ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

村田沙耶香『コンビニ人間』評(1)

第43回 哲学カフェ横浜(2018/12/05)で報告させていただいた村田沙耶香コンビニ人間』評をアップします。

 

文芸批評とはある作品がもっている思想的可能性を展開して論じるものだと、私は考えています。これはとても重要な仕事だと思うので、これからも色々作品評を書いていきたい…。

 

今回の会は、村田沙耶香さんの芥川賞受賞作品『コンビニ人間』を読んだ哲学カフェ横浜のメンバーが、この作品は「よくわからない」、「若い人の感覚で書かれているような気がするし、それがこの作品をうまく理解できない根本原因かもしれない」ので、同世代の私(高橋)が読んだらどういう感想を持つのか聞かせて、という依頼で始まりました。

 

 

村田沙耶香 『コンビニ人間』([2016]2018、文春文庫)

 

1.はじめに

 コンビニバイト歴18年、現在36歳独身の女性「古倉さん」を主人公とする一人称小説『コンビニ人間』は、人格的な(persönlich, personal)人間関係から疎外された――つまり「人間らしい」人間関係というものが「わからない」(p.13)ことで苦しんできた――人間が、経済領域での社会の「歯車」(p.10)になることで、自分の生の形を獲得し、救済される物語である。

 コンビニは、1970年代に日本に進出し、1980年代に全国各地に作られはじめ、当初「郊外化」や「ファスト化」の象徴の一つとなったが、いまや地元に溶け込んだなじみの店であり、ライフライン、地元の文化と融合して新たな進化を遂げつつある存在だ。そのコンビニを舞台とする本小説が、2010年中盤の現在において「現代的」ばかりか「近未来的」な印象さえ与える。その理由は、ひとつには著者によって精密に作りこまれているため[1]であるが、最大の要因は、人間を規格化し取り換え可能な部品として取り扱う労働の典型例であるコンビニ労働を通して、主人公が「人間性」を取り戻し「社会性」を獲得するという転倒(倒錯)のためであるように思われる。

 経済合理性に貫かれたコンビニのマニュアルが、古倉さんの生の形を作り出し、社会の歯車としての満足感をもたらす。私たち読者がよく知っているように思えた日常のなかに強烈な違和が差し込まれ、読後感として残るのは底知れぬ不気味さである。

 

( 続く)

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[1] 真っ白な蛍光灯が光る「小さな光の箱」のガラスは、「指紋がないように磨かれ」(p.10)ていて、「機械が作った清潔な食べ物」(p.8)が整然と並べられているというコンビニの描写。また、トイレ掃除やバックヤードの汚さとか雑然とした感じ、暗さの描写が一切省かれている。