ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

【議論のための概念整理】「性差別」とは何か:社会科学的な用語としての「性差別」

1.「差別」とは何か
日常語として理解されている「差別」とは、「相手の属性に対する偏見ゆえに、相手を低く評価したり相手をおとしめたり、社会的待遇を変えたりすること」くらいの意味だろうと思います。

ただし、社会科学においては「差別」という語は、もう少し厳密に使われています。①ある属性を有する集団が、②なんらかの具体的な社会的不利益を受けていることが③実証できるとき、それを差別と言う。そして、ある集団の社会的不利益が複数のデータにおいて繰り返し確認されるとき、④社会構造に根ざした社会的不利益が起こっているということを意味します。これを、通常、社会科学では「差別」と呼びます。ここで黒太字にした4つの要件を備えているかどうかが、「差別」概念を適用できるか否かの基準となります。そして、このような「差別」の実態把握を踏まえて、差別を是正するための社会的な対応策(政策)を検討して実施し、それによって社会構造上の属性による非対称性を解消し、不正義を解消することを「社会的公正の実現」(=正義)と言います。

例えば、財の不均等分配(ある属性を持つ集団に対する過少な分配)は「社会的不利益」の最たるものです。ロールズ以降の正義論は、どのような財の分配のあり方が「公正」かということを議論してきたわけで、「性別」という属性によって経済財が少なく配分されているということは、「不正義」に該当します。

また、差別によって被る具体的な不利益としてよくあげられるのは、やはり就職差別と結婚差別でしょうか。これらの「機会の平等」の剥奪は、既存の社会構造(慣習なども含む)によって起こっているので、まさに、どまんなかの「差別」です。これまで、被差別部落差別や人種・民族(エスニシティ)による差別、性別による差別、障がい者差別などが、「差別」として論じられてきました。

 

2.練習問題

差別とは何なのかを考えるうえでの興味深い議論として、90年代から00年代前半あたりの吉澤夏子さんによる「ブス・ブサイク差別はあるのか」をめぐる一連の考察があります。

(例えば、『クィア・ジャパン 魅惑のブス』(Vol.3、2000)での伏見さんによる吉澤さんへのインタビューが分かりやすいので、一般向けにはおすすめです。表紙はまだそこまでブレイクしていなかった時期のマツコさん!)

たしかに、日常生活を振り返ると、ブスやブサイクであるという外見の特徴によって、一定の社会的不利益を受けるという事態が起こっているような気がします。外見の良し悪しによって、周りの人からどれくらい高く評価されるか、どれくらい自分の意見が通りやすいかなどの、人々の社会的待遇(態度)が異なっているように思われるという問題ですね。なんなら、結婚差別もありそうな気がするし、就職差別…はどうだろう?人や職業によっては、顔で落とされたと思う瞬間があるかもしれません。いわゆる「見た目による生きづらさ」問題ですが、これが「見た目差別」や「ブス差別」と呼べるようなものがあるのではないか!?という議論が、当時、盛り上がったのでした。当時は「ブス」ばかりが議論されていたようですが、近年では男性の見た目問題も言説としてあがってきていることをふまえ、「ブス・ブサイク差別」問題とここでは名づけておくことにします。
この問いに対して、吉澤夏子さんは、「ブス・ブサイク差別」は概念として成立しないので「差別」ではないと答えています。先に挙げた4つの要件を満たさないので、「差別」とは言いにくいという話です。
詳しく考えてみましょう。まず、「ブス・ブサイク」に関しては、どのような特徴を持っていれば「ブス・ブサイク」なのかという社会的定義が確立していません。そのため、「ブス・ブサイク」とはどこの範囲の、どの人たちを指すのかということを客観的に把捉するのが難しく、統計上でも特定できない(つまり、人種やエスニシティ、年齢、性別のような「属性」は、客観的に把捉できるのだが、「ブス・ブサイク」という属性は客観的に把捉できるかどうかが難しいということ)。実際、「ブス・ブサイク」というカテゴリーで測定、集計、分析した統計も整備されていない。

そのため、ブスもしくはブサイクであるという「属性」によって(①)、なんらかの社会的不利益を被っているのかどうか(②)を実証することができない(③)。見た目による生きづらさがありそうだし、それが何らかの社会的構造に基づいて(④)起こっていそうなことはわかるのだが*1 、「ブス・ブサイク」であることの社会的不利益が実証できていないので、「ブス・ブサイク」に対する社会的支援策も打ち出せない*2。したがって、社会科学者の中で、見た目による生きづらさ問題を、「差別」と呼ぶ人は少ないということになります。

ただ、今あるデータで技術的に「差別」だと実証できないからといって、「差別だとは言えない」とか、「差別がない」と言っていいのか?という問題がありますよね。これは、重要な問いできちんと受け止めて考え続ける必要があります。

実際、これまでのどの差別是正・撤廃運動も、最初は、世間が全然認めてくれていないなかで、しかし「不当な社会的不利益」を被っていると考える当事者やアライたちが、連帯しながら差別を告発するという形で起こってきました。

性差別に関しても、1970年代からのジェンダー統計の整備というフェミニストたちの仕事の蓄積のおかげで、いま現存の社会構造における性差別を実証できています。「差別」を「差別」と認めさせるために、まずは道具作りから始めねばならなかったということを考えると、そのための地道でコツコツとした仕事には、本当に頭の下がる思いです。

近年は、たとえば「オタク差別」や「非モテ差別」があるのではないかという思いを持っている人もいるだろうと思います。その場合、オタク統計整備や、非モテ統計の整備ができると、議論が一歩進展するということになります。

補足的な議論:「オタク差別」について。たしかに、オタク第一世代とか、宮崎努のあたりとかは、まじで低く評価されていたと言えそうですが、2000年代以降はお上も認める「クールジャパン」の担い手として評価が上がってきているような気がします。ま、それはいいとして、差別を実証できるかどうかについて考えてみましょう。

とりあえず「オタク」というカテゴリーが通用するくらいには、集合体として区別できそうな気はしますね。でも、属性としてどう社会的定義を確定させるか(①)はけっこう難しい問題で、ここが第一の難所です。統計上、オタク集団をどう把捉するか問題。次に、仮に、何とかオタク集団とそうでない集団を比較できるような統計が整備できたとして(例えば、「自称オタク」とそうでない人を区別するとかはあり得ます、近年は自称オタクが増えたのでデータ上の集団としての特徴は見えにくい恐れがありますが)、「オタク」が被っている「社会構造に根ざした社会的不利益」(②)を数字として実証できるかが、第二の難所です。例えば、オタク集団だけが、それ以外の人々や社会的平均よりも、就職率が低い、ソーシャルネットワーキングが弱い、結婚率が低い、貧困率が高い、死亡率が統計上有意に高いなどの特徴があれば、社会科学的にも「オタク差別」があるということが言えそうな感じはしますが、そんなにきれいに数字は出なさそうな予感がします。

そのほか、なにかオタクが被っている差別、すなわち「既存の社会的構造に根差した社会的不利益」として思いつくものありますか? たとえば、「非モテ率が高い」?とかでしょうか。ただ、これも具体的にどう測定するかが難しくて、交際経験率が低いとか、性交経験率が低いとか告白された回数が少ないとかかと思いますが、そもそも現在、若者全般的にこれらの数字が下がっているところなので、「オタク」集団の数字だけが明瞭に低いというようなことはなさそう。補足的な議論、以上。

3.社会科学用語としての「性差別」として、具体的には何が言われてきたのか
以上のような「差別」概念に基づいて言われているのが、社会科学における「性差別」です。この意味での性差別で、いまも明瞭にデータ上確認できており、日常生活への影響が大きい2つのものを挙げるとしたらやはり、これですかね。
ジェンダーペイギャップ 男女間の賃金格差 
「セカンドシフト」 男女間の賃金労働時間+家事育児労働時間を足し合わせた労働時間を見ると、女性の方が圧倒的に長いこと(平均で見たときに、女性の睡眠時間と余暇時間が男性よりも短くなっている)。これを、ホックシールドが女性は賃金労働のあと家に帰って第二のシフトをやっているという意味で「セカンドシフト」と言いました。

他にも、日本の「ジェンダー・ギャップ指数(Gender Gap Index:GGI)」での世界的地位を押し下げている(121位/153カ国中)主要要因の一つである「日本の国会議員における女性割合や管理職における女性割合の低さ」などの問題もありますが。

日本の性別賃金格差が生じている大きな要因は、女性の管理職割合の低さで、賞与や役員手当がつかないため女性の平均年収は、男性のように年齢上昇に即して伸びていきません。それが性別間の賃金格差になっています。逆に言うと、初任給をはじめとする若い時には、そこまで驚くほどのジェンダーペイギャップはないのですが…細かい話に入りますが、若者のジェンダーペイギャップが「ない」ことを意味するわけではなくて、職種によって賃金が異なり、性別の職域分離が現在も明瞭にあるので、その結果、若い時期ですでに女性の方が賃金が平均的に低くなっています。

人々の頭の中にある「性別役割分業意識」社会構造としての性別役割分業制度によって → 性によるライフスタイルの固定化が起こるがゆえに → 男女間での財の不均等配分という不公正・不正義が起こっている(ジェンダーペイギャップやセカンドシフト)というふうに、現在のところ考えられています。

「性別役割分業を緩めていこう」とか「広告における性別ステレオタイプ表象をやめよう」というのは、上記のような過程を想定したうえで、それらは社会の不正義状態を存続させることだからやめようという論理になっています。

言い換えると、性別ステレオタイプ表象がなぜ良くないかというと、性別ステレオタイプに基づく広告が存在することによって、それを見た人々の頭の中にある性別固定的な社会的規範(や社会的期待)が強化される。それは、人々のライフスタイル選択に影響を及ぼし、ジェンダーペイギャップという現在の財の不均等分配の存続をもたらす。縮めると「ステレオタイプ表象は不正義を存続させるよう機能するので、やめた方がいい」という論理になっています。

(時間がなくて、以前に少しだけ言った「セクシズム」とそのままカタカナで使うか、性差別と言ってしまっていいのか問題には、言及できませんでした。)

*1:見た目による生きづらさやそれを引き起こしている社会的構造について:見た目による生きづらさという問題はフェミニズムが問題化し敏感に反応してきたところのものであり、具体的にはルッキズム批判や恋愛至上主義批判などをしてきました。これは既存の見た目による生きづらさをもたらすような社会構造を批判した議論です。上記のように「ブス差別」があるということ統計データとして示すのがテクニカルに難しいところがあったので、「女性差別」の一つとして、これまで議論されてきました。たしかに、見た目による社会的待遇の違いによる生きづらさ(=端的に言えば、結婚できないこと、結婚の機会が制約されることやそれによる自尊心の傷つき)は、90年代中盤くらいまでは女性が被ってきた問題でした(それに対して、男性は、見た目による生きづらさ問題よりも、経済力がないと結婚その他のあらゆる社会的ネットワークから排除されがちという別の生きづらさ問題の方が深刻でした)。しかし、現在は、「非モテ男性」問題という言説に見られるように、見た目による生きづらさは「女性」だけに限られなくなってきた感があります。「男性の非モテ」問題は、①10代後半以降の性欲が満たされない問題と、②世代間格差の拡大による、20代男性への経済財の過少分配の問題が絡んでいて、純粋な「見た目」の問題ではない部分も大きいのですが。

*2:*「ブス・ブサイク」に対する社会的支援策について:例えば「ブス/ブサイク」というカテゴリーの人への「支援」に限定しない、より広いカテゴリー(例えば「若者」)に対する「結婚斡旋事業」(ちなみにこれはやるとしたら、かなり慎重にやるべきですが)や「結婚資金支援事業」(これはより充実させていくべき)などは考えられるが、「ブス・ブサイク差別の是正」のための社会的政策というようなものは構想しにくい。