ボディースタディーズを牽引しているロンドン大学ゴールドスミス校のリサ・ブラックマンによる非物質的に身体を論じるというプロジェクトをまとめた本です。
大学HPでは、ブラックマンは、ボディスタディーズ、サイコロジー、メディア&文化的理論のインターセクションで仕事をしている、と紹介されていますね。https://www.gold.ac.uk/media-communications/staff/blackman/
(Lisa Blackman works at the intersection of body studies, media psychology, and media and cultural theory. Her research focuses upon the broad areas of affect, subjectivity, the body and embodiment.)
メンタルヘルス研究とアクティビストでもあり、ヒアリング・ボイス・ムーブメントのパイオニアでもある、と。
さて、例のごとく、私がこれ重要だなと思ったところを中心に意訳し、概要をつかむことを目指します。
序章
ボディアンドアフェクトスタディーズ
科学的な分析対象とされる「もの」としての身体を超えて、アフェクトし、アフェクトされる身体を「インマテリアル・ボディ」として分析していく。
・イデオロギー的や論証的なプロセスを超えて、身体の非物質性を強調することは、解放的な政治の要求のためである。
・1980年代から90年代の身体の社会学とは環境が根本的に異なっており、現在は身体的なマターが社会的理論の中心になっている。
意味論的な理解(メイクセンス)を模索することが「情動への転換(’turn to affect’)」である:メイクセンス(理解する)ということは、意味(meaning)、認知(cognition)や意味(signification)には還元できない。
・スクリーン・スタディーズがやってきたように、具現化された知覚(perception)の理解は、「どのようにしてフィルムが作用するのか」を見ていくことである。
・テレビジョンスタデイーズも、 身体の媒介的な潜在性をに基づいてテレビジュアル消費における「理解」を考えようとしている。
・メディアテテクノロジーの経験や実践、移植、美容整形、摂食障害といった身体と具現化(エンボディメント)は、文化、カルチャー、科学技術との関係と、力として、考えられる必要があり、コーポリアリティ(corporeality、身体性)との関連で考える必要がある。
情動への転回(ターン・トゥー・アフェクト)は、主体化(subjectification)のプロセスにおける身体と具現化(embodiment)の役割の理解に関する問題と交差する。
・このプロセスにはもちろんイデオロギーや権力が影響するのだが、自動的な身体や脳神経システム、内分泌システムが権力が、理性の批判を受けずに(パスして)自立的に認知をもたらしてもいる。
科学史研究者のRuth Leys (2011a)が言うように、
情動(アフェクト)は非意図的。情動は全ての意味や信念、認知とは区別されるプロセスで、自動的なレベルで起こるものであり、前意識的な身体的リアクション、レスポンス、共鳴である。
・身体と感情の「マテリアリストセオリー」は、身体と具現化をどう理論化するのかという問いを無視してはいけないし、心と物質(mind and matter)という誤った二元論に陥らないようにしなければならない。
本書のとくに第1章で目指すのは、ボディ
スタディーズにアフェクトを導入することで、アフェクトとボディ
スタディーズの交差性および生産的な緊張をもたらすことである。
ルース・レイズ(2011a)によれば、現代の情動理論のマテリアリズムを避けるために必要なのは、非意図主義の系譜学である。
→高橋コメント:ブラックマンは、冒頭で情動が脳神経システムや内分泌系の生理的なシステムによって成り立つ前意識的な身体反応だということを指摘しているが、そのような意味での「マテリアルなもの」に還元せずに、身体を論じる、すなわち身体を非物質的に論じるという立場をとっている。
さらに、ルース・レイズを参照しながら、主観の意図intentionに還元できないという「非意図主義」の立場をとると宣言。
物質materialと主観的意図intentionの中間で身体現象を考えるという立場とまとめられます。
高橋自身は、身体のマテリアル性(脳神経システムや内分泌システム)をそんなに恐れることなく、もう少しそのあたりのメカニズムについても踏み込んで議論していっても大丈夫(それをやっても解放の政治ができなくなるわけではない)という気がしていますが、「脳に還元すること=危ない!」という脳のタブー視はフェミニスト・クイアセオリー界隈には根強くあることが確認できます。
「心の哲学」界隈の議論をきちんと導入すれば、必ずしも「脳=ジェンダー・セクシュアリティ抑圧的」ということにはならないと思うのだけれど。それは次世代である私たちが取り組むべき課題かもしれませんね。
アフェクト
スタディーズが人文科学者の関心として出現したのは
セジウィックとアダム・フランクの1995年論文で、心理学者サリバン・
トムキンスを分析したものだった。
トムキンスは1960年代の心理学者で、感情を生理学的考えた人。
トムキンスは認知理論に抗して感情は埋め込まれており、脳神経系に配線された反応であり、それは認知とは分離しているとした。これは、シャクターとジンガーの情動理論に基づいている。ルース・レイズはこれを心理学における非意図主義
パラダイムであるとして整理している。
感情を情動理論に持ち込む仕方で、広く受け入れられた見方を提示したのは
進化心理学者のポール・エクマンである。
また、レイズは、マッスミの2002年の論文を挙げて、
トムキンスとマッスミは「基本感情
パラダイム」を共有していると論じている。
→高橋コメント:心理学の基本情動論(悲しみ・怒り・喜び・・・などの8つの類型があり、これは汎文化的にみられるというような議論)をトムキンスはまぁまぁ受け入れつつ議論しているのに対して、マッスミは完全にこれとは別の議論をしています。
まずマッスミの「情動」概念は、心理学の基本情動論の「情動」概念とは全く異なります。同じだと考えると、全然意味がわからなくなります。したがって、このあたりのルース・レイズの議論は大雑把すぎです。(このあたりが一つの「系譜」とみなせるよ、ということを示したという点で、意義のある研究ですが!)
反意図主義の系譜学
情動の反意図主義として、「サブリミナル・
アーカイブ」の研究がある。これは、科学的・文学的に知覚される、見えないアニメイティングフォースの研究である。ジェイムズ、
ベルクソン、
タルドのこと。
また、19世紀から20世紀初頭にかけての、ボイス
ヒアリングや催眠術による暗示、テレパシーやそれらを関連する経験についての科学的議論があった。これらの議論は、心理学や
社会学や生理学の成立を生んだ。これらは身体の境界や人間と非人間の境界をめぐる
存在論である。
→あとで見るように、リサ・ブラックマンが紹介しているボイス・ヒアリングの研究は重要だと思います。韓国から戦争花嫁として渡米した女性の「幻聴」を傾聴することで、歴史的に抑圧され、語られてこなったものの存在が見えてくるという議論です。
パーソナリティの問題
意識は流れであり、人間の主体は明瞭な境界を持って他者から分離されているものではなく、多孔的porpusで透過的permeableなものである。
アート、サイエンス、人文学研究
情動
現代カルチャーセオリーの文脈において「ターン・トゥー・アフェクト」は、一つのアリーナとなっている。人文科学と自然科学をリンクするもの。すでに100年前の主体に関するスピリチュアリストの研究が、コミュニケーションに関する領域横断的な機会を提供していた。
取り憑かれることhaunting /声/分身