ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

『天気の子』の物語原理の見えにくさ:これまでの新海作品から『天気の子』へ  

*ネタバレありです。
 1.
新海誠はロマンティックの極北であり、切なさの巨匠だ。
  ロマンティックなものは、シニカルな態度で批判的に論理を楽しむという鑑賞態度を拒む。ノれるかノれないかだけが問題になってくる、それがロマンティシズム。
 
80年代的ポストモダンは「距離化し、乖離的態度で鑑賞すること」が「オタクの矜持」と考えられていた。それに対して、新海のとにかくロマンティックにベタに自意識を語り続ける感じは、2000年代オタクの新しい感性だと思えたし、新しい可能性を切り拓くものだと私は思っていた。 
 
新海作品において、女性はつねに「憧れの存在」であり、「ロマンを構成する一つの重要なパーツ」でしかなく、新海がステレオタイプ以上の生きた女性を描けないことは知っている。その点を脇において議論を先へ進めてもかまわないと思えるくらい、新海作品が鑑賞者をロマンへ引っ張っていく力にはすごいものがあった。
  
なにより、
新海作品は、冒頭、一発目のセリフで、わかりやすく文学的な言葉を主人公少年に吐かせる。それによって一気に日常からの美学的距離を作り出し、鑑賞者を引き込んでいく。私はその主人公少年のナイーブなセリフがけっこう好きだった。
 
「一発目のセリフ」というのは、例えばこんな感じ。
 
雲のむこう、約束の場所』「いつも何か失う予感があると、彼女はそう言った。…中学生の僕はその言葉がよくわかってはいなかったけれど、彼女のその言葉は、僕の心を震わせた。」 みたいな。
 
君の名は。
「朝起きるとふと泣いていることがある。」「それまで見ていた夢は、とても鮮明だったのに、なぜか思い出せない」「ただたしかに何か重要なものを見ていたはずという感覚、そしてそれは消え去ってしまったという感覚だけが残っている」「そのことに、僕はなぜだかとても心を引かれていた」みたいなかんじ。
 
これ以上ないほど理想化された「日常風景」の絵を見せられながら、こんなセリフを言われると、もっていかれないはずがない。私は、いつも新海作品の冒頭でもっていかれていた。
 
しかし、
今回の『天気の子』に関して、私個人は残念ながら最後までノれなかった。これは本当に残念なことだった。あまりにも悲しかったので、その原因を分析してみた。
その結果、『天気の子』は、従来の作品と比較して、物語を駆動する原理が鮮明ではなく、それによってロマンの強度が足りなかったのではないか、というのが今のところの結論になっている。
 

2.ロマンの強度

物語というものはどれも、いくつかのパーツから成り立っている。個々のパーツの質と組み合わせによって、ロマンの強度(人々の心を動かす強さ)の強弱が発生する。
・ロマンの強度と時代の想像力はリンクしているところが、社会学者的には一番気になっている。ただ、そこを社会学的に論じる(とくに査読が通るような論文として書く)ことはすごーく難しく、そのあたりがつらい。見田宗介のように書いていいなら、書けると思うのだけれど、現代でそれ許される?(社会学とみなしてもらえる?)
 
例えば、初期新海作品に共通するのは、ボクとキミを隔てる時空間。
彼女と彼女の猫』は、人間と猫という距離で、ボクはキミを見続けることしかできない。
ほしのこえ』は、宇宙と地球という時空間に引き裂かれ、少しずつメッセージが届くのが遅くなっていく(この設定は、すごいよね。この設定だけである種の強い感慨がうまれるよね)。
 
もう少し細かく物語を構成するパーツを分析してみると、
雲のむこう、約束の場所』(2004)の物語を構成している要素(パーツ)は、
・戦争、国境線
・国境線のむこうの巨大な塔
・それをいつも見上げている僕、そこまで飛びたい
・親友(男)と、親友と僕の双方が気になっている、血筋の良い病弱・清楚系な女の子
どれも20世紀の戦争の想像力の延長だが、これだけ揃えば、ロマンティックな物語は自然に駆動する。
 
 『君の名は。』(2016)は、
・自然災害
・東京から遠く離れた田舎の一地域がほぼ全滅、
・「あそこに避難さえしていれば、助かったのに(それは後知恵でしかなくて、僕は見ていることしかできなかった)」という無力感
・「ボクが何かでなにかできていたら、あの女の子は助かっていたかも」という、生き残った者全員が薄く広く共有する罪悪感
 
 私は、『君の名は。』を見たとき、東日本大震災の経験はこのような想像力の形をとったかと感慨深く思ったものだ(念のため言っておくが私は宮城県出身者で、親戚一同宮城に住んでいて被害にあったが、私自身は東京在住のため震災にあってはいない)。そして、大規模自然災害の経験をこのようなパーツ組み合わせで物語にして駆動させた新海誠の遠慮のなさと図太さと繊細なロマンスのできのよさに、「やっぱり新海すごい(いろんな意味で)」と思った。
  
で、『天気の子』なのだが、私が見た限りでは、
・なぜ「親を亡くした可哀想な中学生の少女が、みんなのためになる(=「人柱」、民俗学的な「巫女」を原型とするもの)ことで自分の存在意義を獲得しようとする」という痛々しい話にせざるをえなかったのか、
・自己犠牲をしてでもみんなのためになることをしようとする少女を止め、二人で私的な幸せを獲得しようとする主人公少年に、なぜ物語のかなり早い段階で、ピストルを持たせなければならなかったのか、
 
といった点の必然性がよく分からなかった。
 
穂高が持つピストルは、ヒロインを助けることができる力の象徴だ。その点は分かる。
(具体的には、ピストルにちょっと触れた後、勇気を出して駆け出し、陽菜が風俗業に引き入れられそうになっていたのを止めた。しかも、はやくも中盤くらいで1発ぶっぱなしている。早い段階から少年が少女を救う力を持っていて、助けることに成功するという物語への布石を打っている。
それによって、少年がピストルを持つ『天気の子』は、セカイ系の物語とは異なる結末になる。セカイ系の物語とはすなわち「キミが自己犠牲的にセカイを救い、ボクはそれを止められず、キミを喪失する悲しみを受け止める」というもので、セカイ系主人公は、徹底的に無力で、何もできず、見ていることしかできないということを宿命づけられている。穂高は、これとは異なる。彼の故郷の島ではういていた(社会的疎外感を持つ)存在だったが、東京にやってきて運命の少女と出会い、少女とともに世界を守るミッションを果たすことで、「成長」した(若干ワイルドなアクション映画主人公もできちゃう少年になった)。
そういう流れは分かるのだけれど、なぜ、2019年現在、少年が新宿の歌舞伎町でピストルを持たされなければならなかったのかは、やっぱりよく分からない(映画の後半部でアクション映画風にしたかったからというのは、不十分な理由だ)
(新海作品において最後に二人がまともに結ばれるという物語展開がやっぱりなんか不自然という、そういう問題なのかもしれない)
 
じわじわと雨に沈んでいく東京は、「このままではいけないということが分かっていながら、誰も変えることができず、どんどん悪化していく現状をただそのようなものとして受け入れるしかない」現代社会の象徴だろうと思う原発はなくした方がいいということはみんな分かっているが、なくせていないという現状を、私たちは受け入れ始めている)
 
『天気の子』の物語構造をまとめるなら、
・自然災害が日常になった社会
・社会を変えるため、能力を持った少女が自己犠牲的に世界を救おうとする
・少女の自己犠牲を止め、二人で(平凡な)幸せをつかもうとする少年
  
だが、これだけだと、物語駆動力が足りない気がする。
そして、これ以上の全体を統括している物語の原理が、私には見えてこない。
つまり、どのような構造がこの物語を駆動しているのか、その駆動原理を、私がつかむことができなかったということだ。
 
ただたんに、私が、時代の想像力を捉えきれていないというだけの可能性もあるし、『天気の子』が、新海の持ち味である強烈なロマンを発生させる物語構造を備えることに失敗したということなのかもしれない。どちらなのか、いまのところ判断ができていない。今後、良い評論をたくさん読みたいと思う。
  

3.『天気の子』の評価すべき点

さいごに、
『天気の子』で、確実にこの点は評価できる(面白い)と思ったのは、
新海が自らの手で、「セカイ系」に幕引きをしたことだ。
 物語の最後、高校を卒業した穂高が、須賀のおじさんに会いに行ったとき、穂高は陽菜を救って世界を救えなかったことを謝る。すると、須賀圭介は、「お前らがなんとかできる問題じゃねーだろ」的なことを言っている。ヒロインと主人公少年の二人に世界の命運がかかっていたのがセカイ系なのだが、「少年少女二人の力で世界が救われるはずねーだろ」ということが作中で言われたわけだ。セカイ系が相対化されている。
 
そのうえで、
「それでも僕たちは、この世界が良きものであるように、そして良きものとなるように、祈り続ける」というかたちで、セカイ系メンタリティ(ボクとキミの力で世界を救いたいという希望)を日常の中に着地させている。
 
日常の中でなおセカイ系をやり続けるという覚悟のようなものを感じさせる結末はちょっと迫力のあるものだったと思う。
 
2020年12月22日:表記ゆれなどを微修正。
2020年12月23日:下記を追記。
 

『天気の子』に関する新海のインタビュー記事。セカイ系との関係についてはこう語っている。

『天気の子』興行収入100億円突破! 新海誠インタビュー「世界を変える」 | アニメージュプラス - アニメ・声優・特撮・漫画のニュース発信!

──そういった歴史的な背景や、神秘的な要素も含めた世界の成り立ちのような大きい話と、男の子と女の子の個人的なストーリー。その構図はかつて「セカイ系」とも呼ばれました。でも『天気の子』は明らかに、セカイ系とは似て非なる物語を語っていますよね。

新海 そうですね。セカイ系って定義が曖昧なところもありますけど、一般的には「個人と世界が直接つながって、社会が存在しない」という言われ方を、かつてよくしていたと思います。そういう意味で今回の『天気の子』はある種、典型的なセカイ系のようにも見えるかもしれない。でも今回は、明快に社会がある物語だと思うんですよ。帆高が社会から逸脱していく話、彼が社会のレールから少しずつ外れていってしまう話です。逆に言えば、それは自分たちが生きているベースの社会がなければ描けないことですから。
 2000年代初頭にセカイ系的な想像力があったのだとしたら、今は少しかたちが変わってきましたよね。その意味で『天気の子』は、かつて呼ばれていたセカイ系ではないとは思うけれど、でもあの時、僕たちが描こうとしていたことの最新版としての映画にもなっているとは思います。
 

 

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