ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

虚淵玄脚本作品について

【*若干ウツ注意かも。読むとウツ症状が深刻化するかもしれません、今、精神状態がやばい人は読むのをやめましょう】
 
1.
 ウツ的な問いというのがあって、問うてもしかたないと思って問いすらしないような、この世界に対する根底的な疑念、違和感、諦め、絶望というものがある。これを問い始めると生活が回らなくなるので日常はあまり考えないようにしているが…という問いのことで、誰しもが持っているのではないかと私は思っている。そういう世界への根底的疑念のようなものが、虚淵玄脚本作品の世界観設定に使われていて、驚く。
 ファンタジーであれ、SFであれ、リアリズム映画であれ、主人公が現実原則にぶち当たる物語を書くと、ハードボイルドになる。登場人物たちには動かしがたい、その世界観を構成しているルールに、登場人物たちがぶち当たり苦しみその中でどう生きるかを書ききるとハードボイルドになるのだ(フィルムノワール作品群を参照せよ)。現実原則がハードモードで、登場人物たちはそれにぶち当たり、非情になり、サバイブしようとする「現実」を書くと、視聴者はあぁこれはハードボイルドだなぁと感じる。ちなみに、日本のやくざ映画(70年代)やその後の香港ノワール(80年代)は、現実原則のハードモードのなかでの愛と暴力(仁義や兄弟愛や、親分への忠誠ゆえの暴力)を描くもので、このように愛の要素が強くなるとハードボイルドからちょっと遠くなる。これをさしあたり「80年代香港ノワール」と命名しておく。以上のような意味において、虚淵脚本作品の登場人物はハードボイルド的、もしくは80年代香港ノワール的だ。
 こういうタイプの脚本家の腕の見せ所は、その物語世界を構成する絶対的ルール(世界観設定)をどれだけ説得的なものとして提示し展開できるかというところにある。ファンタジー固有の基本的には何でもありという条件の中で、どれだけ視聴者にとって「現実的だ」と思わせるような納得的で切実な現実原則を設定できるかが、脚本のできの良し悪しに関わってくる。(例えば、「魔法少女もの」に火砲を持ち込むことの効果は、火砲の射程距離や威力に関する物理的にリアルな規定を物語世界に持ち込むことで、それを基準にした魔法の射程距離や効力に関するルールも確立することができ、バトルシーンが面白くなるというところにある。)
 虚淵は現実原則の立て方が秀逸だ。そしてその現実原則にぶち当たる登場人物の造形が素晴らしく、それぞれのキャラクターがこの世界の原則にどうぶち当たるのかが、どれも切実に感じられるものばかりだ。虚淵玄脚本作品の良さの中心はこのあたりにある。
 
2.
 虚淵が立てる現実原則とは、まず最も大きな世界観レベルから整理すると、
①人間は何をどう抗ったって最後は死んでいく。エントロピーは増大していて宇宙は死に向かっている。世界全体は悪い方向に向かっていて、主人公たちは基本的にそれを変えることはできず、ちょっと抵抗することができるだけ。
②正義と愛は両立できない。愛は私的なものであり、正義とはなりえない。
の二つ。
 
 ①の世界は悪い方向に向かっているというのは、悲観論者とか、文明批判論を展開した18世紀のルソー周りとかが主流ですよね。私は、さすがに現代の文明社会は病んでいるなどと言うようなことは思いませんが、毎日を際限なく繰り返していることに関する不安やその無意味さへの恐怖感と、個人的に言語化しているものに近いような気がしています。『まどマギ』の魔法少女たちのループして闘い続けるけど勝てない感は、私の生を端的に具象化したものだと感動しました。
 
 ②正義と愛は両立できないについては、具体的には「愛は私的なもの、正義は公的なもので」、両者は衝突する運命にあるという思想。
 そのため、『沙耶の唄』では主人公カップルの恋愛が成就に近づくほど世界は破滅に近づき、『まどマギ』では、上条くんを守るために魔法少女になった美樹さやか(青色の子ね)は破滅する。さやかとしては、自分の愛(恋愛感情)に基づいて上条くんを助けることは「正義」だと思っていたが、虚淵世界観の現実原則においては、それは、正義ではないので、さやかは破滅。最後に、自分のことを「正義の味方失格だ」というというさやかのセリフがある。
 
(元気があれば続くかも)