ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

00年代東浩紀再考(2)「動物化」とは何だったのか

「00年代東浩紀再考(1)」の議論をまとめると、
大きな物語」がなくなると、救済されないっていうか、なんていうかちょっと悲しい気持ちがする。この悲しい気持ちについてきちんと考えてみようというのが私の主張でした。
 
「00年代東浩紀再考(2)」では、データベース消費の問題点については、当時、こんなふうに議論されていましたということをまとめます。
 
 
 4.『動物化するポストモダン』(2001)
 

 
世界像が近代の世界像(ツリー・モデル)からポストモダンの世界像(データベース・モデル)になる。この時「人間性」はどうなるのか?「動物化」する、というのが東さんの議論。
 
物語享受における深層―表層―「私」の関係の仕方が変化することは、「私」の欲望の質的変化を引き起こす。それが「動物化」という話。
 
では、欲望の形は具体的にどう変化するのか?
当時は「動物化」が流行語としていろんな人によって用いられたので、多義化しているのですが、教科書レベルの心理学の用語で整理するのが一番わかりやすい。マズローが基盤にしている成長欲求/欠乏欲求の概念を使うと、
 

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マズローの欲求階層説

(『心理学』有斐閣、2013、p.194より引用)

 
社会の「動物化」とは、
「成長欲求」充足が少なくなっても、「欠乏欲求」の充足だけで満足して生きていける人間が増えることを意味する。
・欠乏欲求とは、満たされれば消えるような欲求:空腹、睡眠、性器的な欲求など。
・成長欲求とは、望む対象が得られれば、さらに欲求が増大する(成長する)もののこと。「他者の欲望を欲望する」という欲望の機制に基づく欲求や、自己実現欲求など。主体的なセクシュアリティ欲求もこちらに含まれる。
・(コジェーブは成長欲求=欲望、後者を欠乏欲求=欲求と区別しているらしい。しかし、東さんのコジェーブまとめを読む限りでは、かなりひどい日本論で議論する気が起きないので、すいませんちょっと無視させてください。)
 
つまり、動物化とは、動物的な欲求充足が優位になるという話。
 
 
 
5.人間性動物化の問題をめぐる議論
ポストモダン=高度消費社会では「人間性が削がれ動物化していく」という議論は、いやおうなしに倫理的な議論を誘発します。道徳性が低くく、知的水準の低い社会になってしまってよいのか?消費社会が引き起こすモラルの低下=動物化に抵抗すべきだ!という論調に、いやおうなしに、なってくるわけです。
  
世紀末から00年代初頭は、ポストモダン社会が動物的欲求の満足で満たされていくことについて、「これでいいのか!言いわけないだろ!」的な、けっこう力の入った+悲壮的な議論がなされていました。
一方で、人間ってしょせんそんなもんだよね、現実は現実としてちゃんと見た方がいいよねという態度。他方で、人間らしい欲望を失って、動物的に生きるのはどうなんだろうか、いいのか?許せるのか?そんな生を生きることに意義があるのか?ないだろ!という態度。この二つがせめぎ合った時代だった。
 
スノッブとは、「無意味と分かっていてあえて戯れる」という態度のこと。第一世代オタクは、ばからしいことに「あえて」コミットし、「あえて」萌えるという一種のメタ視線を持ちながらエロ絵で動物的欲求充足してたのに、第二世代以降は、その「あえて」というメタ視線を失ってベタになってしまっているという批判が繰り返し、オタク界ではなされてきました。
 
これを発展させると、宮台さんのスノビズムになって、「生は無意味だが、無意味であるが故に生きるという逆説」を生きないといけないんだ、という悲壮感ただよう主張になります。「終わりなき日常を生きろ!生きなきゃいけない理由はないけど、いやないからこそ」(←当時も今も、やっぱり私はうまく理解できない、これ)。
 
・宮台さんがスノビズム的生の美学の主導者で、東さんも論壇も批評界もその態度を保持した。この継承が論証できる文献として『批評の精神分析 東浩紀コレクションD』(2007、講談社)第1章「データベース的動物の時代」(p.7-30)。
・ちなみに、東の議論は、小さな物語から大きな物語への移行期にはスノビズムが必要だったが、移行期が過ぎた後(ポストモダン)は、スノビズムなしに(「あえて」というメタ視点なしに)、動物的に生きるだろうというもの。
 
こういう流れで、〈メタ/ベタ〉コードに基づく議論が、一世を風靡します。
当時はほんとメタの視点を持つことではじめて発言することが許されるというような風潮でした。東大の社会学系の大学院内でも、そうとうこのメタ論やりましたよね。
 
 
6.第一世代オタク的自負心から始まるメタ/ベタ議論についての私の立場・主張
ちょっと整理しましょう。第一世代のエリートおたくが言っているのは、70年代生まれ第二世代オタクや、エリートでない大衆的なオタクはベタに動物的欲求充足行動をしているから、良くないというはなしです。良くないのは、①「人間性」の喪失であるという意味で道徳的・倫理的に、というのもあるかもしれませんが、②美学的によくない(美しくない、カッコ良くない)という意味もけっこう含んでいる。それ自体は別に問題じゃない。死ぬ直前のフーコーの議論も、生の美学と倫理ってかなり近いところになると考えていたし(あとで出典情報追加します)、武士道とか騎士道とか見れば明らかに倫理と美学を切り分けるのが難しい地点というのはいっぱいある。
 
道徳的・美学的な生の問題として、ベタではなくメタな視点を併せ持った動物的消費が重要だよ、というのが彼らの主張。うん、それはわかった。
 
ただ、あえて僕は萌えているんだというメタ視点を貼りつかせながらエロ絵で抜くのと、ベタにこの2次元の女の子かわいいと思ってエロ絵で抜くのとが、具体的にどう違ってくるのかが、80年代生まれ女の私は、分からない。
それによって社会がどう変わってくるのかも、よく分からない。
 
ちょっと論理飛躍させちゃう感あるけど、結局、メタ/ベタの議論がどういう認識利得とか知的生産性とかをもたらしたのかが、よくわからない。現在、どう引き継いでいけるのかも、よくわからない。
 
・ぶっちゃけていってしまえば、このメタ/ベタ論って「エリート男子(教養ある男子)の美学」だったんじゃないのかな?と、私は理解しています。
・エリート男子の美学というスタンスでの思想が受けた(売れた)ということ自体が、当時を象徴するものであり、社会を論じる上では面白い話ではある。今は、それは売れなさそう。
 
 
7.メタ/ベタ論が一世を風靡した理由
以上のように、メタベタ論を今後どう引き継いでいけるのか、そこからどんな認識利得が得られるのかについては、いまだ分からない点が多いのですが(テーマや場合によって、ときどきすごく有効な時はあります。たとえば、私が昨日書いた記事「00年代東浩紀再考(1)」における「物語を読むという行為そのものが救済につながった」のが近代だという議論は、「物語を読むという行為そのもの」の意味を問題にしている時点でメタの視線をとっています)、
 
彼らがメタに立ち続けた理由、メタに立たないと不安でしょうがなかった理由みたいなものは分かるような気がしています。高度消費社会を迎えた日本の空虚さに対する過剰な意識が、メタ視点へと駆り立てている。
 
たとえば、記述の宮台さんとの対談で東さんはこんな発言をしている。
「私たちの社会には記憶がない。理想もないし伝統もないし目標もない。そのとき、架空の伝統や架空の目標にしがみつくのか、それとももうそんなもの全部忘れてしまうのか。現在の日本では後者しかないわけですよ。だとしたら、大きな伝統や理想などなくても「まったり」と生きられるような記号的差異の戯れを、消費社会の方で適当に供給してあげるほかない。」(東 2007:21)
 
この発言は、あきらかに極端。日本社会には伝統や記憶や理想が「ない」は言い過ぎ(端的に、宮台流の(元々は三島由紀夫的な)悲壮感あふれる態度に感化されたためとも見えるが、動物化の問題性の議論の流れで、こういうことを言ってしまっているのは事実)。日本社会は「空虚」で深みや厚みがない。だから、私たちはこの現実、この社会にどっぷりとつかってそこに安住して、生きることができないと感じていた。だから、つねにベタではなくメタという視点に立とうとする。自分たちがやっていることや自分たちの生は何を意味するのか、どういうことなのかを確定させるためのメタ視点をとろうとした。→メタ/ベタをコードとして「リアリティ」が繰り返し問題にされていく(「虚構/現実」大澤真幸)。
 
 
そう考えると、
メタ/ベタ論って、先ほど言ったように「エリート男子の美学だった」とも言えるのですが、
もっとすごくわかりやすく言うと、「敗戦のトラウマ、思想の断絶、貧しさみたいなものを忘れちゃいけない、しかし消費社会のぬるま湯が気持ちいいのもたしか~」の二極を行ったり来たりして強迫観念みたいになっていた中で生まれた議論だったとも言えるような気がしてきました。
こう考えてくれば、私としてもわかる・理解できるし、やっぱり彼らは重要なことを考えていたなぁと思います。
 
ちなみに、メタ/ベタ重視の態度は、70年代生まれ言論人(例えば、北田暁大東浩紀)の言論を規定している。けど、80年代生まれ言論人(荻上チキ(1981-)さんとか、山川賢一さんとか(1977生まれだけど)、飯田一史(1982-)さんとか)は、メタ/ベタ論から一定の距離を取っている。「メタ/ベタの区別が有効なときもあるということは理解するけど、それが至上命題ではない」と考えているように私には見えます。
 
最後に、文芸評論(サブカル、オタク評論)におけるメタベタ論と同時期に社会学で流行していたのは、社会的構築主義でした。
社会的構築主義:あらゆるものに対してそれって社会的構築だよねと言い、その社会的・歴史的構築性を明らかにするもの。
メタベタ論と社会的構築主義は、どちらもメタ視点に立とうとする点で共通する(現在を離れて歴史的経緯へと遡ることは、現在に対してメタ的立場として機能する)。
 
一通り、社会的構築を指摘し終えたいま、社会学は、「で、構築だって指摘することで何ができるの?」という問いに直面しています。「メタに立ってそれで何なの?」
 
この状況で、私たちはどんな仕事をしていくべきなのでしょうね。
 
 →私の最終的な主張は、「物語に接するときに、私たちは救済されたいと思っているよね?そのあたりの問題を考えようよ」というものなのですが、今回は、その論拠を示すところに至らなかったばかりか、かすりもしなかったので、続きます。