ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします…!

ANTや新唯物論によって、社会学理論はどう更新されうるのか:その方向性について

1.
 新唯物論とかANTとかをざっくり読みつつ思っているのだけれど、考えるべきは、これらを社会学に持ち込むことで、社会学理論はどう更新されるのか?だ。
 例えば、主体/社会構造が循環的にお互いを構成しているというギデンズ流(構造化理論)の「主体/社会構造」二元論が、ズラされたり更新されたりするのであれば、ANTを言う意義(社会学理論的意義)はあると思う。
 が、ただたんに「社会記述のさいに『もの』も記述しよう、人間がものによって動かされていることにも注意を払おう」という話だったら、アーキテクチャとか各種デザイン(空間デザイン、コミュニケーションデザイン…)とか、アフォーダンスとかで、すでにやられてきたことだし、別にわざわざANTっていう必要なくない?という気がする。
 たしかに、一部の領域では、人間-非人間の異種混交性に着目して社会を記述することで、今まではできなかった新しい社会記述ができるようになる可能性はある(例えば…ってまだ勉強不足なのだけれど、バイオテクノロジー社会学とか、環境人文学や環境地理学と連携した社会学とか、モビリティの社会学とか…?)。
 しかし、それはたぶんごく一部。本当に社会学全体において、構築主義社会学において重要なものとなったのと同程度に、新実在論とか新唯物論とかANTとかが重要で、多くの社会学者が参照すべきものなのかどうかについては、冷静に考えてみるべき。
 
 例えば、人というアクターと「もの」というアクターを同列に記述するだけだったら、マックス・ウェーバーの理解社会学の枠組みでもできそうだよ、それを越えるようなANTの意義って何なの?というような社会学の古典を踏まえたきちんとした議論は、必要だと思う。
 
「機械をはじめとする一切の制作物は、その製造や使用に人間の行為が――実に様々な目的のために―ー与えた意味、または、与えようとした意味を考えて初めて解釈も理解も可能になるものである。意味へ遡らなかったら、機械は全く理解することができないであろう。つまり、機械のうちで理解可能なのは、手段としてにせよ、単数あるいは複数の行為者の念頭にあって行為の方向を定める目的としてにせよ、とにかく、機械と人間の行為との関係である。」(マックス・ウェーバー社会学の根本概念』清水幾多郎訳、岩波文庫、初版1972:13)
 ウェーバーのこの記述のどこかに、「機械による偶然的な意味の発生」のような一説を付け足せばいいだけなのだとしたら、大騒ぎして、ANTだANTだという必要はない。
 
 で、私の立場はどうなのかと言うと、マテリアル(物質、もの、身体)に着目しますという現代の潮流は、主体/構造の二元論でやってきた社会学理論モデルを更新できる可能性があるのではないか、だから、ANTや新唯物論はけっこう大事だと思う!という立場。笑。えぇ、ぜんぜん冷静じゃなくて、盛り上がっているんだけど、論理的に説得的な冷静な議論が必要だよなと思ってはいる、という話です。
 
2. 
 とくに、ジェンダーフェミニズム論は、主体か社会構造かという二元論の中で議論を組み立てることの限界(説明力不足)というのが見えやすい領域だったと思います。
 例えば、人間の外見美を評価する尺度は、既存の社会(=ラディフェミ風に言えば「男性社会」)が作り上げて女性に押し付けたものなのか、それとも女性主体が作り上げたものなのか、という問題。英米の70年年代、日本の80年代のフェミニズム理論では前者が力を持っていましたが、90年代に入り、男性が求める以上に痩せようとする摂食障害摂食障害の患者の男女比はおよそ1:9)や、「自分のために美しくなりたい」と言って主体的に美容整形手術を受ける女性の可視化とともに、後者の契機もあるということが言われるようになり、議論は膠着状態に陥りました。つまり、美の尺度は男性社会が作り上げたものであるか、それとも女性主体が望むことで作り上げている尺度なのかという問いに対して、どちらが正しいとも答えられない状態になった。
 こういうときは、問い自体が間違っているのではないかと疑った方がよいと思われます。
 
 ちなみに、パーソンズ社会システム論に基づけば、既存の社会構造が作り上げた美の序列を、女性主体が「学習」(文化システムの社会システムへの影響)し、「内面化」(文化システムのパーソナルシステムへの影響)したものだという説明の仕方になります。だが、パーソンズのこのような説明形式は、文化システム至上主義という批判を浴びたので、そこを修正して発展させたギデンズの構造化理論では、男性社会が作り上げた美の尺度によって、女性主体が主体化され、その主体がさらに美の基準に則った行動をしたりそれを批判したりすることを通して新たな社会の美の尺度(=構造)を作り上げている、というふうに、社会構造と主体が循環的にお互いを構成しあうことで、社会は変化しているという説明の仕方になりました。
 ギデンズの話は、論理としては通っている。美の尺度は男社会が作ったものでそれを女性に押し付けているのか、それとも女性主体自身が望んで形成しているものなのか、どっちなのか?という問いに対して、「どちらも正しいです。互いに循環的に形成しているので」というのがギデンズの答え。ま、たしかにそういう「うまい答え方」はあるよね。しかし、私はこれは説明力不足という問題を抱えているという点で、やはりそろそろ更新されてもいいんじゃないかと思っている。
 どういうことかというと、ギデンズの構造化理論の説明では、現代の女性たちの「美をめぐる実践」(日々自分の顔に関して悩んだり、カバーしようとあれこれ試したり、あの人が私にこんなことを言ったのは今日の私の服装が女の子っぽぎて威厳に欠けたからなのだろうかとか見当違いなことを考えたり、今日はデートなのでまゆは薄めで(うふふ)、みたいな色々な実践)が、一体何をしていることになるのかについて、ちゃんと社会学的に説明できているという感じがしない。「社会構造」とはこの場合これこれを指しており、構造はこのように細分化できて、とか「主体」とはこういうことでというふうにより細かく説明していけば、私たちの日々の美をめぐる社会的実践を説明できるような気もあまりしない。
 美は、魅かれちゃうものだし、気になっちゃうものだし、気にせざるを得ないという形で強制されるものでもあって、もちろん主体的にコミットしている側面もあるけど、そうじゃない側面も多い。それを「主体」という語でくくってしまうことで見えなくなることはけっこうたくさんある。同様に、美の尺度や「社会構造」ってそもそも何?美の画一性とか規範性とかがとりあえず批判的に言及されることが多いけど、美ってそういう話に収まるものではないのでは、という大きな問題がある。
 
 
3.
 ジェンダーフェミニズム論における「主体か構造か」の二元論の行き詰まりを明晰に書いている論文として、
 
西倉 実季, 2005, 「美」を論じるフェミニズムの課題―二元論的思考を超えて , 『F-GENSジャーナル』 4 61 - 67. (これは、インターネット上で検索すると読めます)
西倉実季, 2003, 「ミス・コンテスト批判運動の再検討」, 『女性学年報』24 21 - 40. 
西倉 実季, 2003, 「ジレンマに向き合う―外見の美醜を語るフェミニズムのために」, 『女性学』 10 130 - 150.
 
があります。
 
西倉(2005)では、私が上記で整理した美についての議論の展開を、
「80年代後半までに獲得された「抑圧としての美」というパースペクティヴと、フェミニズムへのポストモダニズムの導入以降に主流となった「規律実践としての美」」(要約より引用)
 というふうに整理しています。男社会によって美の基準が作られたという美のパースペクティブを「抑圧としての美」、実は女性自らが美しくなることを主体的に求めているという美についてのパースペクティブを、それは女性に対する規律権力が働いているのだという解釈に基づいて、「規律実践としての美」と呼んでいます。すごくいい概念整理ですよね。
 この議論を踏まえると、2010年代以降の我々は、いったい「何としての美」の中を生きさせられているのでしょうか。(誰かいい用語を思いつく人いたら教えてください。)かつて、私はある研究会で、「2000年代から2010年代の新自由主義の中で、女性たちは、自分に自信を持つために美しくなることを目指すという、『エンパワーメントのための美』を生きさせられているのだ」と言ったら、自分としてはけっこう的を得た、これ以外ない良い表現だと思っていたのですが、「なんかすごく第二波的な響きがする」「ぜんぜん新しい感じがしない」と言われ、却下されてしまいました…。今後どうするかは考え中です。
 2000年代以降のフーコーの系譜を引き継ぐ新自由主義時代の権力論で出てくる「監視=管理社会」とか、「認知資本主義」とか、「ハイパー資本主義」とかを入れてみても、美の場合にはピンとくる概念にならないってところが面白いところです。
 
ここまでの議論を補強するために、補足的に例を挙げると、近年の女子力の議論を見てもわかるように、女子力を上げるのは、
 
1、自分のため、
2、異性にモテるため 
3、同性もしくは全方向モテのため
4、仕事を円滑に遂行するため
 
のようなものが挙がるようになっており、4は社会構造による強制と解釈することもできるような気がするし、2も異性愛主義的な現代社会による強制と解釈できるとしても、1,3のあたりの女性の一主体としての主張を無視するわけにもいかない感じになっており、やはり美は社会構造によるのかそれとも主体によるのかの二分法に関しては、どちらもです、という答えになってしまって、女子力分析がうまくいかない。
 
 以上より、「現在の社会で通用している美の尺度は、社会構造が作り上げたものか、それとも主体によるものなのか」の二分法では現在の美の実践は読解できないということが結論づけられるのではないかと思う。
 
 というわけで、物質そのものとそのネットワークに着目する分析方法が、主体/社会構造の二分法を打ち破る新たな社会学理論モデルになるのではないか(そうなるといいな)、そうなると社会学理論の進化だと言えるな、と思っている、今日この頃でした(案外私のミスコン調査はこの方向を目指しているのかもしれないと、考えを整理していてわかってきました。2月のミスコン研究会は諸々の事情によりお休みなので、この論考を研究会代わりにここに置いておきます)。