ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

社会構築主義以降の社会記述法 ストラザーン『部分的つながり』に見るハラウェイの可能性について

今年の夏は海外出張もなく(=研究費が取得できていないということ(泣))、自宅時間がけっこうとれたので、読みたかった本をたくさん読めました。とっても幸せであります。夏休み一生続けばいいのに。と願ったところで続くわけでもないので、自分の中の区切りとして、書いときます「2019夏休みの読書まとめ(第1弾)」。
 
1.文化人類学の知見が、社会学理論やジェンダー理論に与える示唆は大きい
文化人類学社会の記述法をずっと考え続けている。社会を記述するとはどういうことか、この記述法はどういう制約と可能性を持っているのか。文化人類学における「社会を記述すること」に関する深い考察と、その制度化(学位論文審査の時に何が要求されるか等)が、社会学理論に与える示唆は大きいので、社会学理論研究者は文化人類学がもたらす理論的知見だけでもきちんとおさえておく必要がある、と私は思っている。
 
 
2.ハラウェイに関する雑談・前置き
先日、こういう提起をある方から受けました。ポスト構造主義ジェンダーフェミニズム理論として、日本ではバトラーばかりが受容され、もう「半身」であるところのダナ・ハラウェイが、いまいち受容されていないのでは?と。たしかにそういうところはないこともないなと私も思う。 
そういえば、2019年初夏の日本女性学会で、文学系のフェミニズム研究者と「ここ10年くらい、男子大学院生がハラウェイを一生懸命読んで、学会でハラウェイが、ハラウェイがって言っている印象がある」と話していたところでした。( ちなみに「男子大学院生が」というところをどう解釈したらいいのかは難しいであり、別に意味を読み込む必要もないかと思っています。そもそも大学院生の男女比として男性の方が多いとかとか色々要因はあるし。)
・大学院生が大事って言っているものって、だいたい本当に大事なことが多いのは事実。院生が他の人に勧めたり、話題にしたり、一緒に読書会をしたりしているものって、狭い領域を越えて広く読まれるべき「古典」になりつつある本であることが多い(領域横断的な学科の院生の場合にはとくに)。「最近は何が新しく古典になっているんだろうか」ということを知りたければ、大学院生コミュニティに顔を出すのが最良であります。ハラウェイ大事なのはほぼ間違いない。
 
私はこれまでフェミニズムSFを検討した時とかに、ちょくちょくハラウェイ読んではいたのですが、なんかピンときてなかった。
が、今回ストラザーンを読んだら、ハラウェイの可能性がちょっと見えてきました。ということで、今回は、ポスト構造主義社会学だと社会構築主義)以降の社会記述法に関するストラザーンから見たハラウェイの可能性を明らかにします。
 
 
3.社会全体を俯瞰する視線への懐疑
構造主義を批判するポスト構造主義が登場し、社会学では社会構築主義が登場して以来、文化人類学でも社会学でも繰り返し、次のことが考察されてきました。
 
●社会全体を俯瞰する超越的(超越論的)視点は、数ある認識枠組み(知的制度)の一つに過ぎず、西洋近代科学が作り出してきた一バージョンである。
 ・たとえば、個々の認識を積み上げることで、その総和として全体に至ることができるというような考え方が、それにあたる。
 
●社会全体を記述できるという視点を取ることへの懐疑。
●では、どのように新たに「社会」を認識し、書くことができるのか?(西洋流のパースペクティブ=遠近法ではない認識のあり方とは?)
 
 簡単にいえば、「社会全体を俯瞰できるかのような視点は西洋主義的であり、それゆえの限界を色々抱えている」ということ。
 
一神教の神様が上から俯瞰するように社会を把握するという知的枠組みをとらないとき、私たちはどのように社会を書くことができるのか、社会についての科学はいかにして可能なのかという問いに対して、大きく次の2つの立場が出てくる。
 
【1】社会の中を生きる個人(アクター、行為者、主体)を丁寧に見ていくべし。個人のなかに社会が集約している。→社会学では、自己論、アイデンティティ論、「心理学化する社会」論…として発展。
 
【2】社会的関係を丁寧に見ていくべし。社会全体がどうなっているかとかは、把握しきれなくても、部分的でもいいから、そこにある「関係」を丁寧に見ることで、社会が分かる。→アクターネットワークセオリー(ANT)とかエスノメソドロジーとか。私がゲオルク・ジンメルの「相互作用としての社会」という考え方が重要だとずっと思ってきたのも、このため。
 
ストラザーンは明瞭に、【1】を退けて【2】を支持するという立場。
具体的には、「部分」を書くべし、というのが彼女の主張。
 
 
4.ストラザーンは「部分的つながり」に何を見出したのか
ストラザーンの主張を一言でまとめると、
 
「部分」を「部分」と捉えるには、それを「全体の中の部分とする論理」(=社会的な論理)があるはず。その論理を書くことが、社会を書くことだ。
 
これすごく画期的だと思う。 なるほどー!目からウロコとはこのこと。
  
「(部分的であることは、〔全体の一部としてではなく、何かとの〕)つながりとしてのみ作用する。」(『部分的つながり』マリリン・ストラザーン[1991]2004=2015:52)
  
「彼女(ハラウェイ)のビジョンは、私が部分化可能性partibilityと呼んでいたものにとても近かった。部分化可能性とは、人格の断片化やそれに伴う他者を通じた再帰的な自己認識のことではなく、全体の半分をペアの片割れにする社会的な論理のことである。」(ibid.53)
 
「概念の成分分析を行うことは、それぞれの単位をひとつの領域の一部にする原理を適用することを意味する。ひとつの親族名称は、親族名称という分類の中の一員というわけである。」(ibid.28)
 
 
以上、ここまで前提となる文脈をおさえてきました。これをふまえ、次からは、ストラザーンはハラウェイの何をどう評価しているのか、について。
  
 
5.<ハラウェイーストラザーン>の社会記述法
ハラウェイと言えば、サイボーグ宣言(1985)。
ハラウェイの言うサイボーグとは、
 
(1)身体でも機械でもない存在。自然/文化や、女/男やといった二元論を乗り越えるもの。
サイボーグーーサイバネティックな有機体――とは、機械と生体の複合体(ハイブリット)であり、社会のリアリティと同時にフィクションを生き抜く生き物である(『猿と女とサイボーグ』ダナ・ハラウェイ 1991=2017:287)

 

(2)ポストジェンダー社会の生き物。
サイボーグは、バイセクシュアリティとも、前エディプス的共生とも、疎外されない労働とも、各部分が有する権力をすべて最終的に簒奪してより高次の一体性を得るような過程を介した有機的全体性への誘惑とも無縁である。ある意味で、サイボーグは、西欧的な意味での起源の物語を持たない(ibid.289)
 
ストラザーンは、このようなハラウェイのサイボーグにおける生体と機械のつながり方を重視。
 
「サイボーグは、比較可能性=等質性(comparatibity)を前提とせずにつながりを作ることができる。」(『部分的つながり』マリリン・ストラザーン[1991]2004=2015:134)
 
「一方が他方の可能性(capability)の実現ないし拡張なのだとしたら、その関係は同等でも包摂でもないだろう。」(ibid.134)
 
サイボーグの身体の中の機械的な部分と生体的な部分は、一方が他方を支配しようとしたり包摂しようとしたりしない。ただ、互いに相手の可能性を引き出そうとし、それによって自分の可能性を拡張しようとするだけだ。
そいういうつながりのあり方として成立する具体的な「もの」(=サイボーグ)のあり方が、二元論を越えていくコツだというのがストラザーンの考えなのだと思う。
ハラウェイは、二元論を越えていく具体的なつながりのあり方を「サイボーグ」という具体的な「もの」として提示し、その「もの」がどのような他の「もの」たちの配置の中で具現化(enbodied)されているのかを書いていくという思考・分析の方向性を指し示している。ストラザーンはハラウェイのこの思想の方向性に元気づけられ鼓舞されているようだ。
 ハラウェイの議論では、客観性とは、超越性ではなく、特定の具体的な身体化=具現化であることが判明する。(ibid.120)

 

 
まとめると、
社会を記述するためには、部分の「つながり」のあり方を書くことが重要。
その部分が、どのようなものの配置のなかで、具現化しているのか、そのありさまを書いていくことで、その部分を部分としている社会が見えてくる。
(*ここでいわれている「もの」は、かつての本質主義実在論への回帰ではない。社会構築主義の「あと」の実在論とでもいうべきものである。)
 
これが、ストラザーンの発見した社会記述の方法なのだということが分かりました。
 
*「ものの配置を書いていくこと」という記述方法については、アネマリー・モル『多としての身体―医療実践における存在論』が実践しており、そこでは具体的対象(動脈硬化)に即した綿密な記述が展開されているので、この方法論の有効性がより具体的に実感できます。
 
 
 
補足注記
ストラザーンのメラネシア研究に関する詳しい話をまとめることは私の力量を越えるので、他の方にお任せします。さまざまなインスピレーションを与えてくれる大変美しい文章です、ということだけ書き添えておきます。
 
それから、最後になりましたが、
私が今回、ストラザーン、モル、ハラウェイを勉強するさいの先生役を務めてくれた論文はこちらです。とても勉強になりました。 
橋爪太作, 2017, 「社会を持たない人々のなかで社会科学をする : マリリン・ストラザーン『部分的つながり』をめぐって」『相関社会科学』26:79-85. ( http://www.kiss.c.u-tokyo.ac.jp/docs/kss/vol26/vol2608.pdf )
ちなみに橋爪論文と本稿とでは主題も関心も異なっており、本稿の読解上のミス等の責任は基本的に高橋にあります。