ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします…!

フェミニストたちの言う新唯物論について

1.

 ジェンダーフェミニズム領域において社会構築主義は意義深いものでした。「男/女」という性別をジェンダー(歴史的文化的に構築されてきた性差)とセックス(生物学的性差)に分け、前者を問題にするという形で、性別の脱自然化( denaturalized )を可能したからです。

 しかし、最近、社会構築主義は「言語論的モデル」だとか、言語一元論だ(Frost 2011)とか、デカルト心身二元論だ(Tuin& Dolphijn 2010)、とか言われて批判されています。一元論だと批判する人もいれば、二元論だと批判する人もいるのですが、言われているのはだいたい同じことで、社会構築主義的アプローチは身体・肉体(body)の物質性をきちんと扱ってこなかった!軽視してきた!ということです。

 このとき念頭に置かれているのは、社会構築主義的や、ポスト構造主義的な議論であります。が、具体的に誰の何の議論が批判されているのかというと、実のところはっきりしません。ポスト構造主義の理論家として例えばバトラーがいますが、バトラーの著作を挙げて直接批判している新唯物論者はあまりいません。みんな「言語論的モデル(linguistic model)を乗り越えなければならない」とか、「超越論的な(transcendental)認識論に立つことなく、物質を重視し」などといって済ませております。社会構築主義は重要だと思っている私としては、このようなずさんな批判に対しては言いたいことが色々あるのですが、ここはともかく、社会構築主義批判者の言い分を聞きましょう。*1

 

2.

 色々なフェミニストがそれぞれに「新しい唯物論」(new materialismやneo-materialism)を言っていて、少しずつ異なっています。

 Van der Tuin, I. and R. Dolphijn (2010). ‘The Transversality of New Materialism’.
Women: A Cultural Review 21.2: 153-71. (検索するとウェブ上で読めるよ)

 によると、 一つ目に、90年代後半に デランダ(DeLanda)やブライドッティ(Braidotti)が言い始めた新唯物論がある。これは、スピノザの思想を重視したドゥルーズの思想にインスパイアされている。スピノザは、心身二元論デカルトを批判した一元論者。この思想を、社会構築主義デカルト的二元論(自然/文化)を克服するためにぶつけています。

  二つ目に、文化理論(culture theory)の中でも物質性を大事にする文化理論の人たちが言い始めた新唯物論がある。例えば、ハラウェイは「naturecultures」と呼んで「一元論」を探求し、デカルト心身二元論を乗り越えようとした。

 どちらも、身体や物質の具体性を強調する傾向があり、デカルト心身二元論ではないものを探求する点で共通しています。

  Tuin& Dolphijn (2010)が分けた二つのそれぞれに対して、私は次のような印象を持っています。

 ブライドッティの方は、環境人文学とか地理情報学、バイオテクノロジー、コンピューターサイエンスなどの学問領域を視野に入れて、人新世とかポストヒューマンとかシンギュラリティ(AIが人間の知能を越えること)とか言いながら、新唯物論を考えているという特徴がある。

 科学技術の発展に伴って考えなければならないテーマとして浮上してきた研究対象群を捉えるためには、社会構築主義ではうまく捉えられない部分も出てきており(地層学や環境人文学に基づいた人新世とか、バイオテクノロジーがどう社会的に使われて社会秩序を作っているかとか)、それらを捉えるための新しい分析視点として新唯物論を提示している(←これからさらにきちんと検討して論証します)。

  それに対して、後者のニューマテリアリズムを言うフェミニストたち(文化理論の人たち)は、けっこう素朴に身体の経験に根ざした思想を目指している人が多く、フェミニズムがずっと考えてきた女性の身体性や女性としての身体の経験に関する考察の系譜に基づいていることが多い。「妊娠という経験」についての深い考察とかはフェミニズムの十八番(おはこ)でした。こういうのを大事にしている人たちは、社会構築主義全盛期に疎外感を抱えていて、「やっぱり身体の具体性も大事じゃない?」と言うために、「ニューマテリアリズム」と言い出したというかんじがしています。(今後、さらに勉強して、この印象を検証していく予定です。この点に関して何か知っている方がいたら教えてください。)*2

 今日は、後者の文化理論の「ニューマテリアリズム」の方の紹介です。

 

【紹介する論文】Frost, Samantha, 2011, "The Implications of the New Materialisms for Feminist Epistemology",  In H. E. Grasswick (Ed.), Feminist Epistemology and Philosophy of Science, Springer:69-83.
 

 

 これは、一般的で無難なニューマテリアリズムの論文だと思います。ちなみに、一般的で無難なというのは、私においては実はあまり誉め言葉ではありません。「とくに面白いところはないがよく見られる、パターン化されたロジックが書かれていて、安定感のある論文」くらいの意味です。 引用されている回数が多く、ニューマテリアリズムの基礎文献の一つと言えるのではないかと思います。

 

 大事なところだけ抜き出すと、

New materialists aim to shift feminist critical analysis from a framework within which the agency of bodies and material objects is understood largely as an effect of power – a unidirectional account of agency – to a framework within which, for example, culture and biology have reciprocal agentive effects upon one another. In calling for feminists to acknowledge that matter and biology are active in their own right, new materialists push feminists to relinquish the unidirectional model of causation in which either culture or biology is determinative and instead to adopt a model in which causation is conceived as complex, recursive, and multi-linear. To shift our understanding or model of causation in this way represents a huge challenge: feminists will have to retool their theories of explanation and political critique so that they encompass both an awareness of the ways in which power is discursively naturalized and an appreciation of the distinctive and effective agency of organisms, ecosystems, and matter. This in turn will demand that feminists rethink how to apportion responsibility for injustice and assess the possibilities for and paths toward social and political transformation. (Frost 2011:71)
 
 ざっくり意訳すると、「ニューマテリアリズムというのは、次のようにフェミニズムの分析フレームワークを変えることを目指すものだ。すなわち、身体の主体と物質的客体は権力の効果であるとするフレームワーク(これは主体の一方向的な説明)から、文化と生物学が相互に活発な影響を与えるというフレームワークへ。文化かもしくは生物学かのどちらかが決定要因になっていると考えるのではなく、多元的に考えることを目指すのだ。これによって、有機体の主体性や、エコシステムや、物質を有効に説明することができるようになる。」(Frost 2011:71、意訳)
 
 New materialists aim to counter the figuration of matter as an agent only by virtue of its receptivity to human agency. They try to specify and trace the distinctive agency of matter and biology, elucidate the reciprocal imbrication of flesh, culture, and cognition, investigate the porosity of the body in relation to the environment in which it exists, and map the conditions and technologies that shape, constrain, and enhance the possibilities for knowledge and action.(Frost 2011:74)
 
 
In their effort to denaturalize nature and deculturalize culture, new materialists push feminists to decenter human intentionality and design in the conceptualization of the relationship between nature and culture. In tracing the dynamic interactive processes that constitute objects and organisms as at once ‘100% nature and 100% nurture’ (Fausto-Sterling 2005, 1510), they insist that we attend to both the agency of the human or cultural upon the biological or natural and the agency of the natural or biological upon the human or cultural. (Frost 2011:77)
 
  もちろんこれは、本質主義への回帰を意味するのではないと繰り返しかかれている。例えば、

In working against biological essentialism, feminists quite understandably have tended to deny matter or biology any agency at all in shaping social or political relations.(Frost 2011:71)

 で、このマテリアリズムはデカルト的な心身二元論で想定されていたような「物質」とは異なる。マルクスが、人間によって働きかけられる「物質」とも異なるよ、と言われているが、どう異なるのか、この論文だけではうまくつかめなかった。

  この立場は、ダナ・ハラウェイが指摘するようなパースペクティブの部分性(partiality)を大事にするものになる、とのことです。

partiality of perspective that is so central to the various iterations of standpoint theory – although, as Donna Haraway has pointed out, the recognition of such partiality is both a useful prompt to political humility in the face of diversity and a goad to coalition building (Frost 2011:79).

 

 

 3.新唯物論フェミニズムは何を分析しようとしているのか

 かつての唯物論フェミニズムは、家父長制の経済的基盤を分析しました。新唯物論フェミニズムは、何を分析しようとしているんだろうか? この方法論(ニューとかネオとかが付いたマテリアリズム)をとることで、結局のところ何が分析されているんだろうか? ということが気になっているのですけれども、いまのところ、まだ明らかではありません。グローバル世界のジェンダー秩序を構成している何かなのではないかと期待しているのですが。もう少し色々読んで、わかったら、お知らせします。

 

*1:注)お、 以下で述べるTuin& Dolphijn (2010:3)は、批判対象としてバトラーの名前を挙げていますが、

the failed materialism in the work of Judith Butler, and of the Saussurian/ Lacanian
linguistic heritage in media and cultural studies

「ジュディスバトラーの著作の中の失敗しているマテリアリズム」となっています。バトラーの理論の全部がダメって言ってるわけじゃないんですよ、と、きちんと予防線を張っています。ちなみに失敗しているマテリアリズムの著作ってBodies That Matter, 1993, のことですかね...

*2:こういう言い方をしてしまいましたが、現在でもなお分析すべき身体の経験があることは確かです。例えば、私はミスコン調査の調査計画を今申請中なのですが、なぜそれをやろうと思っているのかというと、外見という女性の身体的経験をもっと具体的にその物質的なレベルで見るべきだと思っているからだったりします。