ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

批評界隈の「圧をかける」というあり方について:マッチョさとどう折り合いをつけるか

1.
新情報を提供するタイプの文章ではなく、ある程度知られていることに関して「論じる」ようなタイプの文章を世に出すときって、「書き手である私はこのことについてはよく知ってますから、これだけ見てますから、ここまで考えて書いてますから」というのを文章の端々にちらちら出しつつ「圧」をかけるというテクニックが必要です。
これは、書き手である「私」への信頼感を読者に持ってもらうため、もしくは「この文章は読む価値がある」と思ってもらうために、ある程度はやる必要があります。ですが、これやりすぎると批評界隈のいかにもマッチョな感じの文章になり、それに対して「ここぞ」というところでのみ小出しにこれをすると、上品な学者が書いた感じの文章になります(さらにいえば学者の「上品さ」にも種類があって、上品さを装った闘争意識がひしひしと感じられるものとか、ケンカの売り方が美しいものとか、色々あるにはあるのだが)。
・ちなみに社会学は学者の中でもそんなに上品な部類ではないということは、あとで述べる。
 
しかし、私は「そもそも、そういう圧とかかけるのヤダー」というスタンスで、今回のセカイ系論を書いています。というのも、ある作品の良さを論じるときに、「圧をかけていかないと潰されるから、こちらから圧をかけていかないと」という意識を持ちつつ議論をするのって、本当に楽しいの?って思っているから。
つまり、一言で言えば、批評界隈って必要のないところまで過度にマッチョな空間になっているよね、っていう話。
 
2.
批評界隈というのは、もともとマッチョな空間ですが、近年はさらにある種のマッチョさが強まっているのではないかという感じがしています。
 
たしかに、かつての文芸批評時代のように、文学的テクストを社会的倫理的観点から外在的に批判したり読解したりするような批評文が、圧かけまくりの文章になるのはしょうがないし、そこに「批評」の「社会的価値」が見出されてきたことはわかります。日本は未熟だ、近代市民社会が成熟していない、もっとお前らしっかりしろ的な議論が、社会において必要とされてきた。社会意識をあげていくために、そして日々と人々の自己啓発的な刺激のためにも(ジェンダーセクシュアリティ研究者に対する社会的な要求というのもこういう要素があるようにも思います)。*1
 
だが、その時代においてだって、一流とされてきた文芸評論家(例えば、私が敬愛するのは小林秀雄柄谷行人吉本隆明のライン)の文章をよめば、他の論者や一般人に対して圧をかけてマウンティングをするという営為とは一線を画して、ひたすらに自分の思想を発展させるという営為が(まぁ、連載型の長文とかの論考には、なんだけど)見られるわけよ。
・なぜ連載エッセイとかの長文ではそれができるのかというと、ある程度、その人の一貫性を読者の側で想定してくれることが分かっているので、毎回の文章で、各種方面に圧をかけることを、ぬかりなくやらなくてもいいから。「この人は、かつてこういう論考も描いていたから、ここについては分かっていながらここではあえて無視して書いているな」とかそういうことを、読者の側で理解して読んでね、ということを要求できる。それに対して、単発エッセイとかだと、どこまでアンテナ張ってるかみたいなことをちゃんと書き、それらの中で、自分の説が一番優れているということを説得することにエネルギーを割くことが、「完成度」を高めることを意味するものになる(こう考えるとそれはそれで合理的な意味あることだと思う)。
 
商業出版誌上で形成されてきた、売れるか売れないかという市場原理のなかで作られてきた批評というのは基本こういう構造のもとに成り立っており、それは現在でも大枠としては変わらない。さらに、2010年代中盤くらいからは、ツイッターでのオタク=ファンコミュニティ内でのマウンティング取り合いが、批評文化へとよりシームレスにつながってきたことで、「圧をかけなければ、こっちがやられる」感が、批評界隈でさらに強まっている感じがします。
2ちゃん文化とシームレスにつながってきたジャンルの人たちは、2000年代からすでに、罵倒が飛び交うハードな圧かけ芸のなかでやってきているのだけれど(北田さん、鈴木さんあたり)、その範囲が広範になってきたなーというかんじですかね。まさか百合文学のあたりまでこの圏域に巻き込まれるとは。男性ファン多めのSF界が百合に手を伸ばしてきたのでそうなっているのだけれど。
 
ユリイカ』をはじめとする紙媒体の批評文を読んでいても、委縮した文章が並んでいることがあって、ツイッター界隈でのちいさなマウンティングのとりあいや個人中傷によって、この書き手さん疲弊している感じがするなーと思ったりしていました。(例えば『ユリイカ 女オタクの現在』(2020年9月)とか)
 
文化作品の批評をする人には、自分の思想をまっすぐに実直に構築するところにエネルギーを割いてもらって、その人が思想的に行けるところまで行ってほしい。その人しかたどり着けない思想的境地や読解を見せてもらえるのが、批評の価値だし、醍醐味だと私は思う。
・この観点から言えば、数秒間で反射的に出てくるような規模の小さい他者の批判を気にかける必要はあまりないと思う。
・というか、そういう批判ってある程度のある範囲のところに収束するので、必要があれば、必要な時にはそれを乗り越える解釈をポンっとこっちが提示すればいいわけよ(これを、マウンティングという笑)。だから、いちいち反応する必要はない。
・理想としては、どういう批判があるのか(ありうるのか)を把握した上で、真剣に考えるべき批判と気にしなくていい批判(言及するに値しないもの)とを自分の中で分けてコントロールして、いい文章を書くことだが、心理的時間的コストがかかるわけでそこはもう報酬その他の状況とのバランス問題になってきますよね……
 
そういうわけで、私は、他者にケンカを売らずマウントもとらずに、なるべく他者の解釈のいいところを掬い取った(=圧を弱くした)、あったかくてやわらかい文章でありながら、自分の立てた問いに対してきっちり答えを出していて、その答えが作品分析を通して論証されているという意味で完成度の高い文章というのが、もっと批評界隈にあってもいいと思っていました。で、今回はそれを目指しています。
 
が、今、色々な人(オタ文化を知っている人も知らない人も含めて)に草稿を読んでもらってコメントをもらっているのだが、オタ文化を知っている側の人は、私の今回の文章においては、上記の意味での「圧」が弱いところを心配してくれているかんじのように思われます。もしかしたら、すごくナイーブな議論をしているように見えているのかもしれません。
というわけで、少し「圧」をかける形で、手を入れようかな、と思っている。 
 
うーん、ただこのバランスは難しいところよね。圧をかけすぎたらかけすぎたで、たぶん自分が一番いやになっちゃうんだろうなぁ。
 
3.
結局何が言いたいかというと、
自分が本当に良いと思ったことや自分が信じたことを書きたいと思って、文章を書き始めたはずなのに、他者の議論に勝つことが目的になっていって、それはある程度自分の文章や思想を洗練させることにもなるのだが、それにのっとられると、ある地点まで行ったときに、「こんなことをしたくて、ものを考え、文章をかいてきたんだっけ」という虚無感に襲われる、ということ。
 
新しい情報をどんどん出していくタイプの批評文や記事や社会学だとこの問題に直面しないが、思想として整理をかけていくようなタイプの批評文や社会学だと、この問題に直面しがち。その時には「他者に勝とう」という意識や「他者からの批判を怖がる」思考を、途中でストップさせ、内在的な完成度をあげる方にエネルギーを振り分ける必要がある。ただたんに思考をストップさせるのではなく、「論文内在的な完成度をあげる」のが重要ね!
これは、ぜんぜん論文を世に出せなかった10年間(2008年~2018年)を経て、私がここ数年間で体得した、論文を書き上げる時のコツであったりもします。
 
 
(ということを考えながら、いま猛烈に博論を頑張っているところ。圧強めの「はじめに」を書いている。)

*1:遠藤知巳は『思想地図』の論文で、私が上記で「かつての文芸批評」と読んだところのものを指して、文芸批評というのは作品をだしにした日本社会論をやってきた。それは文芸作品の内在的分析ではないから文学から見て中途半端だし、社会を経験的に分析しているわけではないからアカデミックな社会学から見ても中途半端だ、という旨のことを述べている。的確なまとめだ。当時、私はそれを読んで、「だから文芸批評は価値がないっていう意味なのかな」ってなんとなく思ったけど、今は「それでも文芸批評は価値がある、そういう形での社会論は必要だ」って思っている。