ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

【#シンこれフェミ 1】坂爪さんのコーディネートによる青識さんとの討論会をなぜやるのかについて(フェミニズム研究者向け)

坂爪さんのコーディネートで、青識さんと討論会をします。
高橋が出ていく理由
1、坂爪本に良い意味で煽られたため:坂爪さんの今回の新刊本『「許せない」がやめられない』(2020)に煽られたところが一番大きいです(笑)。
坂爪さんは、今回さらに新しい一歩を踏み出しておられまして、同書では「女が許せない」「男が許せない」「LGBTが許せない」という立場をとる人々によってどのような議論がなされているのかをまとめて下さっています。
で、これらの人々を「ジェンダー依存」に陥っている人々と呼んだうえで、坂爪さんは次のように述べている。
ジェンダー依存の人に寄り添っていく自助グループや支援団体の立ち上げは、これからのフェミニズム男性学クィアスタディーズに課せられた使命ではないだろうか。
ミソジニストに届く言葉を生み出せなかった男性学、ツイフェミの跋扈を防げなかったフェミニズム、ターフたたきや当事者の二次利用によって多くの被害者を生み出してしまったクィアスタディーズにできることがあるとすれば、ジェンダー依存の人を否定・排除することではなく、同じ言葉や痛みを共有する「隣人」として、彼らと細く長いつながりを作り続けることではないだろうか。(p.279)
(「なぜ「すべて(=ジェンダーセクシュアリティ界隈の多くの人)」を敵に回すようなことをあえて言うのだろうか、この人は」という気持ちを持つ方もいらっしゃるかと思いますけど、そこは上野千鶴子先生のまな弟子ですから、血は争えません(笑、何の話だ、せめて血ではなく知か?(でも、社会学の場合はとくに研究室を聞くととりあえずのバックグラウンドが分かるみたいなところはあって…以下略))
私としましては、すべてを敵に回しても一つの正しいこと(=自分が信じたこと)を言おうとする坂爪さんの姿勢は尊いものだと、心打たれてしまいました。
 
上記の坂爪さんの主張そのものに賛同するかどうかは置いておくとしても(もう少し穏当な言い方はできそうとか、色々確認した方がよさそうとか、そういう細かいことはあります)、SNS上で坂爪さん自身傷つきつつ、同様に自他ともに傷つけあっている人々を見て、一冊本を書きあげたことは本当に偉いことだなぁと思うし、こういうひどい状況にあるのにそれを静観しているフェミニストは何なんだ? という訴えに、たしかにそうだよなと納得してしまったわけです(こういうのを煽られたというのではないかと思います、たぶん?)
 
「いやいやいや、『静観しているフェミニスト』だけじゃなくて、ちゃんと日頃からツイッターで活動してるフェミニストもめっちゃいっぱいいるよ!」っていう話はあると思うのですが、私個人はやってなかったので、そうか、ちゃんとウォッチングして運動やツイッター上の「フェミニスト」たちが行き過ぎてたりしたときには、指摘するということはした方がいいよな、と思ったという次第(でも、ツイッターは文字数少なすぎてなんか私と相性が悪いので、たぶん別にツイッター活動をしたりはしないのですが)。
 
政府主導の「フェミニズム」政策が始まる前の第二波フェミニズムの時期の理論家は、運動が行き過ぎていたとしてもある程度放置してきたところがあったと言えるんじゃないかと思う(←これから実証する仮説。論文とか読んでると吉澤夏子さんとか坂本佳鶴恵さんとか瀬地山角さんとかが「ミスコン粉砕は行き過ぎ、正当化の論理が成り立たない」というようなことを、ちゃんと書いているんだけどね(『フェミニズムの主張』1992、勁草書房)。でも運動の声をかき消すほど大きな声で主張しまくったわけではなかった)。当時は、フェミニズム内部で戦うのではなく、なるべくまずはフェミニズムそのものの輪を広げることが重要だという意識があったように思うし、それは正しい戦略だったと思う*1
 
でも、政府主導で「フェミニズム」政策が進むネオリベラリズム時代には、逆に、権力によってフェミニズム的なものがどのようにカモフラージュ的に使われてしまっているのか(=権力が本当の意図を隠すために、社会的正しさを確保するものとして「フェミニズム的な」言説を使っているところがあるということ)を的確に把捉しながら、フェミニズムを進めていく必要があると思う。……なんかとりとめがなくなってきたけど、第一のまとめ!
 
●高橋はなぜ出ていくのだろうか?とお思いになった方で、日ごろツイッターをやっていらっしゃらない方は、まずは、ぜひ坂爪(2020)をお読みくださいませ!
 
 
次に、日頃ツイッターをやっている方で、高橋はなぜ出ていくのだろうか?とお思いになった方に向けて。
 
 
2、00年代バックラッシュとは異なる感触があるアンチフェミニストに対して、個人的に興味があるため
 
「同じテーブルにつかせるな」をどう考えるか
日ごろツイッターをやっていて、ツイッター上でのフェミ、ジェンダー関連の状況をよく知っていらっしゃる方は、おそらく「青識亜論を同じテーブルにつかせるなんてけしからん」という気持ちを持っていらっしゃるのではないかと思います。
「差別主義者」と同じテーブルに着いてしまうと、それを「対等な」(検討するに値する)議論だと認めることになるので、やめた方がいいというものです。たしかに、現在、LGBTQやエスニシティに関するヘイトスピーチをする人たちに関してはこの議論が当てはまると思います。が、シス女性に関するフェミニズムの議論においてもいまだにこれが当てはまると言えるのだろうか?(そもそもシス女性と一括りにできるのかとか、女性関連といってもものやテーマによってかなり状況が違うぞとか色々あるんですが)という疑問がちょっとあります。いや、うーん、一般論にしてしまうとちょっと判断しにくくなりますね。具体的に考えましょう。
 
今回の件に関して、出ていかない方がいいのではないかと考える方は、具体的には、私が出ていくことで、
① 私個人にとって不利になるだけでなく、
② フェミニズム全体にとっても不利になる
(=逆に言うと、得るものは何もなくない?)
というふうに考えていらっしゃるのではないかと察します。
 
この2点はどちらも論駁しにくくて、事実半分くらいは当たっているのですが、私個人の見解としましては、
 
②→フェミニズムが多様化した今、私一人が出ていったところで別に「フェミニズムの代表」にはなりえない(まぁアンチの人たちは「代表」とみなすのだからフェミ全体に弊害があると言われたら返す言葉はないのですが、しかし政府主導の「フェミニズム」政策が進む現在でもなお、本当に「利益/不利益を共有するようなフェミニズム全体」というようなものはあるのでしょうか。80年代までと、現在とではフェミニズムをめぐる状況は異なっています)。
しかも、私はポストフェミニズムの専門家の中の、さらにポストフェミニストという、フェミニズム界隈のなかの「際物」(?)の専門家なので…(以下略)
 
①→個人的には、2000年代のアンチフェミたちとはなんか感触が違うような気がしていて、そこをちょっと知りたい気持ちがある。『社会運動の戸惑い: フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動 』(2012)の2020年代版をやりたい*2ということですね。
この間の打ち合わせで青識さんが自分のことをハイエキアンだと言っていたりして、その言い方とかで「はぁそうかそうか!」みたいな面白さがある。
ポストフェミニズム状況の現代を語るさいに、ツイッター上でのフェミニズムに関する議論抜きに考えることはできないのは事実なので、せっかくの機会をいただけるならフィールドワークした方がいいかなみたいな気持ちであります。ゆるっ。 
・あと「フィールドワーク」を公開でやる必要はないんですけどとか色々突っ込みどころはありますが。ただまぁ公開でしか聞けない話っていうのもあるわけで(←研究者向けの文章だと、注釈に注釈を重ねる文章になるの、おもしろい。読みにくくてすいません。)
 
その他の理由
その他、コロナで授業減ったこともあって若干生活苦しいからたしにしたいし、という実利的な(でもそれなりに生活かかっている)部分もあるし、
せっかくわざわざ本読んで企画書書いて声かけてくださったのだし、断るまでもないかなぁー、パワポ作るの1時間もかからないしなぁー、というような付随的ないくつかの理由により、やろうかなという判断に至った次第です。
 
討論会で何を喋ろうか
私は、
【1】今の「フェミニズム政策」と見えるものは「グローバル資本と結託した政府」主導で進んでいて、アカデミックフェミニズム(思想)も、運動も、ツイッター上のフェミニズムも、国家が法制化して進めているような「フェミニズム」にはほとんど影響力持っていないよ(政策系のフェミニズムを除く)」という現状認識を共有したうえで、
 
【2】フェミニズムのレトリックを「使って」なされる法整備等に見られる、ネオリベラリズム権力のあり方を読み解くという社会学的な分析をしようかなーと思っています。
 
フェミニズムは、現実の個人としての男性と戦うものというよりも、権力(「家父長制」や「男性優位社会」と言われてきたもの)と戦うものであり、表現の自由派も、その原理からいえば「規制する国家権力‐対‐市民」のはず。両者はともに権力に抵抗する個人や市民のはず。
なのに、有効で適切な「権力分析」が不足していたり、それがツイッター上でのフェミ議論や表現の自由戦士たちに届いていない(響いていない?)ために、弱者同士が戦い合いつぶしあう状況に陥っているのではないかと思われます(ちなみに、権力の強大さとそこでの強者から見れば、われわれは皆、圧倒的に弱者です)。
このような見立てから、やはり権力分析、ネオリベラリズム分析が重要だなぁと思っている次第で、そこらへんの話をしつつ、フェミニズムは何を守ろうとしていて、何を主張・要求しているのかをまとめるというかんじです。
 
というわけで、フェミ対アンチフェミ!が期待されているという空気はびんびんに感じてますが、思いっきり空気を読まずに、権力分析とかやります(笑)。アカデミックフェミニズムの伝統を踏まえれば、ここで滔々と権力分析をせずして何をする?ってかんじですからね(実際には20分しかないので、「滔々と」はできなさそうですが)。
「せっかく戦うなら、確実につぶせる敵とではなく、みんなで一緒により大きな敵と戦おうぜ!」って話です。(←いや、私はあまり戦うつもりはないんだけど、なんかノリでそうなった。市民同士の戦い(これはハーバマス的な「熟議・討議」とはまたちょっと違うよね、熟議は重要よ)をするより、いい文化作品に対する批評文を書いている方が生活が充実するし、やる気がでるタイプ…)
 
そのようなわけですので、ご関心をお持ちになった方や、高橋を見届けてあげようという心優しき方は、ぜひぜひご来場ください!
 
*これからツイッター上でフェミニズム活動をされている方向けとアンチフェミさんたち向けの説明、というか事前のウェルカムメッセージを、(会の当日までには)書けたら書こうと思っています。
とくに、まずはツイッター上でのフェミニズム活動をされている方たちのことを学術的には第四波フェミニズムと言うのですが、彼女ら彼らの呼称は「ツイフェミ」でいいのか?これは自称ではなく、他称(つまり、アンチさんとかが呼んでいる名称)ですよね?という点の確認からさせてもらいたいというようなことがありまして……ええ、すいません、またそれ関連については、丁寧に書きます。
 
 
追記。
おーっと、いま発見。この討論会がWANに掲載されたようですが、この掲載判断をしたのは、主催者とWANで、私には判断権限がなかったということは書き記しておきますー(念のためね!)
 
さらに10月25に追記。
「ツイフェミ」は蔑称だというご指摘をさしあたりお一人からいただいたので、上記、地の文で使っていた「ツイフェミ」1カ所を「ツイッター上のフェミニズム」に修正しました。まだ残ってたらごめん(←編集者さんや校正・校閲の方にめっちゃお世話になるタイプ)。
 
さて、この新勢力フェミニストは何て呼ぶのが適切なのかしらねぇ?英語圏SJWみたいな自称は成立していないのかな? あと、できればざっくりした年代層や、いつから、なにをきっかけにツイッターで発信するようになったかなどの基礎データを収集したい。
しかし、グーグルフォームとかで一斉にばらまくやり方でやると、アンチさんたちが成りすましで回答してしまって正確なところを取れなかったりする可能性がありそうで、この点の対策を取らずにやったら査読論文で出した時に方法論に不備があるって絶対指摘されるよね。スノーボールサンプリングでのグーグルフォーム調査かなぁ。
 
どなたか、ツイッター上のフェミニズストたちの基礎データを収集するいい方法論を思いついたら教えてください(っていうか、興味のある方がいらしたら、共同研究しましょう)。

*1:それでも当時も激しいフェミニズム内部の戦いはあり。

*2:まだ迷い中、もうちょっと色々調べてみて面白そうだったり、やれそうだということになれば、ですが。