ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

ジンメルの「個性(Individualität)」概念の現代的有効性:後期近代の「個人化」のなかで(高橋幸)要約

ジンメル研の会報に載せてもらう要約文作った。昨年のジンメル研での報告の要約です。

ポストフェミニズムにはあまり関係していないけれど、せっかくなので公開させてください。ジンメル研究会会報は商業媒体雑誌ではないので、たぶん、ウェブ公開しても怒られないと思う。

これから校正が1回入る予定なので、もし誤字脱字や日本語の変なところ、論理的な矛盾(それは、今からは直せないが)などに気づいた方は、教えてください。

 

タイトル:ジンメルの「個性(Individualität)」概念の現代的有効性:後期近代の「個人化」のなかで(高橋幸)

要約

 1980年代中盤の欧米から始まる第二の近代において「個人化(individuation)」が進んでいる。個人化とは、個人の脱埋め込み化と再埋め込み化(ギデンズ、ベック)による個人の決定権の増大のことを指す。第一の近代における個人化が有産階級男性のものであったのに対し、第二の近代においては女性を含むより広範な人々の個人化が起こった。後者は、離婚・再婚・非婚の増加に見られる、親密な関係性の変容を伴っている。

 一方で、個人化という概念は、個人が抱えこむことになる社会的問題を表すものとして用いられてきた。社会的連帯の弱体化や、ライフコース選択とその結果の過度な自己責任化、雇用契約の短期化や結婚期間の短期化による自分は社会における代替可能な歯車の一つでしかないという感覚の高まりなどの問題が指摘されている。他方で、個人化という概念は、近代的個人が目指すべき自律的で個性的な個人の確立を指すという価値概念としても用いられてきた。個人化は、社会科学的な用語でありつつ、思想上の価値概念でもあるという特徴がある。

 現在「第一の近代」と呼ばれている近代化プロセスが個人に与えた影響について詳細に論じた社会学者としてジンメルがいる。ジンメルは、社会が近代化すればするほど個人は個性化すると論じたことでよく知られている。では、近代化プロセスのなかでも、とくに何が、個人の個性を発展させる社会的条件になるとジンメルは考えていたのだろうか。第一の近代の分析からジンメルが析出した「個人の個性的発展のための社会的条件」を特定することは、現代日本で起こっている第二の近代のもとでの個人の個性的発展のあり方を分析するための視点を確立するのに役立つと期待できる。

 上記の問いを明らかにするため、ジンメルが近代化と個性化について論じている『社会分化論』と『社会学』を分析した。その結果、ジンメルは、個人が個性を発展させるための社会的条件として、(1)個人の所属する社会圏が大きくなること、(2)圏が分化し、個人が複数の圏に所属するようになること、(3)個人が大きな圏の内部にあるより小さな圏での人格的コミュニケーションがなされることの3つを論じているということがわかった。ジンメルは、個人を既存の社会的しがらみから解放することが個人の人格に自由をもたらすと考えており、多様な圏に所属することで個人の多様な側面が発展し個性的人間になるとし、小さな圏での人格的コミュニケーションを通して、個人は自らの代替不可能性の感覚を養い、個性を発達させていくことができると考えていたことがわかる。

 この3つの社会的条件を現代日本に当てはめて考えてみると、例えば、日本語文化圏を越えたより大きなグローバル政治経済文化圏を準拠集団とすることや、ICT技術を用いて多様な人々とのつながりを作っていくことなどが、それぞれ(1)(2)に相当する。ジンメルは(3)として、『社会分化論』第3章ならびに『社会学』第10章で、「家族」を念頭において論じている。ただし、冒頭でも述べたように現代では家族が人格的コミュニケーションの場として機能していないケースがあったり、非婚者が増えていたりすることを踏まえると、個人に人格の代替不可能性感や唯一無二の感覚を備給する人格的コミュニケーションは、既存の家族の形態にとらわれない、より多様な形で展開されている可能性がある。

 本研究の知見を踏まえて、今後、現代日本における個人の個性的発展のあり方を分析するさいには、個人が所属している社会圏の大きさや数だけでなく、個人の個性に社会的裏付けを与えてくれるような小さな圏での人格的コミュニケーションが、具体的にどのような場でどのようになされているのかを、家族という枠組みにとらわれることなく見ていく必要がある。