一つずつ文献を紹介しまとめていこうかと思っていましたが、人が書いたものを翻訳してまとめていく作業がめんどくなってきたので、私が色々読んできてここまででわかったことを、まとめてしまおうと思います。
マテリアルフェミニズムとはnew-material feminismやneo-material feminismと呼ばれているもののことで、ポストモダン以後のマテリアルフェミニズムのことです。
マルクス主義的唯物論は、マテリアルなものとして経済的なもののことを指しますが、新しいマテリアルフェミニズムにおいてマテリアルなものとして主要な考察対象になっているのは身体です。
マテリアルフェミニズムの来歴や特徴は大きく次の4つに整理できます。
1)ドゥルージアン唯物論
マテリアルフェミニズムは、認識論及び存在論には、ドゥルージアン唯物論を基盤としています。ドゥルーズのスピノザ、ベルクソンの再評価に基づき、その可能性をさまざまに展開しているのがマテリアルフェミニズムです。
エリザベス・グロスの「フェミニズム・唯物論・自由」(現代思想2015年6月号で読めます)や、ロージ・ブライドッティなどのドゥルージアン・フェミニストが頑張っています。
2)フェミニスト科学史・科学論・科学哲学(フェミニスト・サイエンス・スタディーズ)
マテリアルフェミニズムは、ポストフェミニズム以後のフェミニスト科学史・科学論・科学哲学を基盤にしています。
フェミニスト科学論・科学哲学は、女性科学者の増加を背景としつつ、1960年代末からのフェミニズムの潮流の高まりの中で、科学界の男性中心的な偏りを批判し、異なる知見を生み出しを行ってきました。
例えば、霊長類学はフェミニスト的な問題関心によってパラダイムチェンジが起きた領域だったと言えます。19世紀中盤に進化論が「科学」になって以降、20世紀に入ると霊長類学や大型類人猿学は、ヒトの生殖及び社会集団の在り方の社会的理解に大きな影響をもたらしてき増田。その霊長類研究は、20世紀の様々な歴史的経緯の中で、「優位性」中心的な研究(ドミナンス、攻撃、競争、優位ー劣位のヒエラルキー、支配、攻撃と防御、子殺し、レイプ)を構築してきました。社会集団的かつ生殖的に優位な優位オスを中心としたパラダイムでの仮説立案、調査研究、評価システム、科学的常識の構築のサイクルが成り立っていたわけです(ダナ・ハラウェイの『猿と女とサイボーグ』の前半部(第5章まで)がよくまとまっています)。
それに対して、女性霊長類研究者らやフェミニズム的な問題関心を持った研究者らによって、フィールド研究をするようになったという研究方法の変化なども同時的に起こりながら、霊長類における協調性(社交性)や母子関係の研究が発展しました(霊長類研究者サラ・ブラファー・ハーディーの『マザー・ネイチャー』が面白かったです)。
このように、フェミニスト科学史・科学論は科学における男性中心主義的な「偏り」を明らかにする仕事をしてきました。自然科学的な訓練を積んだ人の歴史研究も多いのが特徴です。日本でも読めてよく言及されているものとして、例えばロンダ・シービンガーの仕事があります。
・『女性を弄ぶ博物学 リンネはなぜ乳房にこだわったのか?』小川眞里子・財部香枝訳(工作舎、1996)Nature's Body: Gender in the Making of Modern Science (1993). Beacon Press.
• 『ジェンダーは科学を変える!? 医学・霊長類学から物理学・数学まで』小川眞里子・東川佐枝美・外山浩明訳(工作舎、2002)Has Feminism Changed Science? (1999). Harvard University Press.
シービンガーはもう70歳すぎていると思いますが、最近もジェンダード・イノベーション関連で勢力的に活動されていて、すごいですよね。ジェンダーイノベーションやフェムテックにちゃんとコミットするあたりが、プラクティカルです。
フェミニスト科学論の中のスタンドポイント・セオリーについて
フェミニスト科学論は、科学の「偏り」を指摘し、新たな科学的知見を明らかにしていく役に立ったのですごく良いのですが、その認識論的正当性や学問的基盤などを真剣に考えていくと、色々と疑問が生じてくるのも事実です。
70年代から80年代のフェミニスト科学論やフェミニスト・スタンドポイント・セオリーが主張したのは、女性の視点が科学にとって有意義だということですが(そして実際有意義だった領域や場面も数多くあったわけですが)、なぜ女性の視点だけが科学にとって有意義と言えるのか? その時の「女性」とは誰のことを指しているのか? これは、女性を本質主義的に想定することで、社会に悪影響をもたらすものなのでは? といったことが問題になってきます。
そのあたりの問題を考えるのを担ってきたのが90年代以降のフェミニスト・スタンドポイント・セオリーです。
そもそもフェミニスト・スタンドポイントセオリーは、1970年代から1980年代にかけて登場してきました。マルクス主義的マテリアリズムの強い影響の中で、社会的立ち位置(スタンドポイント)の違いによる認識の違いを基盤にフェミニズム的批判の可能性を見出していくというものです。
(*社会学でも、マルクス主義唯物論の強い影響のもと、知識社会学という形で、個人が置かれた階級などの社会的位置が主題化されていきました。マンハイムの存在論的被拘束性の議論など。これと同様のものが、フェミニスト科学論界隈では、それはスタンドポイントセオリーと呼ばれて広がったということですね。)
のちにフェミニスト・スタンドポイントセオリーの中核的人物の一人となるナンシー・ハートソックはこの時期、1983年にHartsock, Nancy (1983). Money, sex, and power: toward a feminist historical materialism. New York: Longman. という本を書いています。
もう一人の、この時期から活躍しているスタンドポイント・セオリーの担い手であるサンドラ・ハーディングは、1986年にThe Science Question in Feminism, (Cornell University Press, 1986)を書いている。現在、サンドラ・ハーディングの本で日本語で読めるのは、
- Science and Social Inequality: Feminist and Postcolonial Issues, (University of Illinois Press, 2006).森永康子訳『科学と社会的不平等――フェミニズム、ポストコロニアリズムからの科学批判』(北大路書房, 2009年)です。
『フェミニストスタンドポイントリーダー(未翻訳、これめっちゃ良いよ、The Feminist Standpoint Theory Reader: Intellectual and Political Controversies )』の編集を務めているのも、ハーディングです。(この本のアマゾンリンクhttps://amzn.to/4g1KHTa )
そこから、90年代のスタンドポイントセオリーになると、女性だけでなく、多様な人種、セクシュアリティ、ジェンダー、階級、文化、エスニシティ、経済的地位などのスタンドポイントの違いによる科学的・認識論的優位性や有意義性を、インターセクショナルに検討するという方向性へと発展していきます。この時期の代表的論者は、引き続き前述のナンシー・ハートソック、サンドラ・ハーディングに加え、ダナ・ハラウェイ(80年代からコミットしていましたが)、そしてパトリシア・ヒル・コリンズあたりも加わります。
コリンズの『インターセクショナルな批判的社会理論』は、スタンドポイントセオリーを、一つの理論的基礎にしています。
さて、先ほどいった、フェミニスト経験主義に突きつけられていた理論的問題を考えたのは、このようなスタンドポイントセオリーにおいてであり、中でも分析哲学系科学論の人たちが頑張ってくれました。私はこの分析哲学系にあまり詳しくないので、さっきの問題を、どう解いたのかという結論だけをざっくり言うと、
・スタンドポイントセオリーは、生物学的な女性身体を持つ人や女性ジェンダーを持つ人が、自動的に持つことのできる視点(ポイントオブビュー)が自動的に科学的に優位性を持つということを主張しているのではなく、社会的位置についての反省と批判的意識に基づいて獲得された「女性」というポジションからの視点(ポイントオブビュー)が、ある個別的な場合において、科学的に有益な視点をもたらすことがあるということを主張しているのだ、ということらしいです。つまり、女性などのマイノリティの視点が必ず科学的に優位性を持つとか有意義だとは言えないが、マイノリティの視点が科学的優位性を持つことがあり、なぜそうなるのかは理論的に説明可能だとことです。
このあたりは、二瓶, 真理子, 2021, 「科学における価値と客観性に対するフェミニスト科学哲学のアプローチ : フェミニスト経験主義とフェミニストスタンドポイントの展開」https://matsuyama-u-r.repo.nii.ac.jp/records/2918
や、小野寺研太, 2023, 「フェミニスト社会科学の科学性と政治性― フェミニスト認識論の統合的理解に即して」https://www2.igs.ocha.ac.jp/gender/gender-26-2/ などなど(他にも良い論文がたくさんあります)から学びました。ご関心があれば、皆様もぜひ。
それから、集団としての女性や人種、階級を、ポストモダン以降の世界においてどう定義し理論化しているのかということは、インターセクショナルな分析の方法論的な足場固めの時にも重要になってくる話なので、今度しっかりまとめたいと思います。さすが分析哲学系で、きちんとした議論が蓄積されています。
今、書いていてわかってきましたが、集合的アイデンティティを(本質主義を回避しつつ)どう定義するのかという理論的な問題はスタンドポイントセオリーが担っており、インターセクショナリティを強調する人たちは、この理論に乗っかった上で、いかに意義のある重要な批判的な経験的分析をするかに重きを置いているという状況ですね。どちらが良いとか悪いとか上とか下とかではなく、そういう分業的な感じになっているなと。だから、インターセクショナリティを言う人たちの議論だけを見ていっても、なかなか「ポストモダン後の理論的問題にどう答えているのか」が見えてこないんだなーとわかった。スタンドポイントセオリーをやっぱちゃんと勉強しなきゃだ。
そして、ここまでのことを踏まえて、フェミニスト科学論として最後に強調して注目しておきたいのは、ダナ・ハラウェイ。
ダナ・ハラウェイは、スタンドポイントとは「状況におかれた知situated knowledge」に基づいた科学を目指すものであり、この状況に置かれた知を部分的だとか不十分だとか偏っているとか言う人は、そもそもありもしない普遍的で客観的な「知」などというものを想定してしまっているのだと批判しました。私たちの知はすべて、私たちの身体や観測機器や状況などに埋め込まれた知であり、それだけがアカウンタブルな(説明責任を果たすことのできる)客観的な知であるというのがハラウェイの議論。ラディカルで、ステキです。ちゃんとやったら、既存の二元論的認識論をひっくり返せる一元論認識論=存在論が構築できそうな可能性がビンビンしています。ブライドッティがハラウェイを超重視しているのも、この可能性を考えているからだと思います。
さて、こんな感じのフェミニスト科学論・科学哲学の中でも、特にフェミニスト経験主義とスタンドポイントセオリーを背景として登場してきているのが新しいマテリアルフェミニズムです。
フェミニスト科学論の中でも最近はFeminist science and technology studies (feminist STS)が新しい知見を生み出せるホットスポットになっており、そこでの仕事がマテリアル・フェミニズムとして注目されているというところもあります。
鈴木和歌奈, 2020, 「実験室から「相互の係わりあい」の民族誌へ ―― ポスト‐アクターネットワーク理論の展開と ダナ・ハラウェイに注目して ――」https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsts/29/0/29_3/_pdf
のように! この論文はすばらしいです。こういった方向性の実際のフィールドワークに基づいた経験的なフェミニストSTSって、人類学などでやられていそうな気がするし、社会学でも若手研究者の方々はぜひここらへんに参入したら、将来路頭に迷わずに食っていけるのでは、と個人的には思っているのですが、ここらへんをガンガンやっている人たちのネットワークを私はまだ見つけられていません。
3)イリガライのマテリアリズムを受け継いだデリダ派フェミニストも頑張っています。
カトリーヌ・マラブー『抹消された快楽:クリトリスと思考』
抹消された快楽: クリトリスと思考 (叢書・ウニベルシタス) | カトリーヌ・マラブー, 西山 雄二, 横田 祐美子 |本 | 通販 | Amazon
が日本語で読めます。
イリガライのマテリアリズムについては、トランスジェンダースタディーズのサラモンもきっちり批判しており、その批判は妥当です。今、イリガライを読むと、反発が先に立ってしまって冷静には読めない部分も多々あります。ただまあなんとか頑張って冷静に、イリガライがなぜ性器の形状からの哲学を展開しなければならなかったのかという歴史的背景や文脈を振り返りつつ、クリトリスの哲学をきちんと考えるのは重要だよねという方向をとっているのが、マラブーの上記。
4)情動論的転回との関連
情動論的転回(アフェクティブターン)とは、記号や言語、知性、大脳皮質ではなく、情動や感情、腹側被蓋野(VTA)や側坐核、扁桃体などの報酬系に関わる脳機能に着目するようになった潮流のこと。脳神経科学の技術的・方法論的発展とともに情動研究が進み、それは神経倫理学や神経政治学などの形で、その影響を人文社会科学にも広げた。
同性婚合法化後のポストクイアセオリーにおいて、情動に着目した研究が進んでいる(セジウィック、クベコヴィッチ、リサ・ブラックマン)。ボディスタディーズは、情動研究とマテリアルフェミニズムが交差する領域になっている。
以上、このような「新しいマテリアルフェミニズム」についての解説を、今度刊行される『ワードマップ フェミニズム(改訂版)』のために2000字でまとめるという仕事の仕上げを今しているのですが、2000字でなんてムリと思っているところです。