ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

承認欲求とは何か2:なぜ人はアイドルになりたがるのか

ytakahashi0505.hatenablog.com

( 一応続きだけど、内容的には上記を読んでなくても分かるようになってます。つまり、あんまりつながってない。)

1.

現代の承認欲求について主題的に扱っている本として、

山竹伸二, 2011, 『「認められたい」の正体:承認不安の時代』講談社現代新書

 

土井隆義, 2008, 『友だち地獄:「空気を読む」世代のサバイバル』ちくま新書

などがあります。

この2冊や他の承認欲求関連の色々な議論とかも読んで考えてみると、「そもそも何を承認してほしいのか?」(=「どんな価値を他人や社会に認めてほしいと思っているのか」)の観点から、承認欲求は次の3つに分類できそう。

(1)生得的価値:自分の存在そのものの価値、あるがままの自分の価値
(2)獲得的価値:自分の能力や努力、業績といった価値
(3)人間的価値:一般的な人間としての価値

これらはそれぞれ、どのような社会的関係によってその承認欲求が満たされるかも異なっています。

(1)自分の生得的価値を承認してほしい

自分の存在そのものの価値(=「生得的価値」)を承認してほしいという欲求は、愛されることで満たされることが多い。通常、愛してくれるのは、家族や恋人、ちょっと強めの友情関係にある友人などで、社会学用語ではこのような人のことを「親密な他者」と言います。

「ありのままの自分」を認めてほしいという気持ちや、「本来の自分」の価値を承認してほしいという気持ちを、近代人は一般的にある程度持っているわけですが、それが満たされるのは、多くの場合、親密な他者との親密な関係性によってです。

・山竹氏は、赤ちゃんが受けている「無条件の承認」を欲すること、と表現しています。たしかに愛の関係は、その人が何かができるから愛するとかではない、無条件性を含み持っています。

(2)自分の獲得的価値を承認してほしい

それとは別に、自分の頑張りや努力、自分の能力、業績といった価値(=「獲得的価値」)を承認してほしいという欲求もあります。「できる私」を認めてほしいというものですね。

このような承認欲求は、先に述べた「親密な他者」だけでなく、もう少し広い人間関係――仕事、学校、趣味等の仲間との関係——によって満たされることが多い。また、自分の労力に見合った報酬(金銭的報酬や社会的賞賛など)が得られたときにも承認されたと感じられることになります。

*1990年代後半代以降(バブル崩壊以降)、日本経済の後退により経済的報酬としての承認が得られにくくなっている。バブル期にガンガン稼げた上の世代との落差(相対的剥奪感)もあるので、その結果「日本社会における承認欲求が全体として高まっている」みたいなことは、この論理に則ればありうることではありそう。

+さらに言えば、経済的報酬が得られにくくなったことと、SNSの広がりを背景に、経済的報酬による承認の欠如を、他者からの注目や評価といった社会的承認で満たしているみたいな話は、感覚としては理解できる(きれいに実証するのは相当むずかしい)。 

(3)自分の一般的な人間としての価値を承認してほしい

もう一つ、「一人前の人間」であることを認めてほしい、きちんと人間扱いしてほしい、社会的に尊重されてしかるべきモラルや規範を持っているきちんとした人間であることを認めてほしいという承認欲求もあります。これは、2の「できるやつだと認めてほしい」というのとは位相が異なります(2が一般的社会的承認欲求、3が一般的社会的承認の欠如を避ける欲求)。

これは、「世間」と言われるような広い一般的な社会的関係における承認を要求するものです。あらゆる場面、あらゆる例があるのですが、例えば公共交通機関のなかで、隣の人のプライベートスペースをおかさないように配慮することが、相手を「人間扱い」することを意味するので(「儀礼的無関心」とかもそう)、それをしないと相手を人間扱いしていないことを意味し、相手が気分を害することがある(もしくは周囲からマナー違反だと思われることがある)など。

*属性によって社会的な差別を受けないということは、この承認に関わってくる話です(社会的包摂)。

 

2.

さて、このように整理したうえで、私が最近興味深いなぁと思っているのは、アイドルというあり方。アイドルというのは、「あるがままの私が愛される」という1の生得的価値の承認充足形式を通して、2の獲得的価値の承認欲求の充足をも行うものになっている。詳しく言うと、「愛される」は一般的に生得的価値の承認欲求の充足方法(つまり1)なんだけど、「多くの人から愛される」ことはその人の実力や能力を意味するもの(つまり2)になっているがゆえに、多くの人に「愛される」ことが、その人の獲得的価値の証明になっているということ。

こういうアイドルのあり方って、承認欲求における「個人的な関係/社会的な関係」の二つの領域の境界線を揺るがすのでなんか面白いな、と。

これまで、私たちは、個人的な(プライベートな)関係で、1の生得的価値の承認欲求を満たし、社会的な関係で2の獲得的価値の承認欲求を満たしてきました。

そもそもなぜプライベートな関係と社会的な関係が分けられてきたのかというと、うーん、なぜでしょうかね。端的に言って、会社の人とか学校のクラスの人全員から「あるがままの私がそのままで愛される」というようなことは無理だから、というのがまぁ分かりやすい答えになるのかなと思います。つまり、一般的な社会的関係において、全員と「愛する」という人間関係を結ぶのは難しい*1

そういったわけで、私たちは個人的な(プライベートな)関係——特別な他者と結ぶ関係——と、社会一般的な人との関係を、区別して生きています。分けたうえで、プライベートな関係では、「頑張らなくても、何ができなくても、あなたという存在そのものに価値があるよ」という承認を、お互いに与えあうことを、私たちは理想としている。実際にはそういう無償の愛みたいなのは、簡単には成り立たないわけですが(でも、瞬間的には成り立ったりしますかね。そういう気持ちをお互いに持つ瞬間というのはあるかも。)

それに対して、アイドルというのは、個人的な(プライベートな)関係としてしか成り立たないはずの愛の関係を多くの人と結ぶ仕事なのですよね。愛の共同体のハブになるというか。

そして、多くの人からの愛を集めることができることが、その人の実力や能力とみなされ、その人の獲得的価値の証明になる。実際には、自己プロデュースの努力によって「愛されている」ので、もはや個人的な(プライベートな)関係で結ばれる無条件の無償の愛みたいなことではないのですが、しかし、やはりアイドルとファンの間にあるのは愛の関係であることはたぶん間違いがない。アイドルが頑張らなくても、頑張れなくなっても、業績がでなくても(総選挙で勝てなくても)、ファンは愛することをやめないはず。そういう不安定性を吸収しながら継続されるような、人格をめがけた関係性のことを、人は一般に愛というのではないか。

(*とはいえ、ファンに対するひどい態度を取ったりすると、ファンがいなくなったりするということもあるから、まぁやっぱり無償の愛ではないのだが、そのあたりは現実の愛の関係でもそうだったりして、「現実のプライベートな関係における愛—アイドルの愛の関係」がどれほど「無償の愛」を実現しているのかは程度問題なかんじではあります。程度の差はあれ、そこに成り立っている関係が、愛という枠組みの中に入っているものであることは、たぶん間違いない。)

アイドルは、恋愛感情などの愛情を商品化している産業なので、こういう個人的な(プライベートな)ものとされてきた愛情関係を、社会的価値に変換するという制度が成り立っているわけで、この変換方法を体現する職業としてのアイドルって、面白いなーという話でした。

・あと、アイドルというのが、上記のように1と2の融合形態としてあるとするならば、愛されるために自己プロデュースを頑張るという「一つの行動」で「二つの異なる承認欲求が一度に満たされる」ことになるので、承認欲求の充足方法として効率がいい。その意味で、まだ何者にも成れていない若くて承認欲求を抱えている人たちがアイドルになりたがるのはわかる話だな、と思ったりした。

実際には、「一つの行動で二つの異なる承認欲求が一度に満たされる」ように(外部からは)見えているだけであって、実際に二つの異なる欲求が満たされているわけではない(もしくはどちらとも異なる何かが起こっている)ようなかんじが、私はしているのだけれど。そして、アイドルの生きづらさみたいなものがあるとすれば(それは、モテを追求する人の生きづらさにも通ずるものがあるのだと思うが)、そのあたりにあるのではないかと思っている。

*1:・例えば、クラス30人全員を「あるがままに愛する」みたいなことは、なかなか難しい。それぞれの「個性を大事」にし、各人の良いところに注目して接するようにしようということはできますが、「あるがままのその人のすべてを全的に受け入れる」みたいな関係を30人が全員でやるのは物理的に難しそう。具体的に何がなぜ難しいのかを説明するのは難しいが。情報処理が追い付かない、そこまで関心を持てない、30人平等に愛するのは難しくてたぶんどうしても不公平になる等々。