(続き)
4.『コンビニ人間』の構造:ディストピア小説としての『コンビニ人間』
大きな社会と戦う正義のヒーローとしての古倉さんという読み方は以上のように可能であるのだが、しかし、『コンビニ人間』という作品を論じるときに、このような「社会問題的関心」から読んで評論するということですませるわけにはいかないだろう。
というのも、我々の正義のヒーローであった古倉さんが突き進む道は、ディストピアにつながっている可能性が高いからである。古倉さんは、最終的に、白羽との「人間的な」付き合いを絶って、コンビニという教会に戻ることを決意する。私(高橋)はてっきり、古倉さんは労働を通して「人間性」を獲得し、その後、白羽という人間となんとか一緒にやっていく(パーソナル領域の構築)という結論になるだろうと思っていた。それが「現代の日常を舞台にする」小説の一般的な終幕の引き方である。
それに対して、古倉さんは、複雑で雑多で曖昧な感情のやりとりを必要とする人格的コミュニケーションを捨て、コンビニ人間としての合理性原理を貫き、コンビニに戻っていく。ここで、私は、この作品はディストピア小説なのだと気づく。これまでの足場(私=古倉さん-対-社会)の構図は崩れ、空恐ろしい気持ちに襲われる。
古倉さんの決断は、人格的コミュニケーション(人間関係)原理を薄め、経済合理性の原理に基づいて自らの生を形作り、維持していこうとするものである。しかし、個人の自由の基盤となっている人格的な部分を消去していくような社会を目指していくべき方向性(理想)だとは私には思えない。
古倉さんのような人格的コミュニケーションや私的関係を薄めていくようなライフスタイルは、彼女の個人的なものの領域に属するものとして(ライフスタイルとして)尊重されるべきである。そこに他人が口出しすることは控えられるべきであり、ましてやそれによって他者からの攻撃を受けるべきではない。
だが、社会全体の人々が、経済合理性を深く人格に浸透させ、それによって人格的コミュニケーションや私的領域を限りなく薄めていくのはディストピアである。
5.さいごに
今後考えたいことについて
・村田沙耶香作品は、女性主人公が最後に一人で生きていくことを選択する結末をもつものがいくつかある。女性の性欲についての深い探求がなされている『星が吸う水』([2009]2010)や『ハコブネ』([2010]2011)に登場する、志保→千佳子は最終的に付き合わないことを選んでいる。また、生殖技術が発展した近未来的SF設定の中で、男女のあり方を描いた『殺人出産』([2014]2014)や『消滅世界』(2015)の主人公も、パートナーとの生活をやめ一人個室で生きていくことを選ぶ。
・ロマンス女性作家とは別の系譜として描ける女性作家の系譜、「なぜ付きあい、結婚する必要があるのか」という問いをめぐる作品系譜のなかに村田沙耶香をおいてみたときに見えてくる彼女の特徴(新しさ)について。
・『消滅世界』や『殺人出産』は、フェミニズムSFの系譜の中に位置づけて考えてみるべき作品。
(終わり)