ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

村田沙耶香『コンビニ人間』評(2)

(続き)

 

2.コンビニ人間』の「新しさ」:労働と人間性

 「personal(個人的なものの)領域/social(社会的なものの)領域」という区別に基づいて社会を編成している民主主義・自由資本主義社会において、経済的領域での労働は人間らしさや個性を剥奪され、社会の歯車にさせられる苦役(人間性の疎外)と位置づけられてきた。パーソナル領域での人間関係(家族関係や友人関係)は、大人の人間性を回復し、子どもの人間性を養うものとして了解されている(例えばT.パーソンズ)。

 それに対して、パーソナルな領域における「人間的な」ふるまいが納得できず、適切にふるまうこともできない古倉さんは、そのせいで周りの人々から「奇妙がられ」(p.12)、「異物」として扱われ、家族を悲しませ、そのことに自分も苦しんできた。古倉さんには、家族の愛情が欠如していたというようなパーソナル領域内部での「問題」があったのではない。パーソナルなコミュニケーション(人間関係)を成り立たせている原理――さしあたり「人間性」と呼ぶことにしよう――があまりにも複雑すぎ、あまりにも奇怪で、どのような合理性にしたがっているのかが見えず、したがって古倉さんが「理解」できなかっただけである。

 だが、18歳の時「コンビニ店員」になることで、はじめて彼女は人間界という意味での社会の一員になることができた。なぜ「コンビニ」でなければならなかったのか。それは、コンビニが隅々まで経済合理性の原理に貫かれて管理された閉鎖空間だからであり、そこでは適切な声のトーンや挨拶の仕方から始まってすべてが一つの原理――コンビニという空間の秩序を編成するための経済合理性――に基づいて決まっているからである。どのようなルールでその世界が動いていて、何が正しいのかが合理的に決まっているので、「わからない」ことがない。古倉さんは、その世界の一部品となって働くことで、自らの生の形(終盤で「私はコンビニ店員という動物だ」と表現されることになる)を確認し、自分の存在意義を獲得する。それだけでなく、「人間らしい」付き合いが要求される友人関係や家族関係も、より良くこなせるようになっていく。

 コンビニの原理(合理性)に適応できない白羽にとって、コンビニの労働は人間性を疎外する苦役でしかないが、コンビニの合理性を深く体得し、「コンビニの声」が聞こえる古倉さんにとって、経済合理性という一つの原理から、個々のすべてのもののあるべき姿が決まり(おにぎりの位置や、チョコレート菓子の位置)、すべての部分が他の部分と円滑にかみ合い(商品の配列の仕方、どこに何をいつ置くか、どのタイミングでどの仕事をするのか等々が、売り上げの向上やお客さんのニーズを最大限に満たすという目的につながって)、全体が秩序だっている世界はこのうえなく美しい。しかも、一つの原理からすべてが説明できる秩序だった世界であるコンビニは24時間休むことなく機能し続ける、信頼にたる確固たる存在である。

 ここに宗教に似た感情が生じる。彼女が働くコンビニのチャイムは「教会の鐘の音」(p.36)であり、朝礼で唱えるのは「誓いの言葉」(p.51)で、古倉さんは「店長がいるとやっぱり朝礼がしまるな」(p.51)と思い、「私は世界の部品になって、この『朝』という時間の中で回転し続けている」(p.10)。「いつも回転し続ける、ゆるぎない正常な世界。私は、この光に満ちた箱の中の世界を信じている」(p.36)。

 コンビニ=教会から離れていても、彼女の心はコンビニ=教会とともにある。「眠れない夜は、今も蠢いているあの透き通ったガラスの箱のことを思う。清潔な水槽の中で、機械仕掛けのように、今もお店は動いている。その光景を思い浮かべていると、店内の音が鼓膜の内側に蘇ってきて、安心して眠りにつくことができる。朝になれば、また私は店員になり、世界の歯車になれる。そのことだけが、私を正常な人間にしているのだった。」(p.27)。 

 確実に人の役に立っていて、日本全国にあって、自立的な閉鎖空間をなしていて、その内部についてはすべてが合理的に説明できるコンビニ。これは、人の生死の意味や、コンビニ空間を越えた世界の原理についての説明(世界観)を与えはしないが、少なくとも現在の彼女の精神安定のために機能していることは事実である。

 古倉さんは、コンビニ世界を統べる「経済合理性」という原理を人格のかなり深いところまで浸透させている。それによって古倉さんは、内的秩序を保ち、「人間」として機能している。私たち読者は古倉さんという存在を通して、コンビニ=教会という新たな世界に開眼するのである[1]

 

 

3.古倉さんというキャラクターと社会の性別役割期待構造

 ここまで、古倉さんというキャラクター(性格、人格、性の形)を見てきたが、このようなキャラクターは、少し極端で現実離れしているようにも思える。「病院」や「治療」という言葉がちらほら出ていることからも分かるように、「普通の」の世界では「病気」だとみなされているようだ。

 しかし、「36歳」「独身女性」「アルバイト」という社会的な「弱者」属性を与えられた主人公の一人称文体小説を、主人公に共感せずに読むことはほとんど不可能である。著者村田が丁寧に小さなリアリティを積み重ねていることも、共感的に読むことを可能にしている。そして、なにより、古倉さんというキャラクターは、人が無視できない引力(魅力)を備えている。自分の「わからない」という感覚に正面から向き合い、社会の同調圧力に負けず、社会に媚びずに生き抜いている姿は潔くてカッコいい。しかも、自分はかわいそうだとか、こんなにつらいんだとかいうような読者に媚びるようなところがない。ここまで自分を貫き通せない多くの読者は痛快だと感じ、こういう人をこそ「強い」というのだと、古倉さんを応援したくなる。

 古倉さんを私たちが無視できないのはそれだけではないだろう。古倉さんが一貫して抱いている「社会的な決まりごとが自分にはわからない」という感覚は、社会に生きている人間なら誰もがどこかで持ったことのあるものだ。多くの人間は、その自分の感情に気づきながら、なんとなく社会に合わせてここまでやってきている。古倉さんの存在は、そういう記憶を、諦念や恥の感情とともに刺激する。だから、私たちは、「わからない」という感覚を貫き通して不器用に生きる古倉さんを、無視して通り過ぎることができないような気持ちになる。

 以上のような理由から、私たちはこの小説を古倉さんの見方になって読み進め、ともに社会と戦う。古倉さんの視点から一人称で語られる物語を読む私たちは、決して古倉さんが狂っているのでもおかしいのでもなく、むしろプライベート領域で人間性や自分らしさが回復されると思って生きている「ふつうの」人たちこそがおかしいと思いながら読むことになる。古倉さんは、社会と戦う正義のヒーローである。

 「普通の人」の社会がおかしく古倉さんの方がまともなのだという立場から考えてみると、古倉さんがここまで「異物」として扱われる理由は、彼女が「女性」という属性を与えられているからなのではないかということに思いあたる。もし古倉さんが男というジェンダー属性を持っていれば、ことはここまで大きくならないのではないか。

 例えば、喧嘩している男の子ふたりを見て、女子たちが「きゃーだれか止めて!」と叫んだ時、喧嘩している二人をスコップで殴って「止める」という暴挙に出る「男の子」なら、想像の範疇内だ。「必要なこと以外は喋らない」男性は、けっこうたくさんいる。次の日もきちんと仕事ができるようにという目的のためだけに、一定量のモノを食べ一定の時間に眠るというふうに生活を秩序立たせるというライスタイルは、1990年くらいまでに就職したサラリーマンのスタンダードだった。

 つまり、古倉さんが家庭内の感情労働を期待される「女性」というジェンダー属性を持っているがゆえに、合理性しか理解できず、曖昧で矛盾しているところもある「人間性」や「感情」はよく「わからない」という古倉さんの気質は、重大な欠陥として周囲から問題視されたのだといえよう。

 このことを裏付けるように、主人公と男女の対関係を演じる男性登場人物・白羽もまた、女性というジェンダー属性を与えられていれば問題視されない側面も併せ持つ人物として造形されている。たしかに、自分を正しく評価しない社会が悪いのだ、自分はもっと高く評価されるべき人間だということを主張し続ける点は、ステレオタイプなある種の「男性」キャラクター(2チャンネラーとかネトウヨといったステレオタイプ[2])として造形されている。しかし、①「婚活目的」でコンビニバイトに来た点や、②少しの間、自分を社会から隠してほしいと頼む点は、女性であれば自然なふるまいである。③自分はいいアイディアを持っておりその技量もあるので、お金を出してくれる人さえいれば起業したいというのは、典型的な『VERY』的主婦女性の発想でもあり、女性であれば批判されないような行動だが、男性の白羽がやるので非難されるような、そういう行動である。実は、古倉さんと白羽の性別が逆であれば、ここまで大きく問題的な二人とみなされることもなく、物語としてもここまで大きなインパクトを持たないものとなる可能性が高い。

 こうして、古倉さんの視点から書かれる物語を読む私たちは、我々の社会の性別役割期待が強固に根強く残っていることに気づき、古倉さんの「異質さ」がこの構造ゆえに受け入れられないことに憤ることになる[3]

 

(続く)

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[1] ちなみに、時給で働いている古倉さんが、勤務時間外にも店の周りを歩き回って、近くに工事現場ができているとか、新しい店が出店したとかつぶれたといった情報をリサーチするのは、古倉さんという人間の成り立ちにおいて必然的な行動である(けっして「底辺労働」と言われるコンビニ店員が実はひじょうに勤勉で努力家な優秀な人材であることを示すためや、古倉さんが勤勉な人間だということを示すためではない)。 

コンビニというそもそも設計段階からすべてが人工的に作られていて、休むことなく管理されて機能し続けている空間では、すべてが合理的に動いていて不確実な要素は最小限まで排除されている。最大の不確実要素は、客の自由――すなわち、客がどれくらいきて、何をどれくらい買っていくか――というところだが、この不確実性要素をコントロールする方法も、コンビニ世界においては曖昧なままに放置されることはなく、どうすれば適切に対応できるか、その方法がたえず探求されている。古倉さんが、時間外に店周辺の情報収集をするのは、古倉さんの信じるコンビニという世界(教会)の秩序をより精密に美しく、狂いなく維持し実現するためである。

 

[2] 古谷経衡のスノーボールサンプリング調査によると、ネトウヨの社会階層は必ずしも「底辺」の若者ではなく、中年中流層も多いとのことである(『ネット右翼の逆襲 「嫌韓」思想と新保守論』 総和社、2013)。

 

[3] 本稿筆者(高橋)も、古倉さんや、白羽のような存在が「排除」されず社会全体の中に包摂され、安心して暮らしていけるような社会にすべきだろうと思う。

ただし、ここで気を付けるべきことは、多文化社会における「包摂」が行きづまったのと同じ問題に直面するということだ。すなわち、「マジョリティ」の価値序列で下位に位置づけられる人を、社会制度上包摂する(社会保障とか、最低賃金保障など)だけで、価値イデオロギー上「放っておく」だけでは彼らの「救い」にはならないという点。古倉さんの「救い」のためには、コンビニという「教会」が必要だったように。