ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

こういうジェンダー論の教科書がほしい 

ジェンダー論の教科書として、こういう論点がまとまっているものがあればいいのに、と思っていたのだけれどなかったので、自分でレジュメつくった。(2019年度にやった「身体文化論」の授業レジュメのいくつかを公開します)
1.売買春をめぐる現在の世界の社会政策のながれ。とくに後半のオランダモデル(売買春の合法化)/北欧モデル(買春の犯罪化)が、EU圏内の人の移動の活発化の中で何をもたらしているのかという論点は、けっこう重要だと思うのだけれど、日本語文献でそこらへんを、政策の観点から、詳しく論じている文献を見つけることができなかった。ので、調べられる限りで調べ、あとは論理的に推論できる限りで喋った。(→「身体論 売買春 第9回」)知っている人がいたら、ぜひ色々教えてください。
 
2.人工中絶をめぐるキリスト教アメリカでの議論と日本での議論を対比的に論じる議論。人工中絶の権利については、アメリカと日本では扱われ方が全く異なっているがゆえに講義の話として面白いだけでなく、「女性の身体」がどのようなポリティクスに巻き込まれているのかを知るうえでも重要。
 アメリカでは、人工中絶の権利が政治問題化し、2000年代以降でさえ国を真っ二つに割る論点になっているのはよく知られていることだが、なぜそういう事態になったのかを1970年代から80年代の経緯を追いながら考えていくことは、重要だと思う。
 また、同じ「人工中絶」が、日本では全く異なった形で受け止められ、異なった政治的対立構図を形成してきた。日本の保守派はアメリカほどの大きな反対運動を形成せず(宗教や習俗によるものだろう、っつーか、ピル認可には異常に厳しいのにね)、人工中絶を女性の自らの身体に関わる権利だとする女性団体への反対勢力となったのは障がい者団体だった。「出生前検査による選択的中絶は障がい者の存在を否定するものだ」というのがその主張。このように女性と障がい者団体という、社会的弱者が互いを潰しあうような対立構造になったときには、この対立によって一体誰が得をしているのかを考えることが重要。この運動史からは、現在の我々も学ぶべきことが多い。
 「選択的中絶が障がい者の存在を否定するものだ」という主張と、中絶は女性の自らの身体に対する権利だという主張の対立を調停する一つの方法は、

・健康な子を持ちたいという親の感情、そのための技術へのアクセス権の要求と、

障がい者が差別されずにこの社会で生きていく権利の要求、

この二つの権利を同時に実現する社会政策のあり方を、女性団体と障がい者団体が手を携えて要求していくということだと私は思っている。(→「第10回 人工中絶 身体論」)

  どちらもけっこう政治的な話題だけど、すでにこれらに関する学術的研究の蓄積はかなりあるので、きちんと文献を引いて整備して慎重に書けば、書けない問題ではないと思う。

 社会科学としてのジェンダー論の面白さは、ジェンダーに関する或る社会問題ジェンダー関連の問題は、多くの場合、人々の身体や習俗や習慣や常識に直結しているものであるがゆえに、人々の感情を逆なでするようなものであることが多いのだが)を見ていくことで、その問題を構成している「社会」が見えてくるというところにある。

 例えば、1では、徹底して制度の話(売買春に関する法の変遷とか)をしているのだが、それを見ていくことで、なんだかこうオランダ(ドラッグも一部合法だし、売買春も合法で、ハームリダクションの思想で一貫している、リベラリズムの最先端)/北欧(買春を犯罪化するという男女平等主義の最先端)というお国柄のようなものがくっきりと見えてくるし、それがEUという「グローバリズムの最先端」の中でどうなっているのかを具体的に考えることもできる(通常、例えば日本とかが買春の犯罪化をしたら、アンダーグラウンド化してさらにやばくなるというのが目に見えている。なぜ北欧でそうならないのかというと、ここにはEU圏内で移動しやすいというのが効いているのではないか。つまり、本当に買春したい人はオランダに合法的に買春ツアーに行っているのでは?というのが私の推論なのだが、どうなのだろうか。だれか専門家、教えて!)。

 2を見ていくと、キリスト教国/日本という宗教的・文化的特質がみえてくる。宗教による違いはもはや個人レベルで比較してもあまり見えてこないけど、社会レベルで比較すると、その社会が持っている経路依存というのかなんというのか、社会にはその社会固有の思考パターンみたいなものがあるなぁということが、ちらっと見えたりする。「お国柄」みたいな話は、ちょっと世俗化しすぎた(大学生ウケを狙いすぎた)話ではあるが、社会科学としてのジェンダー論の面白さは、このようにジェンダーを見ていくことで「社会」が見えてくるというところにあるんじゃないかと、社会学者の私は思ったりしています。

 というわけで、ジェンダー/セックス概念の区別とかも、重要なんだけど、もうそれはポストモダンフェミニズム脱構築した話でもあるし、現代のジェンダー関連の社会政策の変化(官製フェミニズムと言われているものや、EUの官僚フェミニズムベルベット三角同盟)と言われているようなものも含めて)、女性運動のNPO化の概観とそれをどう受け止めどう評価していけばいいのかなどについて、領域横断的にまとまっている教科書が欲しいなぁと思っています。
  一人で何もかもの領域の動向を勉強し、レジュメを作るのは大変。だけど、喋るべき領域の社会政策は多い。だから、教科書ほしいという話でした。
 
 
 
 
 
 
このレジュメたちについて
 私は、鷲田清一とか西村清和とかを読んで大人になった人間なので、「身体文化論」のお話を頂いたときは「ぜひやりたい!」とすぐに引き受けたのですが、開講している大学自体がそんなに多くなく、定番の教科書のようなものもなく、授業構成はけっこう苦労しました。結局、ジェンダー論も混じった感じの構成になりましたが、それはそれでよく、全体としても充実したものになったとひそかに自負していたりします。
 実際、授業をやってみて、やっぱり「身体文化論」という開講科目はすごく重要だという気持ちを強めました。「身体文化」に関する学生さんの食いつきも良かったです。私がやらせてもらった某大学は、なんというのですか、こう良い意味で文系エリート意識が強い人が多く、また多様な学部学科の人が受講できる科目だったので、多様な観点から「身体文化」の話を聞き、考え、意見してくれたり、レポートを書いてくれたりし、私が予想していなかった角度からのコメントがけっこうあったので面白かった。
 この授業は、サバティカルでお休みの先生の代講で、当初から1年だけ担当の予定だったので、このレジュメたちは今期はもう出番なしです。すでに自分でもいくつかミスを見つけており、問題はあるのですが、修正しつつ、ずっと使い続けたいレジュメでした。まぁ、またどこかで今後、使えるときも来るでしょう。今期は「家族社会学」担当が多いから、がっつり使うことはできなさそうだなぁ。
 身体文化論を担当することになった方や、身体文化論に興味がある方、あと、この記事の主旨でもあるジェンダー論関連に興味のある方(とくに、私同様に、ジェンダー論という大学の授業で喋るべきは、男女平等社会を作りましょう、◯◯は女性差別ですという道徳ではなく、ジェンダーをめぐる社会政策の話であり、領域横断的にがっつりそれを喋ることが重要なんだよ!と思っていらっしゃる方の、お役に立てればいいなぁー(自分が検索した時に、こういうのをまとめてくれている人がいたら、ありがたかったな)とという気持ちで、ミスがあったりして恥ずかしいところもありますが、公開します。
 ご使用のさいには、一応、念のため、コメント欄にその旨、書き込んでいただけると助かります。
2020年3月31日記