ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

ナオミ・ウルフ(2012=2014)と新しい唯物論フェミニズム

 
このツイートで言っていたのは、ナオミ・ウルフの『ヴァギナ』(2012=2014)ですね。
つまりね、こういうことなのですよ。
「神経枝がヴァギナに多くつながっている人、クリトリスにつながっている人、それぞれです。会陰の人もいるし、子宮頸部の人もいる。だから人によってセックスの反応が違うのです。
私はびっくりして診察台から落ちそうになった。だから膣オーガズムとクリトリスオーガズムがある? 神経のつながり方の違いのせいで?文化でも、育ちでも、家父長制でもなければ、フェミニズムでもフロイトのせいでもなく? 女性誌にも、女性の反応がさまざまなのはそれが感情から発するものだからだと書かれているではないか。あるいは「正しい」性的空想とか、社会に求められている女性のあり方とか、その人がどのように教育されたかとか、「罪の意識」があるとかないとか、どれだけ「解放」されているかとか、さもなければ恋人のテクニックとか。女性がオーガズムに達するかどうかは基本的な神経のつながり方によるだなんて、聞いたことがない」(Wolf 2012=2014:28)。
とウルフは論じて、この後、生殖器の神経分布の詳しい話に入っていくわけです。
ね、これって、neo-material feminismの一形態でしょ!精神分析でも、家父長制でも、罪の意識でも、解放度でもなく、身体の神経の配置の問題なのね、という論旨が。
言語的に構築されたものによって快楽の度合いが変わっているのではなく、端的に身体というマテリアルな問題なのだ、というふうに議論を展開していく感じが。
 
いや、「なんか違っ」「それは、ネオマテリアルフェミニズムとは微妙に違うのでは」というて声が聞こえてきそうな気がしますが、そうなんですよ(笑、強気)。
ネオマテリアルフェミニズムってのは、スタンドポイントセオリー(サンドラ・ハーディング、ナンシー・ハートソック)からのエリザベス・グロス、カレン・バラッド、ロージ・ブライドッティとかだろ、って思っているかもしれませんが、それは英語圏のものを輸入文化として学的に取り入れようとするときにそうなだけであって。
たぶん、「言語的構築」からの反転を行く「マテリアル」なものへのこだわりって、案外、例えば性的快楽をこういうふうに解釈替えして考察を深めていくというプロセスだったりして、こういう「感覚」が案外王道なのではと、私は妙に納得しました。さすがナオミ・ウォルフ、時代の波を読める人なんだよな、この人、と思い、色々腑に落ちております。まぁ、私は、たぶんこういう方向の研究はしないのですが。
(なぜなら、学的に面白いのと、王道フェミニズムとは少しズレるところがあって…学的に面白いのは、やはり先に挙げた論者たちですよね…うだうだ )。
 ・あ、女性器を女性の手に取り戻そう、愛称とかをつけようという流れは第二波からあるのですが、今回のウルフのはそれともノリが少し違う感じよね。