ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

LAMP IN TERREN

最近のロックだったらLAMP IN TERRENがいいですって教えてもらっていたのだが、この数日しっかり聴き、それ以降、打たれてけっこう茫然自失している。
松本大が書く詩の特徴は、「キミ」が具体的な像を結ばないところにある。これは確信的にやっていると思う。異性愛か同性愛かフルイドか……という「違い」を乗り越えて誰もが聞けるものを目指すときに至る一つの道。ただ、松本大の場合、あまりキミに関心もない。
彼のポエジーの中心は、「たしかに強く感じていたはずの自分の気持ち」で、それを「どこかに落としてしまった」ということ。これを中心にしてぐるぐる回りながら、繰り返しこれを歌っている。その振り切れた感じが、いまっぽいというか新しいというかすごい。
「どこかに落とした気持ち」というのは『緑閃光』のワードだが、そういうわけで、私は、やはり一周して『緑閃光』が完成度も高くていいと思っている。
・まず、ギターリフが麻薬的。 このリズム感。
・次に、詩が良く構築できている。夕暮れのなかで「真実」とでもいうべき何かをつかむ自分と、その同じ風景を見ていたはずの何も語らない花という、夕暮れ、自分、花の三者の構図で、立体的に情景が描けている。(他の曲はここまで構築的ではないのもちょっと気になっている)
・もっとも衝撃的なのは、神隠しが起こるあやしい夕暮れ時を詠う詩は死ぬほどたくさんあるが、いったいだれがこんな夕暮れのポエジーを歌ったことがあっただろうかということ。
松本大が夕暮れの中でつかんだのは、「僕だけが見る風景」で、でもそれは「夕暮れが連れ去ってしまっ」ている。それは、「喜怒哀楽は大抵 眠れば忘れることを知っている」のと同じようなもので、「この目が醒めてしまえば もう昨日は遠くなってしまっていた」のと同じようなもの。
ここには「どうせ戻れやしない」し、僕は「同じ場所に居続けることもできない」というあきらめが基調にある。
あきらめが基調なのだが、その失った気持ちを「見つけられなかったとしても 紡いでいくしかないだろう」という覚悟があり、しかも「見つけられたとしても 満たされるわけじゃないだろう」ということもわかっているというところが、いまのティーンスピリットっぽいかんじがしませんか!
とくにウツっぽさが、グランジの復活とビリー・アイリッシュがくるいまっぽいよねみたいな、すごいざっくりした感じなんですが。
すでに失われたなにかを歌うのだが、ノスタルジーというには、期間が短い。一日単位だったり、ついさっきまでたしかに感じていたはずのものだったりする。でも、これはなんかよくわかるポエジー(詩情)でもある。
とうせもう 見えるものは偶然でしかないだろ 
だからもうあがくこともないよ 
 
どこかに落とした気持ち 夕暮れが連れ去ったとしても 
いつか同じように 何度も何度でも見つけてみせるよ
 
見つけられなかったとしても 紡いでいくしかないだろう
見つけられたとしても 満たされるわけじゃないだろう
LAMP IN TERREN『緑閃光』) 
 

youtu.be

以上、私は新しく出てくるロックバンドにはティーンスピリットを求めてしまうところがあり、私の中での"the" teen spiritは、「未完成だけど曲の疾走感でどこまでも走り抜けられる」みたいな、BUMPの『天体観測』みたいなものだったのだが、『緑閃光』はすでに失ってしまったものを甘美に歌うティーンスピリットで、ちょっと衝撃を受けているという話でした。

 関連記事

ytakahashi0505.hatenablog.com