1.はじめに
私は高校生から学部生時代に小林秀雄、柄谷行人、吉本隆明、江藤淳をけっこうがっつり読んできました。大学院生になった頃、そろそろ時代順でいくと大塚英志、東浩紀あたりかなーとなったのですが、なぜか当時は大塚さんや東さんが読めなかった。
理由は、たんてきにいえば彼らの議論と自分(2000年代20代女子ととりあえずアイデンティファイ;このブログ内の文章だし)とをつなげるフックが見つけられなかったから。
(逆に、なぜコギャルとか援助交際とかメンヘラといったキーワードで語られていた20世紀末の女子高校生が、小林秀雄や柄谷や吉本の議論を強く自分とつなげて考えられたのかの方が、大きな謎のような気もしますが、それは今回のテーマではないので割愛。)
しかし、最近、オタクサブカル日本論へのフックが私のなかで見つかったのです。『〈美少女〉の現代史』(ササキバラゴウ、2004)の影響が大きい。80年代に戦闘美少女絵とロリコン絵を開発した60年代生まれ第一オタク世代って、実はかなり深いところで――つまり実存的問題として――、フェミニズムを彼らなりに取り込んだらしいということに、この本を読んで気づいた。
そういえば、大塚英志『江藤淳と少女フェミニズム的戦後:サブカルチャー文学論序章』([1998-1999]2001)という本もあったな。これ、キッチュなタイトルだけど、タイトルですべてを語っている…(←色々議論すべきいい本です。)
彼らは、先行世代の「おっさん的」感性(セクハラとかを平気でする、サブカル作品内では女性にはお色気要素しか求めない)に対抗するために、少女マンガを読んで少女の内面を理解しようとし、少女文化を重視し、「少女」主体は高度消費社会を軽やかに生きる新しい主体のあり方だと称揚した。これは、彼らなりのフェミニズム消化の結果だったと思う。
だから、60年代生まれ第一オタク世代と、それに続く、70年代生まれの第二世代、80年代生まれの第三世代(これ、東さんの区分)…がどのような女性像と男性像を作ったのかということをきちんと見ていくのって、重要だなーと思い始めた次第です。
もちろん、現実に生きていると、60年代生まれ男性の女性像に「はへ?」って思うときはたくさんあるわけですが、しかし、フェミニズムの何をどう理解し、どういう経路で、そういう女性像/男性像(自己像)になったのかを理解しておくことは、議論を組み立てる上でも重要だな、と。
というかんじで、フックが見つかったので、おとといから東浩紀さんをまとめてがーっと読んでいます。
以下、私的メモのなかからいくつかだけ共有しておきたいと思います。
2.「大きな物語からデータベース消費へ」の問題点
その原本を読み直してみると、今になってはじめて気づくこともある。良い仕事を読み直し、その問題点について考え、そして今後、自分がどういう仕事をしていこうかと考えることほど、楽しい作業はないですよね。というわけで、以下それをやります。
『動物化するポストモダン』(2001)や『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)によく出てくる、この図がmisleadです。
問題点1
この図だと、「大きな物語」が「データベース」にとって代わられただけのように見える。
→しかし、実際には深層と、表層の「小さな物語」、「私」の3つの項の関係の仕方が変わったはず。
問題点2
私たちは近代(ツリー・モデル)においても、ポストモダン(データベース・モデル)においても、「小さな物語」を通してしか深層に到達できない。概念上、深層/表層はそうとしか定義できない。であるにもかかわらず、表層の外を通って、私と深層が直接関係できるかのような太い矢印が出ている。
→私が表層を通して深層とどう関係しているのかを図式化すべき。
3.魂の救済としての物語消費行動
図の修正作業とかは省略。大学の授業でもし使うことがあったらその時作ります。
以下、私はこう考えるという議論。
近代(ツリー・モデル)において、深層にある「大きな物語」とは、例えば国民国家という一体感・連帯を醸成するような物語、政治的イデオロギー、科学的真理、神の理など。私は科学者なので、私にとっての「大きな物語」は「真理」だと言うとかなりしっくりきて、我がこととして考えられます。
私たちは、それらの「大きな物語」を読み解くために、表層の「小さな物語」を書き、読む。
真理への到達は、私たちにとって、魂の救済に近い機能を果たす。情熱をもって政治活動をしている人や学問に打ち込んでいる人は、たぶん、真理への到達が魂の救済だという話に同意してくれるでしょう。で、そういうパッションを信じていない人でも、「ある最終目的地点というのがあって、それに近づくための地道な一歩を踏んでいるときの充実感とか満足感ってありますよね」といえば、「それならわかる」と言ってくれると私は信じています。「魂の救済」といったら大げさかもしれないけど、「意義ある行為」、「人間的成長」くらいには思ってくれますよね。
近代(ツリー・モデル)においては、小さな物語を読むことは、その深層にある大きな物語の解明(真理の解明)につながるので、小さな物語を読むという作業そのものを通して、私たちは救済される。
それに対して、ポストモダン(データベース・モデル)においては、「私」は深層にあるデータベースを使って、表層の小さな物語を読み、キャラクターの組み合わせ順列的なカップリングを楽しみ享受する。表象で戯れることしかできなくなる。物語を読みながら、読むという作業を通して魂が救済されるということにはならない。「萌え」ることで性欲を満足させることはできるんだけど、根本的なところで救われる感がない。だから「戯れ」とか「遊び」とかいうような言葉で表現されることになる。
データベース消費になると、個人は物語を読むということを通して時間つぶしはできるが、「実存的に救済される」ということがなくなる。これがデータベース消費の衝撃だったのでは。少なくとも、私にとってはこれがデータベース消費の衝撃。
・2000年初頭当時は、表層で戯れるのがシュミラークルで、リゾームでかっこいいんだよ、という風潮だったので、こういう重たい話(物語によって実存的に救済されるということができなくなっちゃって、悲しいよねという話)はカッコ悪いので忌避されました。2010年代も後半の現在だからこそ言える議論だし、いま真面目にもういっかい「大きな物語からデータベース消費へ」というような話を考えるのであれば、考えるべきはこのあたりの問題――私たちは物語に接するときに救済されたいという欲望を持っているよね?――ではないかと、思っています。
80年代のオカルトブームが90年代のオウム事件に結実した結果、00年代は、「実存の問題」ぐらいは言えても、「魂の救済」とかは言いにくいという風潮があったような気もしていて、私たちは救われたいと思っているよね、というあたりの議論が手薄になっていたような気がします。これを社会学として展開するのは、非常に困難で、へんにアクロバティックな議論にしかならないので、文芸批評とかサブカル批評がここらへんの問題(魂の救済としての物語消費?)をきちんと考えるといいんじゃないかなー。
一足で、理論編の結論まで言ってしまいました。
以下、なぜ「救済」を問題にすべきなのかについて丁寧に話を展開したいと思います。
4.『動物化するポストモダン』の検討へ
「大きな物語からデータベース消費へ」と変化すると、時間を費やして物語を視聴するという行為そのものを通して救済されないという問題が生じるんだよね、それでいいんだろうか、ちょっと悲しい気持ちがしないだろうか、というのが、ここまでの議論でした。
これに関連する東さんの議論として、