ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

社会学界隈における東大話法がマイノリティ排除的なのではないかという問題についてのメモ

東大の)社会学系の先生から院生へハビトゥスのような形で伝えられ、そして院生同士でなされるコミュニケーションの特徴として、相手の議論を打ち砕いたり、破ったり、穴を突いたりすることに重きが置かれ、「結局のところ、こういうことでしょ」ということを強い言葉で言える人がその場を制するというものがある。
以下、さしあたりこれを社会学界隈における東大話法と呼ぶことにする(東大院生に限らず、東大社会学講座系の先生の下で学んだ人にも見られる話法である)。この風潮はおかしいとこの10年以上ずっと思っていたが、最近のマイノリティ研究者排除が起きかかっている社会学の現状を思うと、やっぱりこれは深刻な問題点だなと思っている。
 
東大話法がもたらす問題は、「結局のところ、こういうことでしょ」に行きつくプロセスで、多くの「これが常識」「これが社会というもの」「これが現代」という「常識」の押し付けが発生していることにある。そのような現状認識が、権威ある先生や先輩から「中立的な事実」として提示されるだけで傷ついているマイノリティはたくさんいるように思う。しかも、「これが学問の作法」という言い方で、色々なことが意味も分からないまま押し付けられ、自分の議論が「作法」に則っていないから考察するに値しないと遇され、「それを理解していないのはあなたが勉強不足だからです」の一言で封殺されるという権力関係がある。これで悔しい思いをし、女性差別エスニシティ差別、セクシュアリティ差別、トランス差別なのではないかとモヤモヤし、いつか絶対あいつ(先生や先輩)を見返してやろうと思ったことがある院生は多くいると思うし、いまも再生産されているように思う。
 
たしかに学的な議論とは、相手の議論に対する反証を検討しながら、その議論の妥当性を高めていくところにあるけれども、その反証提起や批判的検討は、相手に対する礼儀を以ってなされるべき。ツイッター界では「殴る」という言い方があり、それが批判されてもいるが、社会学界隈でも(少なくとも東大院まわりでは)あまり状況は変わらず「相手の議論を叩く」とか「刺す」とか「ぶった斬る」というような言い方が日常的になされている。そして、(これは数年前までの話だが)その「斬り方」や「刺し方」がいかに鮮やかだったかということが、研究会後の雑談や食事会での主要話題となっていた。
しかし、アカデミックな議論をするときに本当にそういう態度が必要なのか?については、一度立ち止まって考えてみてもいいのでは。「叩く」のではない形で、ふつうにありうる反証を提起したり、論理の飛躍を指摘したりすればいいのでは。とにかく「強い」ことを言って一撃で人の研究を「ぶった斬った」人を「鋭い」とか「頭がいい」とか「わかっている」という形で評価する風潮はまずい。アカデミックハラスメントの温床である。
 
アカデミックな場におけるマイノリティ排除を防止するためのガイドライン的にまとめるならば、
1,人の議論に対してコメントをする人は、どの点がどのような理由で問題なのかの理由説明と、ではどうすればいいのかの説明を明瞭に行う説明責任がある。とくに、教育的立場にある者は、それが「(学問の)常識」だからとか「常識を踏まえて行動するように」などの言葉で済ませてはならない。
2,相手を傷つけることを言ってはならない。
 
オートセオリーやオートエスノグラフィーなどの手法が学的な方法として確立し、「自分」のことを学的に論じるという潮流が確立してきている以上(そして、これは社会学文化人類学が内部観察性を強めてきたことでもたらされる方法論的洗練化である)、「相手を傷つけるようなことを言ってはならない」という原則は広く共有されるべきだと思う。
 
「相手が傷つくかどうかを考えていたら学問的な議論なんかできない」と思った人は、かつて「女が職場に入ってきたら仕事にならない」と言いながらセクハラを許容していた時代に思いをはせ、自分がそれと同じことをしているのではないかと一度考えてみることが重要なのではないかと思う。
「相手を傷つけないように注意を払いながら、自分の考えを伝える技術」は、努力して身に着けるに値するものであると私は思う。
 
以下は補足説明
・そういえば、昔、研究会が終わった後に「○○先生、けっこうひどいこと言ってたね」と慰められたことがある。「まぁそういうもんだ、頑張れ」的なノリだった。だが、周囲の人が「ひどいこと」と理解するようなコメントになっている点で、コメントした人(この場合の「○○先生」)は説明責任を果たしていなかったと考えるべきなのではないか。
 
・私自身はこのような環境のなかでサバイブするために、東大話法テクニックを身に着けてきたので、男性が多い会議や研究会では自覚的にこのテクニックを使っている。とくに、”女性的な「ニコニコ顔」(ポジティブな雰囲気、なるべく明るく柔らかな声)で東大話法的に喋る”というテクニックを習得するまでにはけっこう時間がかかった。長い時間をかけて試行錯誤した結果、これが「一番自分の意見が聞いてもらえる」方法だと理解した。
また、この数年は、相手がこのモードだと分かったら、その場でスイッチをパシっと切り替えて、この東大話法モードで話すということをやっており、相手が「男性」だから最初から東大話法モードというふうにはしていない。当然のことながら、自分の方が権力がある関係性の時は最後まで東大話法モードは使わないようにしているが、「場」(例えば、学会とか偉い人がいる研究会とか自分の研究を発表している時とか)によってはそうせざるを得ないときもあるのですごく申し訳ないと思っている。そうやって細かく調整するのは認知資源を使うが、その方がマウントされる率が下がりサバイブ率が上がる。
今後さらに、私の年齢が上がっていけば、年齢分の権威が否応なく発生するので、その分、東大話法モードを使うことも減ってくるだろうと期待できる。この点において年を取ることは良いことだと実感している(そろそろお誕生日ですし)。
 
・そういう、本当にくだらないけど、自分が生きのびるためには習得せざるをえなかったと思っている事柄だからこそ、ここまで述べてきたような社会学界隈で流通している東大話法に対する嫌悪感が、私の中ではかなり強いし、アンテナが立ってしまっている状況。
 
・また、私は社会学を始めてから20年がたち、「社会学という学問上の作法」として何が一般的で、何が論争中なのかはだいたい分かってきているので、「学的に当たり前のこと」という言葉が「下」の人に向かって発せられるときに何が不当に押し付けられているのかや、そのような不当な押し付けという権力発揮がどのような形で発生しているのかが、明瞭に見えるようになっている。で、見えている以上、声を上げるべきなのでは、という気がしているという状況です。
 
*なんか、Twitterに連投しようと思って作った文章なので、140字くらいでひとまとまりになっているぶつ切りの文章になってしまいました。部分を曲解されて誤解されるのが怖いので、連投はやめておきます。
*このように自分が片足を突っ込んでしまっている事柄について、自分がそれにどうかかわっているのかをも記述しつつ考察していくという「内部観察的な方法」が、これからの社会学的な知の発展に寄与すると、私は思っています。
したがって、上記のような文章は具体的に誰かを告発したいとか、誰かの責任を問いたいという目的の下に書かれたものではありません。内部観察的な社会学の試みの一つと思って書いています。というわけで、私の身近な方々、このような文章を読んでもどうか怒らないでください。あなた方個々人を攻撃する目的で書かれたものではありません。