ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

規制の問題を考えるときには、まずは「わいせつ」と「性差別」を区別しよう:堀あきこさん「性表現の規制をフェミニストは求めていない」(基礎文献1)を読んで考えたこと

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1.「わいせつ/性差別」の区別は重要

まず、堀さんは「わいせつ」と「性差別」を区別されています。これ重要です。

堀さんの議論によると、性器表現などの「わいせつ」は法規制されてきたが、フェミニズムにとっては「わいせつ」を規制することは、弊害の方が大きい。それに対して、「性差別」はこれまで法規制の対象になってこなかったが、現在*1ツイッター等での炎上が頻発しているところのものである。

 もう少し詳しく整理すると、こういうことになります。

 

法規制

自主規制

わいせつ

刑法175条で規制されている

(これ以上の法規制強化にならないように注意した方がいい。なぜなら警察権力や国家権力の増大につながるので。その意味で、青少年健全育成条例とか、児ポ法とかに対して、注意を払い続ける必要あり)

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性差別

法規制はせずに、市民同士の話し合いによる相互理解を深め、合意形成をしていくのが重要。

出版業界団体(例えば、出倫協)の出版倫理での記載あり。

広告や公共広報に関する地方自治ガイドラインあり。

で、堀さんによると、青少年健全育成条例有害図書指定の場では、「わいせつ」の問題ばかりを議論していて、「性差別」については考えることができていないのが問題である(と読解したのですが、なにせ私は有害図書指定関連の議論を今勉強しているところなので、詳しいことをまだきちんとは理解していません。すいません)

 
このように「わいせつ」と「性差別」の違いを踏まえた上で、私(高橋)はとくに、広告表現の規制について考えてみたいと思っています。なぜなら、最近の萌え絵広告炎上問題は、広告表現の問題だからです。
 
私は、広告表現に関する規制も法規制の枠組みではやるべきではないと思っています。しかし、広告業界団体の自主規制や、広告に関するガイドラインの議論を活性化させて何がどう「性差別」表現なのかを明らかにしたうえで、規制をやっていくということはありうるのではないかと思われます。
実際に、日本のJARO日本広告審査機構)のモデルとなっているイギリスのASA(The Advertising Standards Authority)は、すでに広告における性差別表現の規制をやっています。
JAROとASAの仕組み等については、別エントリーで書きます。
 
日本でここまで広告における「性差別」表現が話題となり、さらなるアクターを巻き込みながら議論が拡大している現状を踏まえますと、広告の性差別表現の自主規制というあり方は一つの手の打ち方(対処策)としてあるのではないだろうか。
*「性表現の規制をフェミニストは求めていない」という文献を読みながら、広告における性差別表現の自主規制はありなのではという考え方を提起する私もどうかと思いますが(文章が読めてないとか、表面的読解とか、不勉強だとかいう誹謗中傷を投げかけられて、いろんな人に怒られそう…)、しかしめげずに続けましょう。

*実際には、広告の自主規制コードとか作らずに済むなら、その方がいいのではないかと思います。なるべく文面化・分節化しなければ、誤って法規制に悪用されてしまうリスクも少なくなるしねぇ。ここは本当に悩ましいところだなぁ。

 
2.
次に、堀さんの議論においては、文脈や意味づけの問題なのだということが、何回か強調されています。私は、堀さんが考えた地点からさらに次の一歩を踏み出したいと考えていて、とくに「文脈」や「背景」とおっしゃっているところを、何とかもう少し明確化し、なんらかの「基準」として提起できないだろうかということを考えています。
 
大切なのは、性的な意味合いを持つ表現技法がどんな風に使われているのかという文脈の問題です。成年コミックがエロいのはダメじゃない。「いやらしいからダメ」ではないんです。
 難しいのが、何が性差別表現なのか、「この表現は差別!」と区切れるようなものではないということです。どのように女性が表現されていて、それはどんな所で使われているかなど、社会的な背景の中に置いて批判がされるからです。 
 女性表象への批判は、この「ほかの理由とあわせて」という文脈の問題と、表現技法の問題がからみあっています。表現技法への批判として、身体を立体的にみせる陰影のつけ方、ポージング、困り顔、頬の紅潮、肌に張り付くような服装といった表現が指摘されてきましたが、こういう技法は性的な作品だけに使われるものではないので、使い方の問題だと思います。 
「文脈」や「背景」を明確化する一つの方法として、何が性差別なのかの目安(基準)を提示するというのがあるかも、という見通しを今のところ持っています。
(本来なら、「文脈」や「背景」と言われているものが何なのかを明らかにするためには、「こういう場合のこれが問題」という「場合分け」を無数にやりながら議論を積み重ねていくのがいいと思いますが、あえて違う道をとってみる。そういう思考実験もあると、議論が豊かになるかもしれないと思うので。)

 

 例えば、公共の場に何を置いて良くてよくて何を置くのはよくないのかの目安(基準)を決めることができるのであれば、そうするといいのではないか。 

 

広告における目安や基準を決めることは、広告の規制につながりやすいので、それ自体よくないと考える人もいると思います。従来のリベラルフェミニズムも、基本的に「規制は反対」という立場をとってきました。

しかし、1で述べたように「わいせつ」を規制することと、「性差別」を規制することは異なります。そして、広告の「性差別」表現を、非・法律的に規制するというやり方は、もしかしたらフェミニズムの原理に基づいて支持できるのかもしれないぞと考えました。

この後者のフェミニズムはなんと名付けましょうかね。さしあたり、ラディカルフェミニズム批判的に継承しているという意味を込めて、ネオラディカルフェミニズムとでも呼んでおきましょうか(ネオを付けてもラディフェミと言った瞬間にリベフェミと対立するものという先入観が働くかもしれずそれは避けたいな、どうしようかね。うーん、ま、命名の精度を上げるのは後回しで)。

 *広告の性差別表現の非・法律的な規制におけるネオラディフェミとラディフェミの違いは、ネオが「性道徳」に基づいて規制を要求するのではなく、それが性差別表現だから広告表現としての規制を要求するというところにあります。この違いが重要な点なのですが、そのためには「性差別とはなんぞや」を説明しないと伝わらないと思うので、いまは理解していただかなくてもOKです。

 

さて、公共の場に何を置いて良くてよくて何を置くのはよくないのかの目安(基準)を明瞭化することができるのであれば、そうするといいのではないかというのが、私の提起でした。これについて表現の戦士さんたちはどう反応するでしょうか。

考えてみると、表現の戦士さんの中にも2種類ありそうな気がします。ナイーブな(=素朴な)タイプの表現の戦士さんと、よく考えている表現の戦士さんです。ナイーブタイプは「すべて規制は悪だ、今の状態から何かを禁止する必要はない」という立場をとるでしょう。しかし、よく考えているタイプの表現の戦士さんのなかには「ダメなものの基準を明瞭にしてもらった方が、むしろ自由だ」と考える人もいらっしゃるのではないかと想像されます。

もしそうだとすれば、案外、後者のフェミニズム(性差別表現は広告業界で自主規制するのがいいかも)と、後者の表現の戦士さん(何がダメなのかの基準が明瞭な方がより自由かも)は、「広告における性差別表現の基準を明らかにしよう」という点で手を取り合うことができるかもしれません。

→「何が性差別なのかの目安(基準)を明瞭化する」という課題にすでに着手されている論考として、小宮さんの論考があります。こちらについては、別稿で考察します。

 *なぜ私が基準の明瞭化をすればいいんじゃない?ということを言っているかというと、基準に関する市民的議論をすることで、小宮さんがもう一つの論考「なぜ表象はフェミニズムの問題になるのか」の中で言っている「認識的不正義」の解消の一歩になるからです。

だから、私個人としては全くもって実際に規制をしたいわけではない。(でも、こういう議論はやればやるほど、規制のための道を作っていくことにもなる。いまはまだ獣道を作っているくらいの状態だけど、基準を明瞭にすればするほど、悪い人に悪用されて規制のための法律とかに転用されかねない。だから、実際のところはかなり慎重にやるべきだと思う。)

 

*例えば、公共の場におかれる広告における性差別表現のガイドラインとしては、私が今のところ考えついたのは、

・スカートはべた塗りしましょう とか、

・スカートは短すぎないようにしましょう とか

・肌の過度な露出はさけましょう(「過度な露出」→「理由のない露出」(小宮)でもいいかも) とか

 ・不自然な高揚感を示す、ほほを中心とした顔の赤らみは抑制しましょう とか(笑)

・服が身体に過度に張りついたり、身体のラインが強調されたりしないように注意しましょう とかですかね。

なんか学校の制服に関する校則みたいになってきた…。そのうち、ポスターに描かれる高校生は、髪の毛が肩についたら結びましょうとか、バックは変な持ち方をせずに正しく持ちましょうとかになるのかしらww いやそこは性差別にはかかわらないからいいのか。

 

3.
最後に、ここまで「わいせつ」と「性差別」の区別を踏まえて議論しましょうと言ってきましたが、そもそも、私は堀さんが言うところの「性差別」というのが何なのかを明らかにしたいという欲求もあります。
ポスターやイラストの女性表象への批判に対し、「絵と現実は別物」「オタク男性の視線は三次元女性に向いていない」という反論がされます。たしかに、ファンタジーとリアルは同じではないけれど、まったく無関係ではないです。そして、ジェンダー不平等な社会で生きる女性にとって、実写もイラストも性差別であるという点は同じなんです。
「実写もイラストも性差別」というときの「性差別」とは何を指しているのかを、もう一歩具体的にできるといいなぁと思いませんか、思います。
実写とイラストの関係がアンチフェミさんたちの主要関心ごとの一つにもなっているようなので、そこも自分なりに整理できるところまで整理して言語化したいなと思っています。 
 
「性差別とは何か」という問題に関するとっかかりとしては、こういうことを考えています。これまで一般的に、sexual discriminationやgender discriminationは「性差別」と訳されており、sexismも「性差別」と訳されてきました。でも、後者は、性区別主義くらいの方が文脈的に適切な時もあります。例えば、私が『現代思想 フェミニズムの現在』(2020年3月臨時増刊号)で詳しく書いた「好意的セクシズム」は、「好意的性差別」と訳してしまうと強すぎます。強すぎるというか、何のことを言っているのかよくわからなくなるところがありますので、がんばって訳すとしたら「好意的性区別主義」などと言う必要があります。
ちなみに、好意的セクシズムとは、相手のことを「男性として」とか「女性として」褒めるという行動がもたらすセクシズムのことを言います(詳しくはお読みください)。
 
racismを人種差別と訳してきたのと同様に、(↓たとえば)
 
sexismも性差別で通用してきたのですが、

ejje.weblio.jp

 私個人としては、「性差別」という表現は強すぎる時があると感じています。強すぎるがゆえに無駄な反発を引き起こして議論が拡散し、不毛…もしくはぐるぐる回りになっているところがある。

日常生活で考えてみてもね、今どき「あなたの今の行動は性差別的だ」って言われたら普通、人は、人格批判されたと思いますよね。そして「何か失礼なことをしてしまったかもしれないが、「差別」はしていないぞ!」ってすごくかたくなな態度になってしまうわけです。それくらい「性差別」という言葉は日常で使うには重たい。もちろん、そう言う必要があるときもあるのですが。したがって、「性差別」とか「女性差別」と言われてきたところのものをより細かく整理し、その上で適切な言葉を使った方がいいのではないかと思っています。

→これについても、別稿で整理することにしようと思います。
 
以上、ともかくも堀さんはとても大事なことを考えていらして勉強になりました、で、そこからこういうことを考えましたので、今後これらについて議論を発展させようと思っていますという話でした!
 
*11月24日追記。1の図表を挿入したり、色々書きたしたり、てにをはを整えたりしました。

*1:私は、萌え絵炎上が頻発していることは、#MeTooインパクトの一つと言える気がしてきました。2010年代後半は、性暴力や、性的対象化の暴力性に対して敏感になった時期だったといえそうです。英語圏の#MeTooやTime's Upは、各界の実在の大御所男性を引きずり下ろしたのに対して、日本の#MeTooは広がりが弱かったと言われてきました。しかし、日本では実在の人ではなく表象を燃やしているのかもしれません(このような日米の差をフェミニストは、日本のフェミニズム運動の弱さや日本女性の社会的地位の低さと解釈しがちだが、それはちょっと論理飛躍があるような気もする。実証するにはもう少し間を埋める論理とデータが必要)。いずれにしても、これまでの社会において「普通」「当然」「自明」とされてきた慣習や人間関係のなかに、女性やセクシャルマイノリティにとっては不快なものがあるということを指摘する声が高まっているという状況は、日本語文化圏と英語圏で共通して起こっていることと言えます。