ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

【#シンこれフェミ 3-2】公的広報におけるジェンダー表現ガイドライン策定の経緯と現在:広告規制に関するこれまでのジェンダー論の議論1

90年代後半に、国及び地方自治体の行政機関における広報ガイドラインが策定され運用されてきた経緯がざっくりとまとめられている論考として、ジェンダーの観点からメディア論研究をしてこられた大家・諸橋先生の以下のような論考があります。

www.koho.or.jp

この論考を参考に、経緯をざっくりまとめるとこういうかんじ。

1995年 第四回世界女性会議(北京)で、メディアとジェンダーが重要議題の一つとして取り上げられる。
1996年 「男女共同参画ビジョン」において「メディアにおける人権の推進・擁護」が掲げられる。
1996年 「男女共同参画二〇〇〇年プラン」が閣議決定される。
1999年「男女共同参画基本法」を制定。

2000年 「基本法」に基づいて策定された「男女共同参画基本計画」で、「メディアにおける女性の人権の尊重」がうたわれている。

2003年 「男女共同参画の視点からの公的広報の手引」(内閣府男女共同参画局/編)を公布。これを基に各地方自治体もガイドラインや手引を作成。

 で、2003年の手引というのがこれ。

https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/012/720/kouhoutebiki.pdf

*たしか、青識さんがツイッターの自分のアイコンに女性のイラストを使っていることが、この手引に書いてある「女性をアイキャッチャーに使っていませんか?」に相当するので問題だみたいな話があるんでしたっけ? だから、青識さんがどこかに(内閣府男女共同参画局か、自分の地方自治体の男女共同参画室かに)電話して、確認したみたいなことを、この間の打ち合わせの時に、ちらっとご本人から聞いたような記憶があるような。いま思い出した。もしそうだとしたら、電話で確認した結果、どういう回答だったのかが、ちょっと気になってきました。内閣府男女共同参画局が「あ、あれはもう古いやつなんでー」とか言って「クレーム」をかわしていたとしたら、それはそれで内閣府男女共同参画局側の問題が浮き彫りになる感じだし…うわー、これどっちに転んでもこわい話だ。これ以上はやめておこう。

・んーと、いや、でも青識さんは「公的広報」としてツイッターやっているわけではなく個人の立場でやっているので致命傷ではないか。批判のかわし方はいくつかありますかね。例えば、「自分のアイデンティティを表すのに、このヴォルコさんの画像が最も適切であり、アイキャッチャーに使ったのではない」と主張すれば、それは「個人のアイデンティティの問題」(=個人的な問題)なので、それ以上誰も論理的には問い詰めることができない話です。道徳的に問題視する人はいると思うけれども(例えばそういう切り抜け方は、トランスの人を軽視するものだ、など)。

それに対して、「アイキャッチに使うことの何が悪いんだ」と開き直られてしまうと、フェミニズムの原理・論理から言って、問い詰めないといけないかんじになってしまいます。(なんか、チェスやってるみたいな気持ちになってきた。)

 

ところで、この手引きに関してですが、少し心配なのは、2003年(平成15年)以降の手引の情報が出てこないところです。各地方自治体のこれ関連の情報も、2006年くらいで止まっている? こういったジェンダー表象に関するガイドラインは、時代に合わせて充実させていったり、見直したりしていく必要があると思われるのですが、もしかしたら、やっていないのかも? このあたりの詳しいことをご存じの方はぜひ教えてください。

男女共同参画局がやるべき仕事や新しい問題はどんどん出てくるので、この件の改訂などは手が回っていないのかもしれません。しかし、この数年で、ここまで公的機関や地方自治体の公的広報の炎上があった以上、動いた方がよさそうに思われます。

性的萌え絵広告炎上をきっかけにして、手引の15年ぶりの改訂を行うといいのではないでしょうか!そのために、どういう性別表象(女性表象)が良くて良くないのか、その基準や理由は何かを、市民間の議論の活性化や合意形成のなかで、明瞭にしていけたら、理想的だと思います。

 

 最後に諸橋論考に関する感想をメモ。

表象と現実の関係に関しては、これくらいゆるっとした感じで論じられていて、こういう物言いで済んでいたなんて、なんか牧歌的。

家庭、学校、メディアが、その人の性別や「らしさ」を決定づける大きな要因になっているのです。

 

とりわけ、社会的影響力の大きいマス・メディアが描くジェンダーには、旧来の固定的性別役割分業を踏襲し、性を商品化したような表現が依然として少なくありません。民間のメディアは営利を目的としていますから、視聴率や部数を上げなければなりませんので、どうしても既存のジェンダーに迎合的になります。そうしたメディア環境に、われわれは常にさらされています。活字や映像だけでなく、街中のポスターや看板なども含め、あらゆるところにメディアがあふれているのです。ましてや、インターネットが普及した今日、私たちの周りを無数の情報が飛び交っています。メディアは空気のように存在するので、見たくなくても、読みたくなくても、つい目に入り耳に入ってしまいます。私たちは否応なく、それらに接し、メディアが語る「男性像・女性像」を、知らず知らずのうちに取り込んでいますメディアが送り出す男性像・女性像が、私たちの性別認識を形づくっているといっても過言ではありません

一文ごとに、「うーんと、そうなの?根拠は、データは?」という思いが湧きおこるのは、これが15年前の文章だからなのでしょう。そうでなくても、一般向けに書いた文章ってどうしても色々ゆるくなりがちっていうところもありますし。諸橋先生の本の中ではもう少ししっかり論じられていたような記憶があるので、あとで見直します。

ちなみに、以下のような原理に基づいて、公的広報の手引が作られたのだな、というような基本のところはよくわかる論考となっております。

公的広報はその性格や立場から、人権に配慮するのは当然といえます。行政が使う言葉や表現は社会的な基準とみなされやすく、社会に与える影響も大きいため、それらに性別による固定的な表現がないかどうかなど、企画・製作段階で十分検討されなければなりません。

以上、今回ご紹介した諸橋論考は、良くまとまった一般向けの文章と言えると思います。「メディアとジェンダー」という議論が、いったいどういう基本原理(枠組み)でなされているのかがよくわからんのだよ、という方はぜひご一読を。