ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

男性オタクコンテンツにおける距離のパトス:性的比喩で描かれる人類補完計画の考察から

人類補完計画とは何だったのかを考えていたら、男性オタク向けコンテンツにおける「純愛と性欲の間の距離のパトス構造」とでも呼ぶべきものがあるのではないかということに思い至りましたが、とりあえず、ずーっと人類補完計画の話で、距離のパトスについては一番最後にまとめています。

(なんか、こういう無粋な前置きはあれですが、無駄な労力をおかけすると悪いので最初に言っておくと、以下の文章は、フェミニストが男性オタクコンテンツを「距離のパトス」なる語で批判しようとしているわけではありません。だから、以下を読んでも、私がオタ文化の何を「批判」したのかは、明らかになりません。なぜなら、「批判」するための文章ではないからです。人類補完計画って露骨に性的な比喩で描かれていてこの「誘惑的な悪」の表象って面白いよねっていう話を書いてます。)

 

全体主義的な悪としての人類補完計画
人類補完計画とは、『新世紀エヴァンゲリオン』のセカイの謎の中心であり、人間の心の不完全性を補い合うために、人間の個をリセットし人類全体が融合して一つの生命体へと進化することを目指す計画である。

エヴァンゲリオンのセカイにおいて、何が悪で何が善かは、わりとはっきりしている。人類補完計画を目指すオトナたちは「悪」で、それとは異なる道を模索する人たちが「善」の側だ。人類補完計画を目指すオトナたちは「悪」だということは、例えば、次のような点から明らかである。

・ゲンドウは自分の内面をさらけ出すことなくニヒルな歪んだ笑いを時折見せ、目的のためには手段を選ばない危ない人物として造形されている。

・また、暗闇の中からぼうっと浮かび上がるゼーレのホログラムやモノリスの描き方は、従来のアニメでの「悪」の様式が踏まえられているし、ゼーレの会議での権威主義的な話し方や、互いに責任を押し付けあって自らの保身を図ろうとする浅ましいありさま(オトナになってみてわかったんだけど、こういう喋り方はどこでも見られる一般的なものではある)は、「仲間との友情」を大事にする子ども目線では嫌な奴ら(=悪)と見える。

そもそも、個々人の自由を奪って、個人を全体に統合するというアイディアは、全体主義的・ファシズム的なメンタリティを想起させるものであり、実際、エヴァではゼーレのトップであるキール・ロレンツの元の設定上の名前はコンラート・ローレンツ(あのナチスにも協力した動物行動学者)で、云々…(例えば、山川さんの『エ/ヱヴァ考』とかを参照せよ)というように、全体主義的なものとの関連性が示唆されている。民主主義、自由主義を是とする現代ではどうしたって、全体主義的な人類補完計画は、悪の役回りを演じさせられることになる。

だが、人類補完計画は、誘惑的なである。それは個を捨てんとする「弱い」存在が願うような「悪」でありながらも、脱自(エクスタシー)の快楽を伴う誘惑的なものとしてある。さらに、人類の「融合」というあり方は、露骨に性的「融合」と重ね合わせて表象されてもいる。ミサト、アスカ、レイの3人の女性キャラクターが裸で「心も体も解き放って一つになろう」と性的に誘惑をするというシーンがあり(テレビ版第20話)、旧劇場版(第26話)人類補完計画が発動したときに、再度、その性的誘惑が繰り返される。

身体的・精神的な人間の個の区別をなくして一つに融合するというモチーフは、繰り返し書かれてきたが(*)、露骨に性的「融合」と重ね合わせて描いたところにエヴァの「人類補完計画」の特徴がある。

(*)例えば、伊藤計劃の『ハーモニー』!

 

性的比喩で表される人類補完計画
シンジがエヴァ初号機に取り込まれ、そのなかでモノローグを行うのは大きく3回ある。第16話、第20話、そして旧劇場版(第26話)の人類補完計画が発動しているさなかだ。最初の2回は、延々とシンジが一人語りをした後、母に包み込まれるという救済の感覚とともに、自問自答のモノローグから脱する。

ノローグの中で性のモチーフが登場するのは2回目(第20話)からで、「わたしと一つになりたいと思わない?それはとっても気持ちいいことなのよ」というセリフを、裸のミサト、アスカ、レイが、畳みかける。(詳しく言うと、「ねえシンジくん、私と一つになりたい?心も体も一つになりたい?それは、とてもとても気持ちいいことなのよ」(ミサト)、「ほらぁバカシンジ。私と一つになりたくない?心も体も一つになりたくない?それはとてもとても気持ちのいいことなんだからさ」(アスカ)、「碇くん、私と一つになりたい?それは、とてもとても気持ちいいことなのよ。碇くん」(レイ))

3回目の人類補完計画が発動しているさなかにも、「心も身体も一つに重ねたいんでしょ」(ミサト)というシンジに対する性的誘惑がある。

さらに、アンチATフィールドが解放されて、補完が始まった時、それぞれの人物の前に、当人が性的・恋愛的好意を持っていた人物が虚構的に現れ、その人物に対して「心の壁」を解き放つことで、彼ら彼女らは人間の形を失っている。ここから、心の壁を解き放って個のあり方を喪失する人間の融合とは、性的「融合」とほぼ同じ恍惚状態をもたらすものとして描かれていることが分かる。

エヴァにおいては性的「融合」と人類の融合が、「心の壁を取り払うこと」を介して、同じものとして重ね合わされている。心の壁が取り払われるので、「互いに傷つけあう」ことがなく、「人から見捨てられる不安」もないセカイが実現する……。恍惚状態における自我境界の喪失、セカイとの一体感、そして争いのない魂の安らぎの境地が、「性的比喩で描かれる人類補完計画」である。

 ・ちなみに、実際には性的関係を結ぶことは必ずしも「心の壁を取り払う」ことではないし、それによって「互いに傷つけあう」ことがなくなったり、「見捨てられる不安」が解消したりすることではないよね。性的関係もまた一つのコミュニケーション方法であり、性的関係を結んだがゆえの意味の発生(例えば、いわゆる「めんどくささ」と言われるものとか)もあるわけで。一応、フェミニズム的に、そこをちゃんと指摘しておくことは重要そうだなと思って。

 

性そのものは両義的な意味を持つものとして描かれている

エヴァ内で性(セクシュアルなもの)そのものがどう表象され、意味づけられていたかを見ていくと、セックスに対する憧れと嫌悪の入り混じる14歳的感情が描かれている。……というか、嫌悪の方が強めか。

性の否定的表現として、一つ目に、自分に都合のいい「融合」という「夢」を見続けることは、現実から「逃げる」ことだという表現が見受けられる。先に挙げた旧劇場版(第26話)での「私と一つになりたいんでしょ」は、「逃げる」という言葉とひとつながりのものとして発せられている。

「そんなに辛かったら、もうやめてもいいのよ。」(ミサト)
「そんなに嫌だったら、もう逃げ出してもいいのよ。」(レイ)
「楽になりたいんでしょ。安らぎを得たいんでしょ。私と一つになりたいんでしょ。心も身体も一つに重ねたいんでしょ。」(ミサト) 

(旧劇場版第26話)

文脈上、性的「融合」を求めることが、エヴァに乗ることを「やめ」、現実から「逃げる」ことと同義のものとなっている。

考えてみれば、「逃げちゃだめだ」はシンジが当初から一貫して持ち続けている彼の倫理であり、最後も、「逃げる」ことを自ら回避するという形で、モノローグから脱し、人類補完計画の発動を途中で食い止めることになる(「あそこでは、イヤな事しかなかった気がする。だから、きっと逃げ出してもよかったんだ。でも、逃げたところにもいいことはなかった。だって……ボクがいないもの。誰もいないのと、同じだもの。」旧劇場版のシンジのセリフ)。

性に関する否定的表現として、二つ目に、ミサトやリツコといったオトナの女性を通して描かれる性は、「きたない」「よごれた」ものとして述べられている。リツコが、ダミーシステムに異議を唱えるマヤに言う意味深なセリフ「潔癖症は人の間で生きていくのがつらいわよ。自分がよごれたとかんじたときに分かるわ」は、ゲンドウとの肉体関係にあり、ゲンドウの愛がリツコよりもレイの方にあったということを突き付けられた時に壊れていくリツコを知っている我々としては、ゲンドウとの肉体関係のことを汚れたと言っているように読み取れてしまう。

より直接的に述べられているのは、テレビ版第25話で、何か思いつめたような、行きづまったような顔をしたミサトが加持に性行為を持ちかけるとき「私を汚して」と言う(すごい、古い……)。それに対して加持が自分を大事にしろ的なセリフを返すことから、ミサトにとってのその状況・文脈での性行為の要求は「自傷」的(もしくは自暴自棄的)なものであるという意味が付与されている。

本妻ではない状態での性(リツコ)や、自暴自棄な性(ミサト)という性のあり方が、作品中に書き込まれ、それをシンジやアスカが批判的に距離を持ってまなざす(実際に「まなざした」のはミサト&加持の行為だけだが)のが、テレビ版第25話だった。

以上の2点から、肉体を伴った性的なもの(セクシュアリティ)が、「きたない」、「良くない」ものとして描かれていることが確認できる。

 

どうするのが正義なのか

このような物語構造のなかで、主人公シンジに期待されているのは、魅惑的な「性的融合=人類の融合」に抵抗し、人類補完計画を不発に終わらせ、それによって「善」の方に踏みとどまることだ。この選択肢は、人類補完計画を発動させたい父の目的を阻止し、象徴的な意味での「父殺し」(父の乗り越え)をも意味する。

つまり、性的誘惑から距離を取り、それに溺れないこと、安易な人との「融合」に「逃げない」ことが、シンジの倫理であり、これを貫いたことで彼はヒーローになったのだ。新劇場版でもあんまり「ヒーロー」って感じではないが、少なくとも主人公の座に踏みとどまれているのは、正義の遂行(正しい選択)ができたからだろう(新劇場版を見ると、中途半端なサードインパクトの発生と中止こそが世界をより悪い状況に導いたらしく、全体的にさらにきつい状況に追い込まれているが)。

というわけで、以上、人類補完計画を露骨に性的比喩で描いたエヴァンゲリオンは、性的なものを一見すると肯定的に描いているようにも見えるのですが(というか、私はなんとなくそう思っていたのですが)、冷静に見直してみたら、肉体を伴う性はきたないもの、汚れたもの、という意味づけがかなり強烈になされており、それを回避することが善だという物語だったのだということが分かりました。

で、エヴァをオタク向けコンテンツの一つだと捉えた場合、→それにしても、男性オタクコンテンツにおける「性的なもの」の位置づけって、面白いですよね。男性オタコンテンツって性的欲望を駆動因としているのに、性をきたないものとして位置づけ、それを罪悪視するという強烈な「倫理観」も伴っている。正確には、純愛や処女を「聖なる」ものとして価値化し、性欲を「冒瀆的なもの」として位置づけ、聖なるものを冒涜するところに発生する背徳感が性欲を駆動するという構造がある…のだと思う。つまり、純愛と性的冒涜の距離のパトスという構造。(距離のパトスというのはニーチェの概念、すいません、ググって。説明するの力尽きた)

したがって、オタク文化って、単純な性欲だだ漏れ文化とは言えない。もちろん本人たちがそう開き直ることもあるし、そのラディカルさがある種の文化的価値を生み出してきたところもあるけど(例えば村上隆的な)、実際には性欲に対する罪悪感という倫理を組み込んで成り立っている性欲だだ漏れ文化(笑、結局そうなのね)。「男性オタ文化は性欲だだ漏れだからけしからん」的な単純な批判がつまづくのはこのあたり。

性を罪悪視することそのものを批判してきたのがフェミニズム。私もその立場。ただ、「性の罪悪視」って、どうやったら解除できるのかは、けっこう難しい問題だと思う。旧劇場版(第25話)は、冒頭でアスカでマスターベーションするシンジのシーンがあり、後半に「アスカに悪いことしたんだ」っていうシンジのセリフがある。ある人を性的ファンタジーの対象にすることを「悪い」と思うときの、その「悪さ」をもう少し分解して整理して考えていく必要があるんだろうなぁということを思ったりした。

補足。あと、女性オタ向け作品においては、純愛信仰や、性の罪悪感はあまり強くないような感じがして、この非対称性もちょっと面白い。性と愛のあり方が男性オタと女性オタではちょっと違うっぽい。

 

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