ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

ポスフェミ基礎文献:三浦玲一(2013)について

三浦玲一, 2013, 「ポストフェミニズムと第三派フェミニズムの可能性:『プリキュア』、『タイタニック』、AKB48」, 三浦玲一・早坂静編著『ジェンダーと「自由」:理論、リベラリズム、クイア』彩流社: 59-79.

 

1.「新しい左翼」の模索の延長線にあるポストフェミニズム

 三浦玲一先生の上記論文は、現在のポスフェミ関連論点がほぼほぼ入っているといっていい、すごい論文です。(もちろん、分量は一般的な論文サイズなので、論点が萌芽的に入っているというような意味です)

 これを読むと、ポストフェミニズムの議論が、冷戦後の新左翼の行き詰まりという議論の延長線上に出てきたものだということがよくわかります。

(冷戦後の)「(新左翼に代表されるような)左翼的な想像力全体の変容――それはつまり、現状に対するオルタナティヴをどのように想像するのかという想像力全体の変容でもある――のなかに第二波フェミニズムからポストフェミニズムへの移行はある。逆に言えば、この状況を如実に象徴しているからこそ、ポストフェミニズムを十分に踏まえながら、フェミニズムの未来を想像することには重要な意味がある」(三浦 2013:67)

 新自由主義政権(とくに、三浦のいう「第二期新自由主義政権」であるクリントン、ブレア、小泉以降)が「変革」や「革命」のレトリックを用いて統治を進めている現状において、左翼はどのようなオルタナティヴを提示していけるのか?という問題系のなかで、連帯による社会変革を目指した第二波フェミニズム(=新左翼的なもの)の失効を指し示すのがポストフェミニズムだというのが、三浦先生の議論の枠組みになっています。

 

2.新自由主義を下部構造とする「文化」としてのポストフェミニズム

 三浦(2013)は、基本的にポストフェミニズムというのは、90年代の「文化」であると規定しています。

「ポストフェミニズムは、このような時代状況(=新自由主義)における「文化」としてある。それは、女性の社会進出の達成を象徴すると同時に、社会運動を重視する連帯の精神としての第二波フェミニズムを批判し、市場における達成を重視して個人主義を称揚するものであり、政治的改革ではなく自己実現と「私探し」こそをゴールとする「文化」として広く受け入れられたのである。」(三浦 2013:66、()は引用者による)

 引用文中「このような時代状況」とは、前段落の「冷戦の終焉からグローバル化という流れは、社会主義の終焉という一般の認識に帰結し、そして、新自由主義グローバル化時代における必然として承認されたのである」を指しているので、ひとことで言えば、「新自由主義」。

 カギ括弧つきの「文化」には、新自由主義の「偽文化(quasi-culture)」というような意味合いが込められているのではないかと推察できます。というのも、次の引用箇所を見ると、新左翼の「オルタナティブを想像しようという文化的な運動」の文化にはカギ括弧がついていないので。

「既存の社会に対するオルタナティヴを想像しようという文化的な運動、つまり、60年代の移行の新左翼的な(そして第二波フェミニズムもその影響下にあった)学生運動やヒッピー・ムーヴメントが、結果として、新自由主義に簒奪された」(2013:66-67)

 新左翼の文化には「」がついていないことから、新自由主義の「文化」は偽文化だというような意味が込められています。 …と思いましたが、同論文内で、新自由主義の文化と述べている箇所で、カギ括弧がついていない「文化」という記述も発見してしまいました。

「ポストフェミニズムの特徴は、日本で言えば、1986年の男女雇用機会均等法以降の文化だという点にある」(2013:64)

「このようなポストフェミニズムの誕生は、同時代のリベラリズムの変容・改革とかなりはっきりとつながっている。それは、バジェオンやギルも指摘するように、新自由主義の誕生であり、新自由主義の文化の蔓延である」(2013:64)

 というわけで、文化はカギ括弧なしでもよいのかもしれません。ともかくも、ポストフェミニズム文化として捉えられているということは確実そうです。

 ここから、ポストフェミニズムという議論は、マルクス主義知識社会学的な枠組みに基づいて、ネオリベラリズムを下部構造とする文化(上部構造)として展開されていると、まとめることができそうです。

 菊地夏野さんの『日本のポストフェミニズム』(2019)でも、第1,2章でネオリベラリズムが論じられ、第3章以下でポストフェミニズムと見られる文化現象についての研究がされていました。下部構造が変化したのに伴って、文化状況も変化しており、フェミニズムの位置づけや意味も変わってきているという議論をしているのが2000年代後半以降のポストフェミニズム論だといえます。

 まとめると、

 

 上部構造:家父長制

 下部構造:世界大戦後の福祉国家体制+公私二元論を前提とする資本主義

    ↓

 上部構造:ポストフェミニズム文化の蔓延 

  下部構造:ネオリベ

 

 ただし、知識社会学的な議論に対して、上部/下部の二元論は妥当なのか?本当にそんなにきれいに切り分けられてているものなのか?という批判的(反省的)思考は、現代の思想状況の中で思考していれば否応なく働きます(二元論を疑うのは脱構築の基本、みたいな意味で)。

 なので、ポストフェミニズム論は、「文化」を扱いつつも、それが女性の労働とどうかかわっているのかという「労働」とジェンダーという問題系へと発展していくという傾向があります。三浦(2013)論文も、後半は、労働とジェンダーの問題になっている。

  ・ちなみに私は、政治経済体制(下部構造)/文化やイデオロギー(上部構造)というマルクス主義的-知識社会学的な議論の構図をズラす別の方法として、社会学的古典の一つであるジンメルの個人レベル/社会レベルという枠組みで分析してみるというのがあるのではないかと思っています。ジンメルマルクスを知りつつマルクスに抗して個人/社会という分析レベルを立てているので、現代において再度ジンメルの試みに立ち戻り、その分析枠組みを使ってみると、案外面白い結果が導出されるかもしれない(個人的には個人/社会という二つの水準での分析は、とても重要だと思っていて、思い入れがある)と思ったりもしているのですが、それについてはまた今度、詳しく書きます。

 ・ちなみその2。私は、ポストフェミニズム論でよく使われている「福祉国家から新自由主義ネオリベラリズム)へ」という枠組みはあやしいような気がしており、経済学や福祉社会学ネオリベラリズム分析を詳しく検討して議論を展開したいと思っているところです。が、これがね、誰もが予想することだと思うけど、大変でねぇ。まだ勉強不足なので、その全体を示すことはできないのですが、とりあえず私は「福祉国家からネオリベラリズム」とは言わず、第二次世界大戦後に形成された福祉国家の「新自由主義的再編成」と言うようにしています。現代でも福祉国家という理念(とそれに基づく国家の正当性という信念)が手放されたわけではなく目指しつつも、緊縮財政とか税制改革とかやって、痛みを一部の人に押し付けたりしながらやっているという状況なので、「福祉国家新自由主義的再編成」です。

 

3.新自由主義において女性は「特権的な記号」?

 私は、この論文のなかで、一点だけうまく理解できていないところがあります。それは、新自由主義においては女性は「特権的な記号」になっているという議論です。本当に、「特権的な記号」という概念化でいいのだろうか?という疑問があります。(たぶん私の脳が「特権」という概念に反応しすぎていて、うまく理解できないだけかもしれないのですが)

「女」は新自由主義下における労働者の特権的な記号であり、そして、特権的な記号であるとは、「女」が優遇されるということと同時に、新自由主義経済の矛盾は、「女」という記号において集約され、かつ、正当化されるという意味でもある。(三浦 2013:75)

 「特権的」は、以下では「規範的・象徴的」と言い換えられて説明されています。おそらく、「規範的・象徴的」と言った方が良い。

新自由主義の世界において、規範的・象徴的労働が男の労働から女の労働になった。(三浦 2013:70)

 新自由主義的な政治経済下で、サービス産業が増えたとか、感情労働を必要とする対人関係労働が増えたというようなことを指して、「労働力の女性化」が起こったといえるということは、なんとなく雰囲気としては理解できるのですが、色々とはてなマークも浮かんでいます。

 例えば、サービス産業や、対人労働や、感情労働や、外注化されたケアワークなどをすべて一緒くたにして「労働の女性化」と言ってしまっていいのか? それに「女性」という概念を使うのが的確なのか?何らかのアナロジーとしてしか機能しないのではないか?といった点についてもう少し考えてみたいと思っているところです。

 三浦(2013)の議論が、

ジェンダー化され、女性を「特権化」しているかを指摘しつつ、その性差別をどのように突破していくかが示される必要があるだろう。」(三浦 2013:72)

 に見られるように、新自由主義下の労働が「女性化」することで、女性労働者が矛盾した状況に置かれ、これまでとは違う性差別状況に直面しているという問題をあぶりだそうという射程を持つものだということは理解しているのですが、色々とデータをそろえ、詳細に検討したうえで議論すべきことも多い論点なので、この点については、私自身、もう少しゆっくり色々考えてみたいと思っているところです。