ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、『恋愛社会学』(ナカニシヤ出版、2024)発売中。

後期近代における恋愛論の重要性1

1.

個人の「自由」の拡大が共有された社会的な「善」になっている現代において、恋愛や性といった「個人的なもの」をめぐる議論は、ますます重要になっている。

再帰性が高まる後期近代論者のギデンズ、バウマン、ベックらが親密性や愛についての論考を書いたのはそのため。恋愛や性は、個人の自由の実質的な内容をなす一つのものとなっている。自由は社会的不介入によって成立するという、アメリカの保守主義者みたいな自由観をとらず、個人の自由は社会的に構成されているという自由観を取るならば、恋愛や性をめぐる自由については、社会的に議論していく必要がある。

 

恋愛や性は、ますます個人の自由にゆだねられる場になっているからこそ、社会的に議論していく必要がある。「性解放」以後、恋愛や性的関係の多様なあり方が許容されるようになり、選択肢が広がり、そのなかのどれを選択するかが個人にゆだねられるようになった。個人の選択肢は広がったのだが、恋愛や性に関する自分の欲求表出の仕方や、相手の人格をどう扱うのかは、道徳的な判断の対象であり続けている。つまり、恋愛や性の相手に対してどのような態度をとるかが、その人の「道徳性」や「人格に信頼できる人か否か」といったことを表すものとして位置づけられ、重要視されている。

 

だから、人々は「正しい」恋愛や性の関係のあり方を学び、自分の欲求との折り合いの付け方を模索し、実行しなければならない状況にある。そこでいう「正しさ」とは、社会的に成立している画一的な「正しさ」を身に着けるというよりは、自分にとって、最もっともしっくりする恋愛・性関係であり、かつそのような恋愛や性のあり方の正当性を他者に説明できるようなものという意味である。

恋愛や性は「内発的欲求とその充足」の問題であり、これは個人が自由を実現できているか(個人が自分の人生を謳歌できているか、やりたいことがやれているか)を自他が判断するさいの尺度のようなものになっている。それもあって、人々は恋愛と性の問題に取り組み、何かしらの選択をしていかざるをえないという状況に置かれている。

このような状況において、個々人が「自分はどのような恋愛・性関係を選ぶのか」を決めるための、恋愛・性をめぐる意味論の見取り図(整理)が求められているように思われる。いま恋愛論が必要なのは、そのため。

 

2.恋愛論:全体見取り図

恋愛や性が「道徳的(倫理的)判断」の対象になっているということを踏まえると、最低限、【1】社会的レベル:恋愛や性をめぐる社会規範や道徳的判断基準のあり方と、【2】個人的なレベル生存の美学(生き方の美学)の問題としての恋愛や性のあり方という、2つのレベルでの議論が必要。(もちろん両者はつながっているのだけれど、切り分けて整理しながら議論していくのが重要。)

さらに、いまの日本において恋愛論を展開するなら、以下のような3層構造で考える必要がありそうだなと私は思っています。

【1】社会的レベル:恋愛や性をめぐる社会規範や道徳的判断基準のあり方(その変化なども含めて) 

  • モテ」という言葉で可視化されている「人格の序列化」とでもいうべき事態について(非モテ論、自由恋愛市場が抱える問題点など)

【2】個人的なレベル:恋愛・性関係にコミットしている人たちにとっての恋愛や性のあり方

  • 友情と恋愛の間の多様性、ソフレ、セフレ、ポリアモリー、相手との多様な距離感のあり方(所有欲、排他性、嫉妬、束縛、傷つきの問題)、いま抱えている具体的な問題等々。

【3】リアルな相手との相互行為を基本としない恋愛感情のあり方

  • ロマンティズムの究極の形、バーチャルな恋愛、恋愛感情の商品化状況における売る側と買う側の論理

 

私の『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど』(高橋幸、2020)では、上記黒太字のテーマ(モテ、ソフレ)について扱っています。それらの個々のトピックを「後期近代日本における恋愛論」という枠組みで展開するとしたら、こういう感じに位置づくなぁと思いました。

 

3.具体的テーマについてのあれこれ

【1】社会的レベル:恋愛や性をめぐる社会規範や道徳的判断基準のあり方

最近、男性文化における「モテ」についての議論を読みまして、改めて「モテ」は社会的序列を構成する原理としてあるんだなという印象を強めました。

『モテないけど生きてます:苦悩する男たちの当事者研究』(2020、ぼくらの非モテ研究会) (→こちらについては今度きちんとレビューします。)

 

現代思想 「男性学」の現在:〈男〉というジェンダーのゆくえ」(2019年2月号)

 

 

拙著では、女性文化における「モテ」を扱っており、それまでの男性誌が使ってきたちょっと下品な「モテ」という言葉を、00年代に赤文字系ファッション誌(保守的な志向を持つ)が使い始めたということが面白く、そのガツガツ感と女らしいお上品さを両立させて「いい結婚」を目指すというあり方を、ポストフェミニズムの潮流の一つとして論じています。あと、補論では「モテ」に取りつかれることの問題性を論じています。

けど、それとはまた少し別の位相で「モテ」論を深めることができるな、と気づかせてもらいました。すなわち、現代において「モテ」は人格ランキングみたいになっていることや、モテ度が人格的承認の尺度として用いられているというあたりについて考えるのが重要。(一見そう受け取られているが、モテや非モテと言われているものをちゃんと分解して分析していったら、人格ランキングみたいな見方が相対化できそうな感じがしている。)

山田昌弘さんの『モテる構造』はこのあたりをやろうとしたことだと思うのですが、恋愛や性の原理を用いた社会秩序がどう構成されているのかについては、あともう一歩くらい進められそうな気がしています(今後頑張る)。私がやりたいのは「モテ構造」ではなく、「モテ構造」。モテという原理によってどのように社会構造が形成されているのか。

『モテる構造: 男と女の社会学』(山田昌弘、2016、ちくま新書

 

【2】個人的なレベル:恋愛・性関係にコミットしている人たちにとっての恋愛や性のあり方

【2】として、例えば『さよなら、俺たち』(2020)の清田隆之さんなどがされているお仕事のあたりがあります。ジェンダー論系研究会に来ている男性が、こちらの本について好意的に言及している場面に数回、私は出くわしました。評価されております~。

 

それから、【1】と【2】の中間レベルの話として、例えば、ホリィ・センさんの「サークルクラッシュ」に関する研究があります(この間、編集者さんに教えてもらいました)。サークルくらいの小~中規模集団における恋愛・性的関係のダイナミズムの話、面白いです。

nikkan-spa.jp

上記の記事は『SPA!』の男性読者向けに調整して書かれているということを勘案した上で、好意的に解釈するということにさせてください(そもそも、クラッシャーとされる女性を「悪」っぽく捉えてしまう構図を再生産するのはどうなんだとか、そういうフェミ的批判を優先してしまうと色々なものが読めなくなっていきます。ですから、私は、ある論考を読むときには、そこから学べる点を「読む」ことが重要だと考えています。これは私の信念です)。

というふうに、いちおう前置きをしたうえで自由に喋りますが(それでもあまり別に論調は変わらないけれども)、私はサークルクラッシャーと呼ばれている女の子の方の生きづらさがすごい気になった。たぶん、そっちの視点からの研究もなされているのではないかと予想している(この点を確認するには会誌を手に入れねば、かしら)。

いずれにしても、小集団における恋愛・性原理の機能の仕方というテーマから、深められる恋愛論というのもあるのではないかなと思いました。

  • 急に自分語りするけど、ちなみに私個人はですね、大学時代サークルというものに一つも入らず、見学?みたいなことにさえ一つも行かなかったので(なんか、当時そういうものを軽視していたところがあって…。なぜそういうイデオロギーを持っていたのかは今となっては全然思い出せないのだが)、サークルクラッシュもしなかったのですが、こういう形で男社会に入った女が排除されていく感+孤独感は「あるある」でよく分かる感じがする(「あるある」感が出る程度まで抽象化しつつ具体的な話が書けているところがこのエッセイのいいところです。)
  • さらに自分語りするけど、私は仕事関係に恋愛や性関連のもつれは絶対に持ち込まないと決めており(なんか大学院に進学した22歳くらいの頃にすでに、恋愛・性関連のこういうめんどくささがあるということを悟っており、その時はそれは脇に置いておこうと決めていたのよね)、したがって東大という男社会においても、この形の人間関係クラッシュは起こしていないので…笑、私にとっては安心して言及できる話題です、これ。(さらにグダグダ書くと、恋愛は「関係」なので「もつれはもちこまない」と決意して実行できるものではない。意図せずして巻き込まれたりということが往々にして起こるし、自分一人の問題として見たとしても、感情がそんなに思い通りに動くこともないわけで。そのあたりこそが恋愛の面白いところなのですが。)

 

そして、今、私は【3】に関して調べているところ。テーマとしては色々あって、色々考えてはいるんだけど、一つ具体的には「新海誠のロマンティシズムって、ドイツロマン主義やそれを輸入しながら発展した日本の浪漫主義とどう同じで違うのか」ということを調べていたりします。ご存じのようにロマン主義はドイツでも日本でも保守主義→政治美学・ファシズムへと回収されていく流れがあり、それに対する批判もたくさんなされてきたわけで、それらを踏まえた上でなお現代のロマンティシズムが擁護可能であるとすれば、それはどのような形で擁護し発展させていくことができるのかということを考えたいな、とか思っています。

  • 最初は、00年代の新海誠が書いてきた恋愛——日常に着地しない恋愛——って何なんだろうというようなゆるいことを思っていただけなんだけど、私が関心のあることをだーって調べていたら、こういう構造の議論になってきた。新海論、書くあてはないんだけど、まじめに書いたら1.5万字とかになると思う。
  • 現在の思想用語で、恋愛とか性とか「アイデンティティ」とか「承認欲求」とか「ナルシシズム」とか「自己愛」とかを論じていると、なぜかネガティブな批判に流れていってしまいがちなところがあるんだよなーと思っている。おそらく、もっとこのあたりの語彙を丁寧に分節化して議論していくのが重要。ということを、いまセカイ系論を書きながら改めて思っている次第。

 

以上。

次のエントリは、「後期近代における恋愛論の重要性2:社会学界隈を中心とした現代の恋愛論について」で、社会学界隈の恋愛論文のレビューを頑張る予定(たぶん)。