Alaimo, Stacy & Heckman, Susan, ed., 2008, Material Feminism, Indiana University Press.
「イントロダクション:フェミニストセオリーにおけるマテリアリティのモデルの登場」(ステイシー・アライモ&スーザン・へクマン)の後半部分の概要
マテリアルフェミニズムは、存在論的転換であるだけでなく、倫理的で政治的な新たな展望も切り拓くものである。倫理は、言説だけをセンターに置くべきではなく、マテリアルな連関もまたセンターに置くべきである。マテリアルフェミニズムは、文化相対主義の行き詰まりimpasseを置き換えるようなアプローチを提供する。
マテリアルフェミニズムは政治的な次元も刷新する。カレン・バラッド(1998)が、妊婦に対して行われる胎児の超音波検査を分析したのは、マテリアルフェミニズムの良い例である。それは政治的な文脈における生命と権利を再定義するものである。そして、科学とテクノロジーと政治と人間の境界がきちんと分けるなんてことはできないということを明らかにした。それらは物質的、政治的、倫理的な次元において、メチャクチャに混ぜ合わされている"mangled" together(アンドリュー・ピケリングの言葉で言うと)のだ。
マテリアルフェミニズムは、環境政治も変化させる。環境政治は、科学によって明らかにされたノンヒューマンクリーチャーズ、エコシステム、そして他の自然的力に関する新たな知識を必要としている。マテリアルフェミニストは、自然を、政治及び科学の領域における際立ったアクターとして捉えることを要求しなければならない。Catriona Sandilandsは、The Good-Natured Feminist: Ecofeminism and the Quest for Democracy(1999)の中で、ラディカルデモクラシーは、自然のためのスペースを作るべきであり、その自然というのは「ポジティブな人間によって構築された現前」としてではなく、「謎めいたアクティブな他者」であると論じている。サンディランドは、ノンヒューマン・ネイチャーが非言説的な仕方で参加する現在進行中の民主主義的な対話のために、政治的な風景を作り直そうとしている。
環境が手つかずの野生のことではなく、日常生活の中にあるものだという視点をとれば、経済的政治的に恵まれない人々が、有害物質に毒された道を日常的に使っているという環境正義の問題も見えてくる。水銀やダイオキシンの問題はそれを作っている人や周辺に住んでいる人だけでなく動物にも害を与えている。すでに社会的に形成された社会的グループから始めるのではなく、マテリアルな物質(サブスタンス)から始めることは、予期していなかった政治的連帯や連盟を作り出すだろう。
このようにマテリアルフェミニスツの登場は、あらゆるフェミニスト思想にとって重要だろう。あらゆるフェミニスト思想というのは、science studies, environmental feminisms, corporeal feminisms, queer theory, disability studies, theories of race and ethnicity, environmental justice, (post-) Marxist feminism, globalization studies, and cultural studiesなどである。*2008年の英語圏で「フェミニストソート」と言った時には、こういうものを思い浮かべるのかーと興味深く読んだので、引用しておきました。最近、私は『ワードマップフェミニズム』の編集をさせてもらったのですが、まぁまぁカバーできてる、けど、できてないところもあるなぁと思いました。ま、そこは色々あって、しょうがない。
この論集はこれらのセオリーをアーティキュレートするだけでなく、統合してフェミニスト思想の新たなパラダイムを生み出す第一歩である。
第1部の「マテリアルセオリー」では、マテリアルフェミニズムスが直面している問題の大まかなパラメーターのアウトラインを示す。エリザベス・グロスは、フェミニストセオリーにおいてタブーとされてきたダーウィンの進化論を読み直すことで、フェミニストが生物学にアプローチする方法とすることができるということを論じている。
クレア・コールブルックは、「新しい生気論」について論じている。
スーザン・へクマンは、現代フェミニスト思想における認識論から存在論への運動について論じている。へクマンは主体の社会的存在論を提起した。
ちなみに、この論集の多くの著者がカレン・バラッドの議論を参照している。バラッドの本書所収の論考のゴールは「どのようにして物質は物質になるのか」を解明することであり、彼女が「ポストヒューマン・パフォーマティビティ」と呼ぶところのものを定義することである。
第2部の「マテリアルワールド」では科学の主要なサブジェクトについて論じる。ダナ・ハラウェイの議論は、マテリアルフェミニズムの発展においてエッセンシャルなものとなり続けてきた。ここでの論考では、多様なノンヒューマンが客体としてではなく主体となって参加する「otherworldly conversation」という実践が、差異をリスペクトし相互変容transformationをもたらすという倫理的な関係のモデルをもたらすということが論じられている。
Nancy Tuanaは、粘的多孔性viscous porosityというキーワードで、マテリアルフェミニズムを立ち上げ、2006年アメリカのニューオーリンズを襲ったハリケーン災害を、地形的、行政的、人種政治的、貧困と障害のある人の福祉政策的なものの粘的多孔的な関係として分析している。
Vicki Kirbyの議論は、現代文化批判理論の立場から「自然」を問い直すものである。
ステイシー・アライモは、人間の身体を特定の環境的文脈において、人間のプロセスや出来事は、特定のバイオフィジカルな関係と切り離すことができないということを論じた。アライモは、人間は、人間以上のもの(more-than-human)の世界に開かれてあり、人間はその環境から不可分であるということを意味する「トランス・コーポリアリティ」を提唱した。トランス・コーポリアリティの時空間は、プレジャーとデンジャーの場である。とくに、トキシックボディーズ(毒された身体)に焦点を当てて議論した。これによって、身体を安定したものとしてロマンティックに捉える見方かもしくは反本質主義的な逃避かというフェミニストセオリーの誤ったジレンマを避けることができるというのがアライモの主張である。
Catriona Mortimer-Sandilandsは、身体、精神と風景の関係についての、近年の環境現象学の議論を分析している。
第3部の「マテリアル・ボディズ」では、人間の身体のマテリアリティをフェミニストセオリーはどう考えるのかについて論じる。
以上、ぜひお楽しみいただきたい。