ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

「母性空間」からの脱出、そのための新たな愛の関係とは ――宇野常寛著『母性のディストピア』(集英社2017、早川書房2019)書評――

「母性空間」からの脱出、そのための新たな愛の関係とは

――宇野常寛著『母性のディストピア』(集英社2017、早川書房2019)書評――*1)

 

本書の主題

 本書は、マンガ・アニメ作品読解を通して現代日本社会を論じる文芸評論家・宇野常寛の評論集である。世界でもてはやされる日本アニメの巨匠の作品(宮崎駿富野由悠季押井守監督作品)を読み解き、それらが共通して「近代的かつ男性的な自己実現」の不可性を意識する「矮小な父」と、そのような男性を慰撫するため男性に無条件の肯定を与える母的少女(「肥大化した母性」)との「愛」の物語という構造を持っていることを明らかにしていく。輝かしい日本文化コンテンツの根底に横たわる「敗戦によって傷ついた日本の男性性」という「トラウマ」を再考して引き受けようとする意欲作だ。

 宇野は、「母」を収奪する「矮小な父」に義憤を抱く「息子」であり、「母」の情緒的支配空間から逃れようともがく「息子」である。彼は、「母」ではない新しい恋人を獲得することで「父」になるという成熟モデル(エディプス・コンプレックスの克服による成熟)を信じることができない。なぜなら、「日本社会」は、妻をめとって子をなし「父」となってもそれによって再び「妻=母なるものの空間」に閉じ込められてしまうという閉域としてあると、宇野は捉えているからだ。この閉域が「肥大化した母性空間」、「ディストピア」と呼ばれている(「肥大した母性と矮小な父性の結託こそが戦後日本を呪縛した母性のディストピアだ」(p.374))。

 「母性のディストピア」が生じるメカニズムは、おもに二つ。第一に、第二次世界大戦の敗戦後、日本の政治的決定力や軍事力はアメリカによって制限され「12歳の少年のままで」いることを強要されていること。日本の政治レベルでの「成熟した市民になること」は虚構にすぎない(p.25)。

 第二に、政治的領域での成熟のできなさの代償として、日本の男性は「母のような少女」を所有することで「父」となるという「疑似的な成熟」を私的領域において達成しようとし、このような男性の要求に合わせて、女性たちは母性を肥大化させてきたこと。

 「アメリカの影」に付きまとわれ、政治的領域で成熟する(=市民になる)ことが「虚構」でしかないという戦後日本の政治的・社会的環境の中で、アニメの想像力と批判力とが花開いたというのが宇野の議論である。

 

かつての「母性の喪失」論との違い

 日本文化を母性原理社会だとする肯定的な日本文化特殊論は1970年代から80年代に多く見られた(青木保(1990)は、1964-83年を「肯定的特殊性の認識の時代」としている)。土居健郎(1971)は「甘え」を、小此木圭吾(1982)は「阿闍梨コンプレックス」を、河合隼雄([1976]1997)は「母性的社会」を論じた。日本文化の倫理の根幹は、苦しむ母、自己犠牲的に献身する母に対する一生かかっても返しきれない「恩」の感情にある。自分が「何か」の犠牲の上に成り立っており、自分はすでに「何者か」に負い目があるという感覚が日本文化社会の道徳・倫理の根源であり、その「何者か」を一身に引き受けてきたのが「母」(実際の母であり、シンボルとしての「母」)であった。

 

  江藤淳は1975年に、日本の倫理的根幹をなす「母」が崩壊している(女性たちが自己犠牲的な「母」役割から離脱しはじめている)と論じ、「母の喪失」を受け止めることが成熟の条件であるとした。上野千鶴子は江藤の議論を評価し、「苦しむ母」を見て育った娘たちは「不機嫌な娘」となり、もはや自分を犠牲にしながら子育てするという規範や美徳を引き受けようとしないと論じている(上野 1997)。事実、90年代には、母と息子の一心同体的な情愛のあり方を批判する「マザコン」(母の意見を過剰に気にかける成人した息子を指す語)が流行語となり、母と息子の関係に関する反省的まなざしが社会的に形成された。娘の立場から「母の重たさ」を告発する議論の多さに対して、息子が母について積極的な発言する様子はあまり見られないが、その理由はすでに「不機嫌な娘」が「母」となり、新たな母子関係が登場しているからと見なす向きもある(品田2017)。

  それに対して、宇野は現代でもなおマンガ・アニメの想像力において「肥大した母性」空間の支配が存続しており、そこは「ディストピア」だという認識を持っている。リアル(現実)な人間関係を主要な分析対象としてきた社会科学的な議論とアニメの想像力を分析した宇野の議論を並置して見渡すなら、リアルの女性が自己犠牲的で献身的な「母」を引き受けなくなったぶん、フィクションの世界での「母」需要が高まっているということになるのかもしれない。むろん、文字を読む以前の幼少期から接するアニメが、ジェンダー観、人間観の基本的枠組みを作る大きな要素となることを踏まえれば、アニメの想像力がフィクションにすぎないものとして済ませられる問題ではない。

 宮崎駿作品中の主人公の少年は母的存在に見守られているときにのみ空を「飛ぶ」ことができ(第3部)、富野作品中のアンチヒーロー・シャアは母的少女であるララァを失ったことで永遠に救われることなくニヒリズムの底に落ちていく(第4部)。「母的な少女」の愛を獲得することが、主人公の救済になるという物語の型がある。

 

 

宇野が問題視する「母」とは

 本書では「母」の語が比喩的に用いられるため多義的になっているが、宇野が「ディストピア」と呼ぶ母性空間とは、母の息子に対する情緒的支配空間であるというよりも、むしろ「母的少女」への憧れや恋愛感情によって「男性」が閉じ込められてしまうような場のことである。

 典型例として高橋留美子が作り上げたラブコメの空間が挙げられている。「男性作家の宮崎駿が無自覚に描いていた男たちの零落したマチズモを疑似的に回復させてくれる母性的なフィールド(胎内)を、女性作家である高橋は半ば自覚的に、より洗練された形で形成したと言える」(p.253、第5部)。

 『うる星やつら』の主人公・諸星あたるは、「押しかけ女房」のラムによって、「その主体性を発揮することなく――少女を得、マチズモを充足させる=『父』になる」(p.253)。あたるは「好きな女を好きでいるために、その女から自由でいたい」(p.289)とうそぶき、ヒロインのラムはあたるが「ラム=母=(本)妻への愛を否定しない限り」、あたるの浮気を大目に見る。あたるのふるまいは、「抑えきれない男としての欲望」や「自由」を言い訳に浮気という手段で女性を裏切るが、それでもなお女性が自分への愛情を失わないというふるまいを見て、女性の愛を確認するものだ。女性の側は、相手が自分を裏切ってもなお慈愛と寛容さ、自己犠牲、献身を忘れないという「女性的な徳の高さ」を示すことによって、相手の男性よりも精神的に優位な立場に立とうとする。相手の女性を裏切る行動である浮気をしても愛想を尽かさないという積み重ねが、「何があっても切れない」という絆の強さと安心感を成立させているのだろう。母とは何があっても子どもとの感情的なつながりを断ち切らず無償の愛を与えるものという前提のもと、妻にも母同様の無償の愛を求めるという関係がある。

 このような妻と夫の「甘え」の関係は、フィクション内だけでなく江藤淳とその妻というリアルな関係にも見られる。江藤は、日本の戦後民主主義が虚構的な成熟であることに自覚的であること、そして家制度下の道徳を支えた「母」の喪失に耐えることの2点を成熟の条件として主張した(p.26)。だが、戦後日本の政治的成熟の虚構性に対する鋭すぎる江藤の自覚は、私的領域における「母的な妻」への過剰な依存と暴力とを代償としていたと宇野は分析している(第1部)。妻への家庭内暴力について、江藤自身がこう書いている。

 それにしてもなぜあざができるほど殴ったのだろう?「楽しくなれ、楽しくなれ」と相手を殴っているのはこっけいな話だ。殴られて陽気になる人間があるわけはない。私は家内を遠ざけ暗くしていくなにものかと戦っているはずだが、それが家内の中にあるものか外にあるものかが分からない。それともそれは私の中にある何かなのだろうか。(p. 27)

 

 自分の中の満たされないもの(「暗くしていくなにものか」)を外部の妻に投影して妻を殴りながら、恍惚とした自分と妻との同一視(一心同体化)によって暴力の自己正当化が行われている。このような江藤のふるまいに対して、宇野は、「江藤のアイロニズムは、成熟のコストを家庭内の被差別階級としての女性(妻=「母」)に転化することで成立している」(p.31)と一蹴し、江藤の成熟とは異なる新たな成熟――すなわち 「母殺し」、母性空間からの脱出――を模索することになる。

 さて、江藤の成熟とは異なる新たな成熟は、どのようにして可能なのだろうか。日本の政治がアメリカの軍事的・政治的影響力の下にあるという事態は、江藤の時代と比べて現代でも大きくは変わってはいない。それでもなお、江藤の失敗した成熟とは異なる成熟を目指すならば、「アメリカの影」に自覚的でありながらなお、「女性」を収奪せずにすむ「愛」の関係が明らかにされる必要がある。

 宇野は第6部で「母性空間」を「現代の情報空間」と等置することで、議論をずらしていく。そのため、女性が与える無条件の承認によって成熟を達成するという「女性の収奪からなる男性の成熟」とは異なる成熟モデルとして、具体的にどのようなものがあるのかという根本的問いの答えが、本書では明瞭ではない。

 

さいごに 所有の愛ではない、新しい愛の関係という問題についての評者の見解

 女性の情緒的支配空間をディストピアと呼び、そこから脱しようとする男性(「息子」)という立ち位置からの議論は、構造上、女性憎悪的なものへと転落しやすい。母や、性愛関係を結ぶ相手から身を引きはがすふるまいは、激しい愛憎を伴うことが多く、「グレートマザー神話」や「母殺し」物語に見られるように、女性に対する畏怖と崇拝の入り混じった「差別的」な語りの型を踏襲してしまうことが多い(上野 2010)。

 そのため、評者はどのような女性憎悪表現が出てくるかと身構えて本書を読んだわけだが、宇野は「母性空間」=「現代の情報空間」へと議論の方向を転換していく。第6部で「母性空間」とは、現代の情報社会のことだとし、近年一般的にインターネット技術がもたらす「情報の繭(information cocoon)」――すなわち自分が見たい情報や自分と近い意見のものだけが見られるようになっている心地よい情報世界のこと――へと「母性空間」の意味を拡張している。

 最終的に「母性空間=情報社会」へと意味を拡張させることで、母性的なものによる支配をどう終わらせ、母性的なものとの絆をどう結びなおし、どのような成熟を目指すべきなのかという問題に決着をつけずに済んでおり、同時に「母=女への憎悪」の表明というような事態にもならずに済んだように見える。だが、このような議論の方向転換によって、ここまで積み上げてきた具体的な「母」や「母的少女」という女性との関係の結び方という議論の焦点がぼやけてしまっている。

 そこで、宇野が投げかけた江藤の成熟とは異なる成熟のあり方という問いに対する、評者なりの答えについて、最後に考えてみたいと思う。江藤は「母の喪失に耐える」ことを成熟の条件として挙げながら、「母のような妻」を「所有」するような愛の関係を結んでしまったことで、家庭内暴力という凄惨な事態を避けることができなかった。所有の愛とは異なる愛の関係として、どのようなものがありうるだろうか。

 相手を所有しあうような愛とは、相手を自分につなぎとめようとするあまり、相手の選択肢を狭め、自分から離れないよう支配することを指す。男性たちは、少女とセックスすることで彼女を「ものにした」(=「所有」した)と思い込むが、「少女もまた所有される(セックスする)」ことで、男性を自分の「テリトリー内」に安住させ、取り込み、所有してきた。

 しかし、愛の関係が愛という感情にのみ根拠を持つものであり、感情は揺れ動くことをその本性とするものである以上、愛の関係は原理的に揺れ動く不安定なものだ。一度「両想い」になったからといって、永遠に「両想い」であるとは限らない。相手の変化や心変わりは前提であり、いつかは離れるかもしれないというかたちで将来を未決にしておくことが、相手と自分の「自由」を守るものとなる。

 その前提のもとに立つからこそ、愛は輝く。互いの権力行使も束縛もなく、ただ互いの自発的感情のみによって愛の関係が成り立ち、それが継続できるとき、そこにはじめて「ありえないことが起こっている」という奇跡の感覚、掛け値なしの喜びや純粋な嬉しさが生じる(ギデンズの言う「純粋な関係」)。私たちは、義務としての夫婦愛や夫婦としての責務に耐え忍ぶことの自己憐憫ナルシシズム)には心打たれなくなってきている。所有の愛ではない愛は、これまでの恋愛において課せられてきた性別役割をニュートラライズ(neutralize)するだろう。それは、束縛が愛の強さを示したり、相手の愛を試すような甘えを自己犠牲的に受け入れることが愛を意味したりする従来の物語とは異なった物語を紡ぐはずだ。

【註】

*1 本稿の引用頁番号は、2017年版に基づく。

 

【文献】

青木保『日本文化論の変容:戦後日本の文化とアイデンティティー』(中公文庫、[1990]1999)

土居健郎『「甘え」の構造』(弘文堂、1971)

江藤淳「日本と私」『江藤淳コレクション2』(ちくま学芸文庫、[1975]2001)

小此木圭吾『日本人の阿闍世コンプレックス』(中公文庫、1982)

河合隼雄『母性社会日本の病理』(講談社+α文庫、[1976]1997)

山村賢明『日本人と母』(東洋館出版社、1971)

品田知美「第1回母親業はやめられない」『母と息子のニッポン論』晶文社スクラップブック(2017年6月27日)http://s-scrap.com/1446(2019年7月25日取得)

上野千鶴子「「日本の母」の崩壊」平川祐弘萩原孝雄編『日本の母:崩壊と再

生』(新曜社、1997)pp.198-218.

――――『女ぎらい:ニッポンのミソジニー』(紀伊國屋書店、2010)