ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

フェミニストたちの言う新唯物論について2: ブライドッティ『ポストヒューマン』(2013=2019)第1章まとめ

 本ブログ筆者・高橋が、「ポスト」フェミニズムや「ポスト」ヒューマニズムを重視するのは、「ポスト」以下にくっついている「フェミニズム」や「ヒューマニズム」の思想を、新しい時代や社会の状況を踏まえて、練り直す必要があると考えているからです。(沢山発生している「ポスト◯◯」論って、80年代ポストモダン論の副産物なんだよなぁ。)

 今日は、ロージ・ブライドッティ『ポストヒューマン』(2013=2019)第1章の議論の大枠をまとめます。すごーく分かりやすく書く、というのが今日の目標です。フェミニズムの話は、広く多くの人に伝わることが重要なので。

 

1.なぜブライドッティを読むのか

 ブライドッティに着目すべき理由は、彼女が新しい主体の理論を構想しているからです。 

ytakahashi0505.hatenablog.com

  上記でも少し触れましたが、社会構築主義(=ポスト構造主義)以降、主体が権力によって構築されているのだとすれば、抵抗主体はいかにして可能なのか?という大きな問いが残っていました。バトラーの「パフォーマティブ」という概念に抵抗主体の可能性を見出すというような形でなんとか乗り切られてきたり…していました。が、網の目状に張り巡らされた権力関係(=社会)の中の「主体」とはどのような存在なのかについて、ポスト構造主義アプローチとは異なる理論的説明をしてくれる理論はけっこう待望されていたと言っていいと思います。

 ブライドッティの良さは、新しい主体の理論を目指しているところにあります。これが私の立場です。では行きましょう。

 

2.第1章「ポスト人文主義」のまとめ

 基本的にブライドッティの議論は、次のような構図の中でなされている。

【1】ヒューマニズム → 【2】アンチヒューマニズム → 【3】ポストヒューマニズムもしくはポストヒューマン

 

【1】ブライドッティが言う「ヒューマニズム」とは、ルネサンス人文主義ヒューマニズム)ならびに、ファシズムに抵抗したヨーロッパの共産主義共産党ヒューマニズム

 このヒューマニズムの思想家として、例えばサルトルボーヴォワールらの実存主義哲学者がいる。


【2】「アンチヒューマニズム」とは、のちにポスト構造主義と呼ばれる、68年世代の思想家のこと。彼らの思想は、教条主義的な共産主義ヒューマニズムを批判するところから始まった。思想家として、ブライドッティが重視しているのは「人間の死」を宣言したフーコードゥルーズフェミニストとしてイリガライ。

 彼ら彼女らは、マルクス主義が案に含み持つヒューマニズムを批判。すなわち、

「人間を世界史的中心に絶えず位置づけようとするヒューマニズム的傲慢」(ibid. 40)

を批判し、

弁証法的で対立的な思考法から身を引き、人間の主体性についての変わりゆく理解に対処するための第三の方法を展開した」(ibid. 40)。

 第三の方法というのが、脱構築だったり、権力分析といったポスト構造主義的な方法でした。

 

 このようなポスト構造主義によって、人間観が変わりましたポスト構造主義は、「人間本性」という人文主義的通念に対する不服従を呼びかけ(=「人間の死」)、「人文主義、合理主義、普遍性に基づくヨーロッパ的アイデンティティの古典的な定義を拒否するに至った」(ibid. 43)。

 その結果、人間は「一つの理想でも、客観的な統計上の平均や中庸の立場」でもなく、人間は歴史的・文化的に構築されたものであり、「人間なるものは一つの規範的な約束事」(ibid. 44)であるという人間観が思想上、一般的なものになった。

(人間とは、)「識別可能性――すなわち〈同一性〉――についてのある体系化された基準であり、それによって他のものすべてが査定され統御され、所定の社会的な場所に割り当てられる。そのこと自体は悪いことではないが、ただそれが人間を高度に統御的なものにし、またそれゆえに排除や差別の実践に加担するものにしている。」(ibid. 44-5)。

  

【3】そして、現代のポストヒューマニズムもしくはポストヒューマンと言われる思想についてです。現代のポストヒューマニズム/ポストヒューマン思想の流れはおもに3つあると、ブライドッティはまとめています。

(1)道徳哲学に由来するもの ポスト構造主義以降の価値相対主義的な状況に対する応答としてのポストヒューマン思想。

ヌスバウムら現代のリベラルな思想家によるもの。「人文主義的なコスモポリタン普遍主義」を復活させることで乗り切ろうとしている(ibid. 63)。

「私はヌスバウムが主体性の重要性を強調していることに大変満足している。しかし、彼女がその主体性を個人主義や固定したアイデンティティ、安定した場所、そしてそれらを束ねる道徳的紐帯に対する普遍的信念に再び結び付けているという事実には不満である。」(ibid. 63)

(ブライドッティって、ほんと端的に分かりやすく書いてくれる良い思想家ですよね)

 

(2)科学技術論に由来するもの
①ラトゥール
②分析的な形式のポストヒューマン理論、フランクリン、ルーリー、ステイシーら(パンヒューマニティを提唱)
③ニクラス・ローズ
④フェルベーク

 

(3)批判的ポストヒューマニズム:これがブライドッティの立場
1、批判的ポストヒューマニズムは、科学技術統治(政治的次元)の関係を扱うもの

ポストヒューマン理論は、科学技術の複雑性、そして、それが政治的主体性や政治的エコノミーや統治の諸形態にとって含意するものの両方を含むものでなければならない。:69

2、ポストヒューマンの主体は「多数性」によって構成されるが、説明責任を有するもの

わたしは、批判的なポストヒューマンの主体を、帰属の多数性をめぐるエコフィロソフィーの内部で、多数性において/によって構成される関係的主体として定義している。それは、種々の差異を横断して作用し、内側から差異化されてもいるが、それでもなお確固とした根拠に基づき説明責任を有する主体である。(78-79)

・ポストヒューマンな主体がもつ「説明責任」とは、「非単一的な主体のためのポストヒューマン的倫理」に基づいたもの。そのポストヒューマン的倫理は、「自己と他者――非-人間ないし「地球(=大地)」の他者を含む――の拡大された意味での相互連結を提示する」。

 うむ、ここらへんはもう少し説明が欲しいですよね。ブライドッティがここで言っている「説明責任を持つ多数性によって構成される主体」のあり方を分析するためのツールは、その後の章で論じられているので、今後さらにそれを理解していく必要がありそうです。

 

3.まとめ

 第1章は、「ポストヒューマニズム」を扱っていました。ブライドッティは、基本的に、ヒューマニズムは何度も「終わった」と言われ、そして何度でも蘇るものであると考える立場をとっているように見えます。ヒューマニズム自体が批判を受けて変容し、相手を取り込みながら生き続けるという、そういう力を持っていると言えるのではないかと、私も思う。

 ヒューマニズム人文主義人間主義)が「健康な成人・白人・男性」を理想的規範とする人間観に基づいた思想だったからと言って、「ヒューマニズム全体を捨て去るべき」と主張することは、なかなか難しい。というのも、「女性にも発言させろ!」、「有色人種にも同等の権利と社会的承認を!」と主張するとき、私たちはヒューマニズムの伝統と理念に基づいているわけなので。

 ということを踏まえると、ポスト構造主義による「人間の死」とは、それまでのヒューマニズムの限界を指摘し、新しいヒューマニズム(西洋中心主義・男性中心主義・白人中心主義的でないヒューマニズム)を目指したものだったというブライドッティの見方は、穏当で妥当な見方だと言えると、私は思います。

「ポスト植民地主義思想が主張するのは、仮にも人文主義に未来があるとすれば、それは西洋世界の外側から、ヨーロッパ中心主義の諸限界を迂回してやってくるに違いないということである。」(ibid. 42)

 

 そして、このようなヒューマニズムのあり方は、フェミニズムにもおそらく共通している。フェミニズムは何度でも終わったと言われるが、言われるたびに批判相手を取り込みながら変容し、復活していくのではないかと思います。 近代が終わったと言われながら、何度でも復活してくるみたいに。

 以上、ポストモダニズムから発生してきたポストフェミニズムとポストヒューマンの話でした。