「イントロダクション:フェミニストセオリーにおけるマテリアリティのモデルの登場」(ステイシー・アライモ&スーザン・へクマン)の前半部分の概要
フェミニストセオリーは、現在、言語論的転回によって行き詰まっているというのが、私たちの主張である。
もちろん、言語論的転回はフェミニズムにとってとても生産的だった。権力、知、主体性、言語の複雑な相互連環の分析に役立ったし。デリダとイリガライは女性支配の論理を明るみに出した点で偉い。ポストモダンの洞察で、フェミニストセオリーは豊かになった。脱構築によって「女性」アイデンティティの意味が多様になった。二元論を拒否するのが、最大の特徴。
でも、ポストモダンは「リアル」や「マテリアル」という概念については居心地が悪そう(umcomfortable)だ。
ドゥルーズやフーコーはマテリアルなものについて論じている。例えば、ウィリアム・コノリーは『ニューロポリティクス』(2002)で、ドゥルーズの「マテリアリティ」の議論を採用している。クレア・コールブルックやLadelle McWhorterは、ドゥルーズやフーコーのマテリアリティに着目した議論をしている。しかし、多くの場合、ドゥルーズやフーコーにあるマテリアリティの議論は見過ごされてきた。バトラーがマテリアリティを重視する仕事をしてきたことは周知の通りである。
ということで、フェミニストセオリーがマテリアリティを取り戻すのは重要だ。
身体を、その物質性を、アクティブで時に手に負えない力を発揮するものとして論じることが重要なのだ。私たちがその中に住んでいる(inhabit)身体とマテリアリティについて論じるべきだ。イデオロギーや表象だけでなく、生きられた経験、身体的慣習、生物学的物質に焦点化しよう。
エンバイロメンタル・フェミニスツ(環境フェミニズム)は、物質や人間以上の世界を真剣に捉えるべきだと主張してきた。主流フェミニストはこれを無視してきたが、エージェンティックな自然について、イントラアクション(カレン・バラッドの用語である)をする物質として、自然を考えるべきだ。
フェミニスト科学論は、科学の男性中心主義を批判してきた。この系譜において、社会構築主義の知見を失うことなく物質性を科学の世界に取り戻すオルタナティブなアプローチを模索するに至っている。サンドラ・ハーディング、Helen Longino, Lorraine Code, and Lynne Hankinson Nelsonらの、フェミニスト科学クリティークの「新しい経験主義」("new empiricism" of feminist science critics)が、これ(構築主義を廃棄しない経験的で物質的なエレメントを保った科学論)を試みている。
ラトゥールとアンドリュー・ピケリングが社会構築主義とマテリアルワールドのエージェンシーの存在論を組み合わせる革新的なセオリーを始めている。ダナ・ハラウェイとカレン・バラッドは、人間、ノンヒューマン、テクノロジー的、自然的なものをエージェントと定義し、私たちの日常世界の条件(パラメーター)をいっしょに構築しているという理論を発展させている。エリザベス・A.ウィルソンは、『サイコソマティック:フェミニズムとニューロロジカル・ボディ』(2004)において、神経科学を文化的なパースペクティブから批判するだけの議論を拒否し、フェミニスト思想に耐えうるような神経学的身体の詳細な説明をもたらした。
このように、多くのフェミニスト・コミュニティがマテリアルの喪失というレールに乗り続けることに反対している。物質の喪失を嘆き続けるだけでなく、この問題へのアプローチを作り出すべきだ。
物質的転回は、存在論、認識論、倫理、ポリティクスにおける様々な根本的問いをもたらす。科学において「リアル」をどう定義できるのか、科学的文脈におけるノンヒューマン・エージェンシーをどう記述できるのか。自然、人間、ノンヒューマンの関係をどう再定義できるのか。自然は単なる受動的なものではなく、エージェンティックな力であり、相互作用し、混ざり合い、変化する。
マテリアルフェミニズムは、新しい倫理的政治的な場も切り開くだろう。文化的相対主義は、全てのポジションは平等であり、文化横断的な判断はできないとしてきた。これは、ある文化が他の文化を搾取している状況を明らかにしたいフェミニストの邪魔をしてきた。これに対してマテリアルエシックスは、倫理的なポジションがもたらす現実のマテリアルな結果を比較検討できるし、そこから結論を導出することができる。