ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

恋愛に性別役割は必要か? 

 1 なぜ「男は『手を出し』、女は『手を出される』」という慣用表現が成りっているのか

ジェンダー論関連の授業を大学やっていると、「異性愛的な恋愛や性の場面でよく言われる『手を出す/手を出される』や、『お持ち帰りする/お持ち帰りされる』という主客が男女で異なるような表現が一般的に広がっていることは、ジェンダー論の観点から考えてどうなのか?」という質問をよくもらう。質問のトーンとしては、批判や告発というよりも、純粋な疑問というかんじだ。

現在の大学生は、建前上「男女の能力差はない」「男女は対等だ」と言われて育ってきた。それなのに、恋愛や性に関わることになったとたん、「男」か「女」かによって区別され、異なる扱いを受ける。飲み会に行けば同じ大学生なのに支払い額は男女で異なり、性的関係を持てば「男性の側が手を出した/女性は手を出された」と噂される。

恋愛感情を持ったり性行為をしたりすることは「相互的なもの」であるにもかかわらず「なぜ男性が主体で女性が客体であるかのように表現されるのか?」、そして「このような言葉づかいを続けることは問題ではないのか!?」というのが、質問の主旨である。

 

2 恋愛や性における性別役割

なぜこのような言葉遣いが一般化しているのかといえば、それは私たちが、恋愛や性の場面において期待されている「性別役割」という思考枠組みを持っているからだというのが答えとなるだろう。

性行動全国調査(JASE)によれば、2015年調査時で高校生男子の7割、高校生女子の8割(大学生男子の6割、大学生女子の7割)が、「男性は女性をリードすべきである」という質問に対して「はい」と答えている。この数値は、1980年から現在に至るまで一貫して高い水準を保っている。

同調査での家庭内での性別役割(「男性は外で働き、女性は家を守るべき」)の肯定率が、3割台であることを踏まえると、恋愛や性の場面での「性別役割」の支持率がいかに高いまま維持されてきたかがわかるだろう。具体的には、結婚のプロポーズは男性からするべき、性行為は男性の側から積極的に求め、女性は求められるのがいいといった規範が、恋愛や性の場面での性別役割を形成している。

男性が主導権を握って恋愛的・性的関係を深めていくべきだという規範が、皆の頭の中にあり、そのようなカップルの組み合わせが「理想的」な「正しい」関係で、「自然な関係」だと当事者たちも周りの人も思っている。だから、飲み会が終わって特定の二人が消えているような場合、「男性がお持ち帰りした/女性がお持ち帰りされた」という表現を使うし、「あいつ(男性)が手を出した」「彼女は手を出された」と表現することになる。

本人たちに直接聞いてみれば、「いやぁ、実は彼女の方が積極的で」とか「私(=女性)の方がひとめぼれで」などと言うかもしれない。もちろん噂話をする人たち自身も、必ずしもつねに男が「がっつき」、女が「がっつかれる」ことで関係が成立しているわけではないということにも気づいているだろう(注2)。

しかしながら、「実際どうであるか」とか「本人たちがどう思っているか」とは別に、周囲の人たちは自動的に主客を決めて語ってしまう。そのように語ってしまえる理由は、性別役割が皆の頭の中にあると想定できるような社会に生きていているから(例えば、男=主体/女=客体を前提にした広告やドラマ、映画、マンガ等は無数にある)であり、性別役割にそってパターン化された語りをすることで、語りが流通しやすくなる(=伝わりやすくなる)からだ。

「噂話」と言うと、本当かウソか分からないような話や下世話な話を広げるというような悪いニュアンスが含まれているが、私たちは誰かと物語を共有することそのものに楽しみを見いだし、仲間とのつながりを確認するという行動を頻繁にしている。物語の共有範囲を広げるために、既存の社会で成り立っている語りのパターンが選ばれがちになるというのはよくわかる話である。(既存のステレオタイプに則ってパターン化された語りこそが、よりよくうわさ話として流通しやすいのかもしれない。因果の向きは不明)

 

3 恋愛や性における性別役割/一般的な性別役割分業

以上から、「男が手を出し/女が手を出された」のような言葉遣いがいまだによく見られるのは、恋愛や性における「性別役割」があるからだということがわかる。

だが、ステレオタイプな「性別役割」で人を判断したり、それを人に押し付けたりすることは、性差別的なふるまいとして問題化されているのではなかったか? これを問題として声を上げ始めたのは第二波フェミニズムであり、その拡がりからもう50年が経過している。

第二波フェミニズムの性別役割批判としてよく知られているのは、「男は外で働き、女は内を守る」的な性別役割分業規範の批判。これは、性別に適した仕事があるというふうに、仕事をジェンダー化することを批判したもの。これがある以上、女性が経済領域から排除されるという事態が変化しないからだ。

 「愛」の名のものでの女性の搾取が起こっているということはラディフェミ中心に告発されてきたが、愛や性の関係における「性別役割」が一体どのような関係性(権力関係)を構築しているのかについては主題化されてこなかった。というわけで、いま主題にしたいと思っている。

この話は、必ずしも女性が支配されているみたいな話にはならないと思う。恋愛関係においては、相手の感情に判断をゆだねるものであるがゆえに、恋愛関係に参入する誰もが(ジェンダーに関わらず)、一種の主体性の剥奪され感(相手に自分の存在価値をゆだねざるを得ない感)みたいなのが発生する。それを踏まえた上で、そこにジェンダーがどうかかわって関係性を構築しているのかを丁寧に見ていきたいと思っている。

そもそも、フェミニズムが性別役割規範を批判するのは、それによるステレオタイプの存在によって、本人が望んでいない役割を他者から押し付けられたり期待されたりすることが、①個人の自由を抑圧し、②それが社会的な不利益をもたらしているからである。恋愛における性別役割が、①になっていることはある程度、実証できそうだが、さらに②をどこまでどう明瞭にしていけるかが、この議論の成否になってくるだろう(→これから頑張る。まぁ①だけでも議論は成立するのだが、②も一歩明瞭になると、色々と嬉しい)。

 

4 恋愛の性別役割を受容する女性もいる(いた)——バブル期の恋愛観——

これまでは、女性の側もその恋愛における性別役割を望んでいるということを前提にした議論が多かったような気がしている。女性は愛されたい、求められたい、ロマンティックなプロポーズをされたいみたいな言説を、けっこうフェミニズム寄りの女性の自立とかを大事にする女性も、言ってきたところがある(例えば、酒井順子氏とかを具体的に引こうと思ったが、疲れたのでまた今度)。

バブル期の恋愛観は、とくに男女の非対称な性別役割を前提にして成り立っている。

職場や家庭などにおいて、自分が望んでいないような性別役割を他人から要求されるのは「嫌だ」「不当だ」「問題だ」と主張する人でも、恋愛や性関係となると、男性がプロポーズすべきだし、男性には性的に積極的であってほしいという態度が見られる。この背景には、恋愛や性における男女関係の非対称性(そこにはもちろん権力関係もある)こそが、恋愛や性の醍醐味という考え方がある。

だから、恋愛や性の関係における性別役割のあり方に関しては、 煮え切らない議論が多かった。でも、たぶんこのあたりを細かく丁寧に考えていくことはできるし、ヘテロ恋愛の問い直しが始まっているいま、そのあたりを考えていくのが重要

 

5.よりよい恋愛や性愛に向けて

私は、ステレオタイプな「性別役割」に抵抗しながら、自分にとって特別な相手との親密な関係性を築いていくという方法はありうると考えている。男性がおごり、女性がおごられる、男性が「強い男らしさを演じ」、女性が「恥じらってみせる」といった定型的な性別役割を遂行しなくても、誰かと恋愛的関係や性的関係を築いていくことということはできる。つまり、恋愛や性から離脱せず、むしろそれらに積極的にコミットしてそれらを楽しみながら、恋愛や性の場面で暗黙のうちに想定されている性別役割に抵抗し、異議申し立てしていくという方法があるのではないかということだ。

たしかに、既存の恋愛や性の場面での性別役割を演じることで、「私はあなたを恋愛(もしくは性的)対象として意識していますよ」というメッセージを送ることができる。この点において、性別役割を演じることは「効率のいいコミュニケーション方法」ではある(ルーマンなら、ダブルコンティンジェンシーを縮減する愛のメディアが可能にするコミュニケーションだと言うだろう)。そして、コミュニケーション方法として確立している以上、これをやれば恋愛関係に入りやすく、これをやらないと、「恋愛」という一般的社会的関係とは異なる特殊な関係性に、参入しにくいという構造がある。

例えば、ふだんは職場の同僚だが、2人きりでのお茶や食事に行って「男性がおごり、女性がおごられる」という役割を果たすことで、男性の側が「自分は男女の関係を意識していますよ」というメッセージを発することができる(注1)。したがって、現代社会の異性愛恋愛行動にうまく順応できている人のなかには、このような「解釈コード」にのっとった恋愛行動なしに、どうやって恋愛や性的パートナーのマッチングができるのか、想像もつかないと考える人もいるかもしれない。

しかし、それをしなければ、恋愛ができないという規範が成り立っている社会では、それに違和感を持つ人は恋愛から距離を取らざるを得ないことになる。そして、そういう意味での恋愛——つまり、過度な定型的性別役割をやるのが恋愛——のイメージに対する否定的見解を持つ人も多くなっているように思う(多様なセクシュアリティ、多様な恋愛のあり方を模索する人が増えている、という状況的判断によっています)。

すくなくとも、恋愛において要求される性別役割をきっちり演じられる人だけが、恋愛のもたらす人間関係の豊かさや生活の充実を経験できるみたいなあり方は、社会として健全ではないと思う。

というわけで、恋愛や性の関係に入った途端に、男性が主体で女性は客体となることを前提とするような意味の論理構造自体が変化していき、よりフラットでジェンダー平等な恋愛関係が成立するようになるといいなと、思っている。

・これがいかに大変かということに思いをいたしつつ……

 

 

注1:細かいことを言えば、同じ「おごる/おごられる」の行動の解釈の仕方は、多義的で必ずしも、おごった側が相手を「恋愛対象」や「性的対象」として意識しているということを意味しない。全く同一の行動を、「先輩が後輩におごった」、「仕事をもらう立場である自分が、取引先のお客におごった」、「たんてきに収入の多い方がおごった」、「お祝いとしておごった」等で解釈可能。ちなみにこの多義性が、また恋愛の「駆け引き」を可能にする条件となっているのだが、それはまた別の話なので割愛。うわーなんかドロドロしてきて面白いね、この分析。社会を「相互作用」として分析するゲオルク・ジンメル社会学理論って、こういうふうに恋愛分析において効果を発揮するのかもしれない。 ようやく、私の社会学理論研究と実証研究のつながりが見えてきたかも…。意外にも。

 

→次は、恋愛関係に入った瞬間に発生する男性主体/女性客体というジェンダー非対称な性別役割について、もう一歩深く考える文章を書きます。

  

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