ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、『恋愛社会学』(ナカニシヤ出版、2024)発売中。

東浩紀の『観光客の哲学』をどう批判的に継承していけるかまとめ1

1.

『ゲンロン0 観光客の哲学』を楽しく拝読したので、内容まとめと感想をまとめておいて、今後なにかの時に使おうと思います。

東がここで提起している議論は、自分勝手な個人の楽しみを主要な目的としてなされる観光(消費+ふらふら歩き)によって発生する「誤配」(意図されていなかった人に、意図されていなかったメッセージが届くこと)が重要なのでは、ということです。

公的な理念やら社会的問題関心などをモチベーションにする連帯だけでなく、ただひたすらに個人的な快楽や楽しみをモチベーションにしてなされる観光もまた(マルチチュードに似ているがそれとは少し異なる)新たなつながり(「つなぎかえ」(「第4章 郵便的マルチチュードへ」))をもたらすものであり、このような誤配によって、既存社会を変えていく批判や攪乱が可能になるのではないかということを提案しています。

なるほどなー!と思いました。

とにかく東は、「まじめな」議論をする人たちが無意識のうちに下位化している欲望・快楽・消費に駆動された社会的現象(オタク消費とか)を、「思想的に真剣に考えるに値するものなのだ」と指摘し、実際にその思想的面白さを提示して見せるのがうまくて、すばらしいです。見習いたいと思います。

(わたしも「「モテ」とかの社会現象をまじめに考えるの、ぜったい面白い」と思って分析に取り組んでいるのですが、その面白さを思想的文脈に載せて提示するというところまではまだできていないので……。)

・上記の説明に該当する部分を引用しておきます。Kindleで読んでいるので、ページ数は分からず。

二一世紀の新たな抵抗は、帝国と国民国家の隙間から生まれる。それは、帝国を外部から批判するのでもなく、また内部から脱構築するのでもなく、いわば誤配を演じなおすことを企てる。出会うはずのないひとに出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考え、帝国の体制にふたたび偶然を導き入れ、集中した枝をもういちどつなぎかえ、優先的選択を誤配へと差し戻すことを企てる。(第4章から引用)
ぼくが本書で提案する観光客、あるいは郵便的マルチチュードは、スモールワールドをスモールワールドたらしめた「つなぎかえ」あるいは誤配の操作を、スケールフリーの秩序に回収される手前で保持し続ける、抵抗の記憶の実践者になる。(第4章引用)

ここでの東の議論(着想)を、高橋なりに言い換えると、以下のような感じになります。

観光に行く人は、現地の人が用意した案内図や紹介文にしたがって、上品にルールを守りながら観光名所をめぐります。そして、そこで偶然出会った地元の人や他の観光客の雰囲気、諸々の出来事やハプニングなどに基づいて、めいめいが勝手な印象を持ち帰ります。観光に行く人は、ある程度その土地を知ろうと思っていますが、「本気で」知ろうと思っているわけではない、くらいのゆるい感じです。地元の人のリアルな意見に直面して嫌な思いをする心の準備はしていないので。

こんなかんじでグダッとできあがる、ぜんぜん正しさとかを備えていない、個人的で偶然的なその土地へのイメージやそこでの偶然的な経験が、「つなぎかえ(誤配)」をもたらすことがある、というのが東の着想だと読めます。

ぶっちゃけて言ってしまえば、行く場所はどこでもいいし、誰でもいい。とにかく、誰かが、自分の日常とは切れたどこかへ行って、その土地で偶然的に色々なことを経験して帰ってくる。そういう流動性(モビリティ)のなかで、「つなぎかえ」(誤配)が起こり、それが既存社会への抵抗や批判、攪乱を生み出すことがあるのでは(全ての観光行為がそうではないが、ときどきまれにそういう攪乱を生み出すきっかけになるし、それはけっこう重要なのでは)、という議論であると、わたくしは理解しました。これ、面白い発想ですよね。

一言でまとめると、「モビリティがもたらすつなぎかえ」というのが、高橋の東読解となります。

ちょっと卑近な例すぎかもですが、たしかに移動して、日常からの切り離されると、いつもとは異なることを考えるのでそれだけで新しい発見があったり、思いもよらない着想が得られたりしますし。そして、見知らぬ土地で見知らぬ人やモノに出会って、自分のこれまでの考え方がちょっとだけ組み変わる…みたいなこともありますね。(これが、今まで自分が知らなかった興味深いYoutuberを発見するのと、どう機能的に同じで違うのか、土地への移動はオンラインでは得られないどういう効果があるのかを、もうちょっと厳密に個人的に色々考えていきたいところです。)

・こうまとめてみたら(あえて東は使っていない「攪乱」という語を使ってまとめてしまったのだけれど)、けっこう骨格としてはバトラーっぽい議論でもあるなと思いました。(デリダの「誤配」経由でバトラーの「攪乱」につながっているのだと思われます)

 

2.

さて、あとは、追加的な話ですが、

基本的に東は「観光客の哲学」として、「行く」側の人の立場から議論を展開しているのですが、「観光」の哲学を考える場合、観光客を受け入れる側にとって、観光は何を意味するのかという議論も重要な気がします。むしろ日常的に毎日「観光」をやっている観光業者にとって「観光」とは何なのか?という話ですね。

・例えば、過疎化が進む地域で観光が重要な産業になるというような形で、観光が広がるにつれて、観光客という外部の人(他者)の視線を通して、その土地の新たなアイデンティティが立ち上げられていくと予想されます。記憶の共同化やオーソライズを通した地域のアイデンティティの確立のプロセスを具体的に分析をしたらかなり面白そうだなと思いました。

・また、地元地域の側としては、基本的には、なんかよくわからない理念とかを掲げてくる「他者」と付き合うのはめんどくさいが、経済的利益をもたらす「観光客」ならつきあってやってもいい、「おもてなし」をしてやってもいいっていう感じだと思うのですよね(これ別にインタビューとかしてないので予想で言っていますが)。

で、そのようにまずは経済的利益から始まった関係でも、いまの観光地でなされているおもてなしは、やっぱりそれ以上の何か、すなわち感情の部分が乗っかって成り立っているという感じがします。仕事として客を歓待しているけど、純粋に「楽しんでもらいたい、気持ち良く過ごしてもらいたい、いい思い出を作ってほしい」という気持ちもあって、それは地元愛とか地元を誇りに思う気持ちとか、職業愛ともまじりあって成り立っている。(「おもてなし」がオリンピック誘致の時に用いられたキーワードだったので、オリンピックに批判的な人は「おもてなし」をも批判する傾向があるけど、中立的に考えると、そういった気持ちが乗っかったものが「おもてなし」と言われているものなのだと思う。)

観光客を受け入れるおもてなし(ケア)の形で築かれる、ゆるやかな他者(よそ者)への信頼感は、着目に値するものなのではと思いました。(これはケアの思想に連なる何かかも。)まとめると、「観光地で日々の営みとして繰り返されている観光的おもてなしは、いかなる社会的関係を生み出しているのか」という問いは、色々と深く考えていくことのできる良い問いだなーと思っています。

 

3.

ちなみに、東は観光によるつなぎかえ(誤配)によって、どのようなつながりが形成されるのか?という問いに対して、「家族」と答えています。ここで言われている家族とは、高橋が勝手に名づけるなら「偶然的家族」とでもいうのが良いような、新たな家族関係への光の当て方に基づいたときに見えてくる「家族」です。

これがなかなか曲者というか、ジェンダー論研究者としては無視して通れないテーマなのですよね。ということについては、次のエントリーで。