ジェンダーにおける認識的不正義があるということを指摘。
ジェンダーにおける認識的不正義(=認識レベルの不正義)とは、被害や抑圧経験、不公正さなどを言い表す言葉が一方のジェンダーにおいて不足していることを言います。正当な理由なく「財」が不平等に配分されていることは「不正義」です。認知財(認識のための資源)がジェンダーにおいて不平等に分配されている場合、それを認識的不正義と呼ぶことができます。
 
認識的不正義が具体的にどういう問題を引き起こすのかを、私の言葉でまとめると、被害を言い表す言葉がないので、問題が問題だと認識されにくく、対処もなされないという問題を引き起こします。
 例えば、「セクハラ」という言葉が定着する前までは、職場での上司による部下への性的要求や性的からかいは「被害」であるとも、社会的に対処すべき問題であるとも考えられていなかったが、この言葉がなかったからといって不快感や不安や恐怖感(や泣き寝入りや怒りや憎悪や……)がなかったわけではない。
また、言葉がなかったので、「その女が悪い」とか「色仕掛けしたんだろう」とか、「その女性がもっとうまく立ち回るべき」というような心無い言葉を投げかけられたりした。こういう状況を認識的不正義といっているわけですね。

ミランダ・フリッカーというフェミニスト哲学者は、マイノリティが被る不正義の一種として、近年「認識的不正義」という概念を提案している[ix]。これは大まかに言えば、マイノリティの抑圧的経験を表現するための資源が社会の中に不足していることから生じるタイプの不正義である。 

たとえば、「女性のNOはYESを意味する」とか「男性の部屋に女性が一人で行くことは性交への同意を意味する」といった考えが広まっている社会では、性暴力被害者の女性は自分の被害を十分認識してもらうことができないことがある。同様に「セクシュアル・ハラスメント」という概念が生まれる前は、女性は職場で性的な扱いをされることで不利益を被っていても、それが「悪いことである」という認識を十分に持つことができなかった。そうした状況は、直接暴力を振るわれたり差別的取り扱いをされたりする「不正義」とは違うが、しかしそれらの被害をそもそも被害として認識することが難しくなっているという「不正義」の状況である。

では、このような認識的不正義は、どうしたら解消されるのかというと、何らかの女性抑圧的と見える問題があるときにその問題性を頑張って言語化していくことによって、です。ある表象物がどのように問題なのか、どのような不快感や不安や恐怖をもたらしており、それは何を無視していることになるのかといったことを言語化し、社会的な共有財として分配していくことで「認識的不正義」は解消されていきます。

表象は、認識的不正義を示すものであり、それを解消していくための議論にもなるものだから、フェミニズムの議論の対象になっている。以上。
 
 2.それでも、認識レベルと行動・実践レベルの関係が気になる人のために
「萌え絵が性犯罪を増加させるとはかぎらない。むしろ抑制する効果さえあるかも」とか「いやいや、むしろ読むとやりたくなrんだ」とかいう議論が世間にあります。が、そもそもこの「表象」論考では、認識レベルの問題が行動レベルでの影響をもたらすから問題だ(不正義だ)ということを論じているわけではない。言い換えると、以下のような大雑把な因果関係が想定されていたりするわけではない。
 
①萌え絵広告がある → ②ある種の女性に関する固定観念(=ステレオタイプ)が蔓延し、人々の思考枠組みに浸透していく → ③女性に性暴力をしてもいいと思う人が増える → ④女性への性暴力が事件数として増える 
 
ここで問題にされているのは、あくまで認識レベルの不正義。上で言うと、②まで。それが、どのように行動・実践レベルの不正義につながっているかについては、論点になっていない。そのことは、以下の点からも読み取れます。
まずは「表象」と「現実」をそれぞれ独立の存在とみなし、両者の関係を「影響関係の有無」からのみ考えるような「表象」の捉え方を見直さなければならない。 
ステレオタイプな女性役割の押し付けがもたらす問題を認識する言葉が女性の方に少なく配分されてきたという歴史的経緯は、認識レべルの不正義である。その不正義だけでも、十分「不正義」でしょ、という議論をしています。
 
だから、もしこの小宮さん論考を論駁したかったら、「ステレオタイプな女性役割の押し付けがもたらす問題を認識する言葉が女性の方に少なく配分されてきたというのは本当だろうか?」ということを検討する必要があります。もう少し日常の言葉で言えば、「女性抑圧を語る言葉が少なかったというのは本当だろうか?」ということです。
さて、これは実際のところどうでしょうか。現代社会においてどうかということを実証するのは実はけっこう大変で、数年たってみた後に、昔はこんなにひどかったんだよという形でしか判断を確定させることができないというところもあります(その理由は、後述します)が、歴史的にはまぁだいたいそうだったということは一般的に多くの人が認めるでしょう。
・男性抑圧も同様に語られにくかったので、女性学(フェミニズム)の発展のあとに男性学マスキュリニズム)も発展してきたという経緯があります。この中で、男性の生きづらさも言語化されてきました。それによって、現在では男性の累積的抑圧経験もあるよねということが見えているし、ある領域においては男性の方により認知財が不足しているというような認識的不正義があるのではないか、という議論もできそうです。
・例えば、男性は自分の内面を語ることが苦手で、語る語彙を女性よりも持っていないのではないか。「男」としてのメンツを保ちながら自分の感情や内面を他者に語る方法ってあんまりバリエーションがないというか開発されていないような感じがします。そんなわけで、もしかしたら男性は「内面吐露や親密な感情表出」という領域における認識的不正義を被っているのかもしれません。
・ただ、「不正義」という言葉は、財の不均等分配が他領域にわたって複合的に起こっているときに言われます。だから、一領域だけの場合にも「不正義」と言えるのかというと、心もとない。というわけで、「男性において認識的不正義がある」という命題は、少し強すぎるというか大げさすぎるような感じがします。
 
念のために言っておくと、この小宮「表象」論考では
(a)「女性抑圧を言い表す言葉が不足しているという認識レベルの不正義が女性に偏っている」から (認識レベルの不正義)→ (b)「DV被害者に女性が多い」(行動・実践レベルの不正義)というような因果関係も、別に想定されていません。
なぜ言い切れるかというと、論理的に考えて、そのような因果関係は成り立たないからです。「DV(家庭内暴力ドメスティックバイオレンスの頭文字の略)」という概念がすでに成立している以上、少なくともその点においては女性への抑圧が正しく認識されるようになっており、少なくとも家庭内暴力に関する「認識的不正義」は克服されています。だから、そんな論理関係は成り立たない。
 
それでもどうしても因果関係として考えたければ、むしろ因果の向きは逆で、
(b) 「夫から暴力を受ける妻の方がその逆よりも多い」ことが社会的に発見され問題視されるようになったから、家庭内暴力(DV)」という言葉が確立し →(a)それによって、この性愛を含んだ親密な関係性の領域において「女性抑圧を言い表す言葉が不足しているという認識レベルの不正義が女性に偏っていた」つまり認識的不正義があったということがわかったという順番(因果関係)でしか起こりえません。
 
こう考えると、「認識的不正義」は概念として興味深いものです。
「何が不正義なのか」を明瞭に指摘できるのは、認識的不正義が解消されたときだけ。認識的不正義が解消されない限り、不正義があるということが言えないという論理構造になっている。
そのため、認識論的不正義がある社会の中で異議申し立てをすることは、現在の言語体系や思考枠組みでは指し示すことのできない問題を指摘しようとすることになるので、「他人からはよく見えないものを指さして「ここに問題がある!」と繰り返し述べている」ように見えることになる。
みんなに「それ」が見えるようになったときに、「認識的不正義」は解消されるのだが、その不正義が解消されないうちは、その人は「変な人」や「よくわからないことを言っている人」扱いされることになる。
 
こういう構造や状況は、ジェンダーフェミニズムに限らず、色々な場面で見られます。起業家や「イノベーター」が、最初は「変なことを言っている人」「よくわからないことを言っている人」と言われるというのはよくあることです。
私たち人間が言語体系の中でしか、モノを見たり考えたりすることができない以上、どのような領域でも、このようなことは起こります。
*小宮さんがこのような概念(認識的不正義)に着目していることは、社会構築主義全盛期にバトラー研究をしていたという経緯を踏まえるとすごく納得できることでもあります:個人的な感慨。
 
3.小宮論考の最後の論理展開をちょっと補って説明しておくと
最後に、(1)ステレオタイプな女性表象と、(2)認識的不正義がどのような論理でつながっているかというと、こうなっています。
(1)ステレオタイプな女性表象を広告で見ることで → (2)「認識的不正義」があるということを意識するので、女性たちは怒るのだ(「フェミニズム」は「表象」を問題にするのだ)。例えば、以下のように。
女性とケア労働を結びつけたり、女性の身体をもっぱら性的な対象として扱ったりすることは、性別分業やセクシュアル・ハラスメントの問題を成立させている「女性の意味づけ」でもあるがゆえに、その同じ意味づけが表象の中で「ここでもまた」繰り返されていると感じることは、そうした問題を問題として認識するための資源の不足として感じられるだろう。女性に対する同じような意味づけばかりが溢れていることは、そのこと自体が「認識的不正義」の状況として理解されうるのである。
少し論理展開を補っておくと、(1)あるステレオタイプな女性表象を見たときに→「ここでもまた」とげんなりしたり、不快に思ったり、自分の感覚が無視されているような感じがして悲しくなったりするが → そのげんなり感や悲しい気持ちや不快感を指摘したり、人と共有したりするための言葉が見あたらないときに → (2)「そうした問題を問題として認識するための資源の不足」を感じるという議論になっています。
 
4.まとめ
女性表象の悪さの問題と言われたときに、その表象物が実際にどれくらい悪影響を与えているのかという枠組みで議論をしようとしますが、小宮さんのこの論考は、それ以前のレベルすなわち認識レベルでの不正義があるよ、ということを論じたものでした。

ある女性表象へのげんなり感や不快感を表明する人が一定の厚みをもって登場してきているにもかかわらず、そのげんなり感や不快感をそもそも理解できなかったり、認められなかったりすること自体が、私たちがジェンダーをめぐる認識的不正義の中で生きていることの証である、ということを指摘している論考であります。

以上、小宮論考解説でした!

 

*私の解釈のオリジナリティは、認識的不正義とは認知財の不均等分配のことを言っているのだと解釈したところです。ここは、一歩踏み込んで強めに解釈をかけています。

・私個人としては、あともう一歩「認識的不正義」の操作的定義を確定させ、それを実証する方法を模索し、反証可能性を考えたりしてからでないと、使いにくいかなと思っています。

・それに対して、「累積的な抑圧経験があるから、ある表象に対して異議申し立てをしている」のであり、〈フェミニズムの異議申し立てを理解する人と理解しない人は、性別ステレオタイプに関する累積的抑圧経験の有無によって区別できる〉という「累積的抑圧経験」という概念規定はクリアで、小宮さんさすがだなと思っています。だから使っています。

(いうまでもなく、「抑圧経験」はフェミニストだけが持っているわけではなく、誰もが持っています。それぞれが、それぞれの累積的な抑圧経験に基づいて、反応し行動しているというふうに考えればわかりやすいと思います。)

 

最後に、 何度でも繰り返し読みたい小宮論考の箇所を挙げておきます。

「表象の「悪さ」はもはや「何が描かれているか」だけを見て考えられるものではなくなる。それはむしろ、歴史的・社会的に女性が置かれてきた/置かれている状況との関連ぬきには考察することができないものである。
 
女性表象の「悪さ」について考えることは、表象を理解可能にする記号やコード女性をどのように意味づけているかを読み解くと同時に、賃金差別や進学・就職における差別、DVやケア労働負担のような私的領域における不平等、痴漢やセクハラやAV強要のような性暴力といった現象の中で起こる同種の意味づけとの関連においてその記号やコードを考察することでなくてはならない
 
自分の経験が新たな意味連関のもとで新たな理解可能性に開かれるとき、これまで当たり前だと思って気にもとめなかったことのうちに、次々に「同種の」問題が見えてくる。表象がフェミニズムの問題になるのは、そこが女性に対する抑圧的な意味づけがおこなわれる現実の場のひとつだからであり、同じことがおこなわれる場が私たちの社会に他にもたくさんあるからなのである。