ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

男性オタクコンテンツにおける距離のパトス:性的比喩で描かれる人類補完計画の考察から

人類補完計画とは何だったのかを考えていたら、男性オタク向けコンテンツにおける「純愛と性欲の間の距離のパトス構造」とでも呼ぶべきものがあるのではないかということに思い至りましたが、とりあえず、ずーっと人類補完計画の話で、距離のパトスについては一番最後にまとめています。

(なんか、こういう無粋な前置きはあれですが、無駄な労力をおかけすると悪いので最初に言っておくと、以下の文章は、フェミニストが男性オタクコンテンツを「距離のパトス」なる語で批判しようとしているわけではありません。だから、以下を読んでも、私がオタ文化の何を「批判」したのかは、明らかになりません。なぜなら、「批判」するための文章ではないからです。人類補完計画って露骨に性的な比喩で描かれていてこの「誘惑的な悪」の表象って面白いよねっていう話を書いてます。)

 

全体主義的な悪としての人類補完計画
人類補完計画とは、『新世紀エヴァンゲリオン』のセカイの謎の中心であり、人間の心の不完全性を補い合うために、人間の個をリセットし人類全体が融合して一つの生命体へと進化することを目指す計画である。

エヴァンゲリオンのセカイにおいて、何が悪で何が善かは、わりとはっきりしている。人類補完計画を目指すオトナたちは「悪」で、それとは異なる道を模索する人たちが「善」の側だ。人類補完計画を目指すオトナたちは「悪」だということは、例えば、次のような点から明らかである。

・ゲンドウは自分の内面をさらけ出すことなくニヒルな歪んだ笑いを時折見せ、目的のためには手段を選ばない危ない人物として造形されている。

・また、暗闇の中からぼうっと浮かび上がるゼーレのホログラムやモノリスの描き方は、従来のアニメでの「悪」の様式が踏まえられているし、ゼーレの会議での権威主義的な話し方や、互いに責任を押し付けあって自らの保身を図ろうとする浅ましいありさま(オトナになってみてわかったんだけど、こういう喋り方はどこでも見られる一般的なものではある)は、「仲間との友情」を大事にする子ども目線では嫌な奴ら(=悪)と見える。

そもそも、個々人の自由を奪って、個人を全体に統合するというアイディアは、全体主義的・ファシズム的なメンタリティを想起させるものであり、実際、エヴァではゼーレのトップであるキール・ロレンツの元の設定上の名前はコンラート・ローレンツ(あのナチスにも協力した動物行動学者)で、云々…(例えば、山川さんの『エ/ヱヴァ考』とかを参照せよ)というように、全体主義的なものとの関連性が示唆されている。民主主義、自由主義を是とする現代ではどうしたって、全体主義的な人類補完計画は、悪の役回りを演じさせられることになる。

だが、人類補完計画は、誘惑的なである。それは個を捨てんとする「弱い」存在が願うような「悪」でありながらも、脱自(エクスタシー)の快楽を伴う誘惑的なものとしてある。さらに、人類の「融合」というあり方は、露骨に性的「融合」と重ね合わせて表象されてもいる。ミサト、アスカ、レイの3人の女性キャラクターが裸で「心も体も解き放って一つになろう」と性的に誘惑をするというシーンがあり(テレビ版第20話)、旧劇場版(第26話)人類補完計画が発動したときに、再度、その性的誘惑が繰り返される。

身体的・精神的な人間の個の区別をなくして一つに融合するというモチーフは、繰り返し書かれてきたが(*)、露骨に性的「融合」と重ね合わせて描いたところにエヴァの「人類補完計画」の特徴がある。

(*)例えば、伊藤計劃の『ハーモニー』!

 

性的比喩で表される人類補完計画
シンジがエヴァ初号機に取り込まれ、そのなかでモノローグを行うのは大きく3回ある。第16話、第20話、そして旧劇場版(第26話)の人類補完計画が発動しているさなかだ。最初の2回は、延々とシンジが一人語りをした後、母に包み込まれるという救済の感覚とともに、自問自答のモノローグから脱する。

ノローグの中で性のモチーフが登場するのは2回目(第20話)からで、「わたしと一つになりたいと思わない?それはとっても気持ちいいことなのよ」というセリフを、裸のミサト、アスカ、レイが、畳みかける。(詳しく言うと、「ねえシンジくん、私と一つになりたい?心も体も一つになりたい?それは、とてもとても気持ちいいことなのよ」(ミサト)、「ほらぁバカシンジ。私と一つになりたくない?心も体も一つになりたくない?それはとてもとても気持ちのいいことなんだからさ」(アスカ)、「碇くん、私と一つになりたい?それは、とてもとても気持ちいいことなのよ。碇くん」(レイ))

3回目の人類補完計画が発動しているさなかにも、「心も身体も一つに重ねたいんでしょ」(ミサト)というシンジに対する性的誘惑がある。

さらに、アンチATフィールドが解放されて、補完が始まった時、それぞれの人物の前に、当人が性的・恋愛的好意を持っていた人物が虚構的に現れ、その人物に対して「心の壁」を解き放つことで、彼ら彼女らは人間の形を失っている。ここから、心の壁を解き放って個のあり方を喪失する人間の融合とは、性的「融合」とほぼ同じ恍惚状態をもたらすものとして描かれていることが分かる。

エヴァにおいては性的「融合」と人類の融合が、「心の壁を取り払うこと」を介して、同じものとして重ね合わされている。心の壁が取り払われるので、「互いに傷つけあう」ことがなく、「人から見捨てられる不安」もないセカイが実現する……。恍惚状態における自我境界の喪失、セカイとの一体感、そして争いのない魂の安らぎの境地が、「性的比喩で描かれる人類補完計画」である。

 ・ちなみに、実際には性的関係を結ぶことは必ずしも「心の壁を取り払う」ことではないし、それによって「互いに傷つけあう」ことがなくなったり、「見捨てられる不安」が解消したりすることではないよね。性的関係もまた一つのコミュニケーション方法であり、性的関係を結んだがゆえの意味の発生(例えば、いわゆる「めんどくささ」と言われるものとか)もあるわけで。一応、フェミニズム的に、そこをちゃんと指摘しておくことは重要そうだなと思って。

 

性そのものは両義的な意味を持つものとして描かれている

エヴァ内で性(セクシュアルなもの)そのものがどう表象され、意味づけられていたかを見ていくと、セックスに対する憧れと嫌悪の入り混じる14歳的感情が描かれている。……というか、嫌悪の方が強めか。

性の否定的表現として、一つ目に、自分に都合のいい「融合」という「夢」を見続けることは、現実から「逃げる」ことだという表現が見受けられる。先に挙げた旧劇場版(第26話)での「私と一つになりたいんでしょ」は、「逃げる」という言葉とひとつながりのものとして発せられている。

「そんなに辛かったら、もうやめてもいいのよ。」(ミサト)
「そんなに嫌だったら、もう逃げ出してもいいのよ。」(レイ)
「楽になりたいんでしょ。安らぎを得たいんでしょ。私と一つになりたいんでしょ。心も身体も一つに重ねたいんでしょ。」(ミサト) 

(旧劇場版第26話)

文脈上、性的「融合」を求めることが、エヴァに乗ることを「やめ」、現実から「逃げる」ことと同義のものとなっている。

考えてみれば、「逃げちゃだめだ」はシンジが当初から一貫して持ち続けている彼の倫理であり、最後も、「逃げる」ことを自ら回避するという形で、モノローグから脱し、人類補完計画の発動を途中で食い止めることになる(「あそこでは、イヤな事しかなかった気がする。だから、きっと逃げ出してもよかったんだ。でも、逃げたところにもいいことはなかった。だって……ボクがいないもの。誰もいないのと、同じだもの。」旧劇場版のシンジのセリフ)。

性に関する否定的表現として、二つ目に、ミサトやリツコといったオトナの女性を通して描かれる性は、「きたない」「よごれた」ものとして述べられている。リツコが、ダミーシステムに異議を唱えるマヤに言う意味深なセリフ「潔癖症は人の間で生きていくのがつらいわよ。自分がよごれたとかんじたときに分かるわ」は、ゲンドウとの肉体関係にあり、ゲンドウの愛がリツコよりもレイの方にあったということを突き付けられた時に壊れていくリツコを知っている我々としては、ゲンドウとの肉体関係のことを汚れたと言っているように読み取れてしまう。

より直接的に述べられているのは、テレビ版第25話で、何か思いつめたような、行きづまったような顔をしたミサトが加持に性行為を持ちかけるとき「私を汚して」と言う(すごい、古い……)。それに対して加持が自分を大事にしろ的なセリフを返すことから、ミサトにとってのその状況・文脈での性行為の要求は「自傷」的(もしくは自暴自棄的)なものであるという意味が付与されている。

本妻ではない状態での性(リツコ)や、自暴自棄な性(ミサト)という性のあり方が、作品中に書き込まれ、それをシンジやアスカが批判的に距離を持ってまなざす(実際に「まなざした」のはミサト&加持の行為だけだが)のが、テレビ版第25話だった。

以上の2点から、肉体を伴った性的なもの(セクシュアリティ)が、「きたない」、「良くない」ものとして描かれていることが確認できる。

 

どうするのが正義なのか

このような物語構造のなかで、主人公シンジに期待されているのは、魅惑的な「性的融合=人類の融合」に抵抗し、人類補完計画を不発に終わらせ、それによって「善」の方に踏みとどまることだ。この選択肢は、人類補完計画を発動させたい父の目的を阻止し、象徴的な意味での「父殺し」(父の乗り越え)をも意味する。

つまり、性的誘惑から距離を取り、それに溺れないこと、安易な人との「融合」に「逃げない」ことが、シンジの倫理であり、これを貫いたことで彼はヒーローになったのだ。新劇場版でもあんまり「ヒーロー」って感じではないが、少なくとも主人公の座に踏みとどまれているのは、正義の遂行(正しい選択)ができたからだろう(新劇場版を見ると、中途半端なサードインパクトの発生と中止こそが世界をより悪い状況に導いたらしく、全体的にさらにきつい状況に追い込まれているが)。

というわけで、以上、人類補完計画を露骨に性的比喩で描いたエヴァンゲリオンは、性的なものを一見すると肯定的に描いているようにも見えるのですが(というか、私はなんとなくそう思っていたのですが)、冷静に見直してみたら、肉体を伴う性はきたないもの、汚れたもの、という意味づけがかなり強烈になされており、それを回避することが善だという物語だったのだということが分かりました。

で、エヴァをオタク向けコンテンツの一つだと捉えた場合、→それにしても、男性オタクコンテンツにおける「性的なもの」の位置づけって、面白いですよね。男性オタコンテンツって性的欲望を駆動因としているのに、性をきたないものとして位置づけ、それを罪悪視するという強烈な「倫理観」も伴っている。正確には、純愛や処女を「聖なる」ものとして価値化し、性欲を「冒瀆的なもの」として位置づけ、聖なるものを冒涜するところに発生する背徳感が性欲を駆動するという構造がある…のだと思う。つまり、純愛と性的冒涜の距離のパトスという構造。(距離のパトスというのはニーチェの概念、すいません、ググって。説明するの力尽きた)

したがって、オタク文化って、単純な性欲だだ漏れ文化とは言えない。もちろん本人たちがそう開き直ることもあるし、そのラディカルさがある種の文化的価値を生み出してきたところもあるけど(例えば村上隆的な)、実際には性欲に対する罪悪感という倫理を組み込んで成り立っている性欲だだ漏れ文化(笑、結局そうなのね)。「男性オタ文化は性欲だだ漏れだからけしからん」的な単純な批判がつまづくのはこのあたり。

性を罪悪視することそのものを批判してきたのがフェミニズム。私もその立場。ただ、「性の罪悪視」って、どうやったら解除できるのかは、けっこう難しい問題だと思う。旧劇場版(第25話)は、冒頭でアスカでマスターベーションするシンジのシーンがあり、後半に「アスカに悪いことしたんだ」っていうシンジのセリフがある。ある人を性的ファンタジーの対象にすることを「悪い」と思うときの、その「悪さ」をもう少し分解して整理して考えていく必要があるんだろうなぁということを思ったりした。

補足。あと、女性オタ向け作品においては、純愛信仰や、性の罪悪感はあまり強くないような感じがして、この非対称性もちょっと面白い。性と愛のあり方が男性オタと女性オタではちょっと違うっぽい。

 

ytakahashi0505.hatenablog.com

 

承認欲求とは何か2:なぜ人はアイドルになりたがるのか

ytakahashi0505.hatenablog.com

( 一応続きだけど、内容的には上記を読んでなくても分かるようになってます。つまり、あんまりつながってない。)

1.

現代の承認欲求について主題的に扱っている本として、

山竹伸二, 2011, 『「認められたい」の正体:承認不安の時代』講談社現代新書

 

土井隆義, 2008, 『友だち地獄:「空気を読む」世代のサバイバル』ちくま新書

などがあります。

この2冊や他の承認欲求関連の色々な議論とかも読んで考えてみると、「そもそも何を承認してほしいのか?」(=「どんな価値を他人や社会に認めてほしいと思っているのか」)の観点から、承認欲求は次の3つに分類できそう。

(1)生得的価値:自分の存在そのものの価値、あるがままの自分の価値
(2)獲得的価値:自分の能力や努力、業績といった価値
(3)人間的価値:一般的な人間としての価値

これらはそれぞれ、どのような社会的関係によってその承認欲求が満たされるかも異なっています。

(1)自分の生得的価値を承認してほしい

自分の存在そのものの価値(=「生得的価値」)を承認してほしいという欲求は、愛されることで満たされることが多い。通常、愛してくれるのは、家族や恋人、ちょっと強めの友情関係にある友人などで、社会学用語ではこのような人のことを「親密な他者」と言います。

「ありのままの自分」を認めてほしいという気持ちや、「本来の自分」の価値を承認してほしいという気持ちを、近代人は一般的にある程度持っているわけですが、それが満たされるのは、多くの場合、親密な他者との親密な関係性によってです。

・山竹氏は、赤ちゃんが受けている「無条件の承認」を欲すること、と表現しています。たしかに愛の関係は、その人が何かができるから愛するとかではない、無条件性を含み持っています。

(2)自分の獲得的価値を承認してほしい

それとは別に、自分の頑張りや努力、自分の能力、業績といった価値(=「獲得的価値」)を承認してほしいという欲求もあります。「できる私」を認めてほしいというものですね。

このような承認欲求は、先に述べた「親密な他者」だけでなく、もう少し広い人間関係――仕事、学校、趣味等の仲間との関係——によって満たされることが多い。また、自分の労力に見合った報酬(金銭的報酬や社会的賞賛など)が得られたときにも承認されたと感じられることになります。

*1990年代後半代以降(バブル崩壊以降)、日本経済の後退により経済的報酬としての承認が得られにくくなっている。バブル期にガンガン稼げた上の世代との落差(相対的剥奪感)もあるので、その結果「日本社会における承認欲求が全体として高まっている」みたいなことは、この論理に則ればありうることではありそう。

+さらに言えば、経済的報酬が得られにくくなったことと、SNSの広がりを背景に、経済的報酬による承認の欠如を、他者からの注目や評価といった社会的承認で満たしているみたいな話は、感覚としては理解できる(きれいに実証するのは相当むずかしい)。 

(3)自分の一般的な人間としての価値を承認してほしい

もう一つ、「一人前の人間」であることを認めてほしい、きちんと人間扱いしてほしい、社会的に尊重されてしかるべきモラルや規範を持っているきちんとした人間であることを認めてほしいという承認欲求もあります。これは、2の「できるやつだと認めてほしい」というのとは位相が異なります(2が一般的社会的承認欲求、3が一般的社会的承認の欠如を避ける欲求)。

これは、「世間」と言われるような広い一般的な社会的関係における承認を要求するものです。あらゆる場面、あらゆる例があるのですが、例えば公共交通機関のなかで、隣の人のプライベートスペースをおかさないように配慮することが、相手を「人間扱い」することを意味するので(「儀礼的無関心」とかもそう)、それをしないと相手を人間扱いしていないことを意味し、相手が気分を害することがある(もしくは周囲からマナー違反だと思われることがある)など。

*属性によって社会的な差別を受けないということは、この承認に関わってくる話です(社会的包摂)。

 

2.

さて、このように整理したうえで、私が最近興味深いなぁと思っているのは、アイドルというあり方。アイドルというのは、「あるがままの私が愛される」という1の生得的価値の承認充足形式を通して、2の獲得的価値の承認欲求の充足をも行うものになっている。詳しく言うと、「愛される」は一般的に生得的価値の承認欲求の充足方法(つまり1)なんだけど、「多くの人から愛される」ことはその人の実力や能力を意味するもの(つまり2)になっているがゆえに、多くの人に「愛される」ことが、その人の獲得的価値の証明になっているということ。

こういうアイドルのあり方って、承認欲求における「個人的な関係/社会的な関係」の二つの領域の境界線を揺るがすのでなんか面白いな、と。

これまで、私たちは、個人的な(プライベートな)関係で、1の生得的価値の承認欲求を満たし、社会的な関係で2の獲得的価値の承認欲求を満たしてきました。

そもそもなぜプライベートな関係と社会的な関係が分けられてきたのかというと、うーん、なぜでしょうかね。端的に言って、会社の人とか学校のクラスの人全員から「あるがままの私がそのままで愛される」というようなことは無理だから、というのがまぁ分かりやすい答えになるのかなと思います。つまり、一般的な社会的関係において、全員と「愛する」という人間関係を結ぶのは難しい*1

そういったわけで、私たちは個人的な(プライベートな)関係——特別な他者と結ぶ関係——と、社会一般的な人との関係を、区別して生きています。分けたうえで、プライベートな関係では、「頑張らなくても、何ができなくても、あなたという存在そのものに価値があるよ」という承認を、お互いに与えあうことを、私たちは理想としている。実際にはそういう無償の愛みたいなのは、簡単には成り立たないわけですが(でも、瞬間的には成り立ったりしますかね。そういう気持ちをお互いに持つ瞬間というのはあるかも。)

それに対して、アイドルというのは、個人的な(プライベートな)関係としてしか成り立たないはずの愛の関係を多くの人と結ぶ仕事なのですよね。愛の共同体のハブになるというか。

そして、多くの人からの愛を集めることができることが、その人の実力や能力とみなされ、その人の獲得的価値の証明になる。実際には、自己プロデュースの努力によって「愛されている」ので、もはや個人的な(プライベートな)関係で結ばれる無条件の無償の愛みたいなことではないのですが、しかし、やはりアイドルとファンの間にあるのは愛の関係であることはたぶん間違いがない。アイドルが頑張らなくても、頑張れなくなっても、業績がでなくても(総選挙で勝てなくても)、ファンは愛することをやめないはず。そういう不安定性を吸収しながら継続されるような、人格をめがけた関係性のことを、人は一般に愛というのではないか。

(*とはいえ、ファンに対するひどい態度を取ったりすると、ファンがいなくなったりするということもあるから、まぁやっぱり無償の愛ではないのだが、そのあたりは現実の愛の関係でもそうだったりして、「現実のプライベートな関係における愛—アイドルの愛の関係」がどれほど「無償の愛」を実現しているのかは程度問題なかんじではあります。程度の差はあれ、そこに成り立っている関係が、愛という枠組みの中に入っているものであることは、たぶん間違いない。)

アイドルは、恋愛感情などの愛情を商品化している産業なので、こういう個人的な(プライベートな)ものとされてきた愛情関係を、社会的価値に変換するという制度が成り立っているわけで、この変換方法を体現する職業としてのアイドルって、面白いなーという話でした。

・あと、アイドルというのが、上記のように1と2の融合形態としてあるとするならば、愛されるために自己プロデュースを頑張るという「一つの行動」で「二つの異なる承認欲求が一度に満たされる」ことになるので、承認欲求の充足方法として効率がいい。その意味で、まだ何者にも成れていない若くて承認欲求を抱えている人たちがアイドルになりたがるのはわかる話だな、と思ったりした。

実際には、「一つの行動で二つの異なる承認欲求が一度に満たされる」ように(外部からは)見えているだけであって、実際に二つの異なる欲求が満たされているわけではない(もしくはどちらとも異なる何かが起こっている)ようなかんじが、私はしているのだけれど。そして、アイドルの生きづらさみたいなものがあるとすれば(それは、モテを追求する人の生きづらさにも通ずるものがあるのだと思うが)、そのあたりにあるのではないかと思っている。

*1:・例えば、クラス30人全員を「あるがままに愛する」みたいなことは、なかなか難しい。それぞれの「個性を大事」にし、各人の良いところに注目して接するようにしようということはできますが、「あるがままのその人のすべてを全的に受け入れる」みたいな関係を30人が全員でやるのは物理的に難しそう。具体的に何がなぜ難しいのかを説明するのは難しいが。情報処理が追い付かない、そこまで関心を持てない、30人平等に愛するのは難しくてたぶんどうしても不公平になる等々。

承認欲求とは何か(社会心理学講義で喋ったこと+α)

承認欲求について喋った回の内容を書いておきます。

1.

とりあえず、承認欲求はマズローらパーソナリティ心理学によって、こう整理されてきました。(下図は『心理学』有斐閣、2013、p.194より引用)

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下位の欲求が満たされることで、より上位の欲求が湧いてくる。で、この欲求充足を積み上げ、最終的に自己実現の欲求を達成することが人間の成長(完成)である、という考え方ですね。

この区別を踏まえた上でですが、現代では承認欲求と自己実現欲求の融合が起こっているというのが、私の仮説(見立て)。少し詳しく書いていきます。

まず、承認欲求(esteem needs)とは、マズローによれば、自分が価値あるものであると、他者から認められたいという欲求のこと。承認欲求は、社会の外(他者の評価の外)では生きることができない「社会的動物」としての人間が持たざるをえない基本的な欲求。

→承認欲求が満たされると、自信、有用性の感覚、強さ、自分への信頼、世の中で役に立ち必要とされているという感情などを持つことができる。
承認欲求が満たされないと、劣等感、弱さ、無力感の感情が生じ、長引けば、根底的失望(人生に希望が見いだせないという状態)や、神経症的傾向を引き起こすことになる。

 次に、承認欲求はマズローによれば「欠乏欲求」なので、一定程度満たされていれば、それ以上は湧かない欲求とされています (例えば食欲は、ある程度満たされたら収まる)。しかし、現在よく言われる承認欲求って「成長欲求」(どこまでも増大していくもの)になっていると思われる。つまり、ある程度承認欲求が満たされると「さらにもっと」という気持ちが湧いてくるようなものとして、現代の承認欲求はあるような気がする。

 

なぜこのような事態になっているのか?
第一に、承認が数値化・可視化されるメディア環境への変化が起こったから。インスタやツイッターでの「いいね」数、フォロワー数のように「承認」が数値化・可視化されたことで、「さらにもっと」という気持ちをかき立てやすくなっている。

第二に、物質的豊かさを達成した現代社会においては、金銭よりも、他人の注目や好意の方が希少財になっており、承認(同意、共感、憧憬、権威など)を得られることが、価値あることになっているから。

第三に、承認を得ることがおカネにもなるという経済的環境が、上記の状況を支える基盤として成立しているから。

・理念や目標などへの共感を集めることがビジネスになるという現状がある(社会的起業家を想起せよ)。
SNSでの注目の高さがビジネスになるという現状がある(インフルエンサーを想起せよ)

おもに、これら3点くらいの要因により、承認欲求を満たすことと自己実現欲求を満たすこととの距離は近づいている。現代社会では「承認欲求に基づく行動が自己実現になる」という回路が成立しているのではというのが、私が今のところ至っている地点。現代社会では、承認欲求をモチベーションにして動くことが社会的に意義のある行動(経済的に稼げるとか、社会的理念や理想の達成になるとか)になるという点でマズローの時代とは違ってきている。

というわけで、マズローの承認欲求モデルは再検討を迫られていると言えそう。

 

2.

そもそも、従来の心理学では承認欲求の強さは病理現象として扱われてきました。承認欲求が強すぎる場合には、以下のような病理が疑われる、のように。

愛着障害:親密な他者との愛着関係が適切に形成できず、「安全基地」が形成できなかったために引き起こされるパーソナリティ障害。これによる過度な承認欲求が観察されることがある。

・自己愛性パーソナリティ障害:ありのままの自分を愛することができず、自分は優れていて素晴らしく特別で偉大な存在でなければならないと思い込むパーソナリティ障害の一類型(←このソースwikiです…)
アスペルガー:言葉の発達や知的発達の問題のない発達障害で、「対人関係の障害」「コミュニケーションの障害」「パターン化した興味や活動」といった大きく3つに分けられる障害のいずれかやその複合的な症状を引き起こすもの。
・総合失調症:妄想や幻聴が生じることで、現実との接触がうまくできなくなってしまう精神病。周囲に感心をもたなくなったり、逆に現実または妄想で人に見捨てられることを強く恐れたり不安を抱いてしまうといった様々な症状が出る。気分の波が激しく感情が極めて不安定であるために感情を上手くコントロールすることができず、攻撃的な形で承認欲求を満たそうとしてしまうこともある。

などなど。

こういった心理学における「承認欲求」の取り扱い方を踏まえてかどうかは、ちょっとわかりませんが、日常生活レベルでも「承認欲求をモチベーションにして動いている」ということには悪い印象が付随していますよね。承認欲求が強い人は、他者の顔色を気にしすぎていて、自己が確立していない(自分というものがない)というような「悪いイメージ」がくっついているわけです。

 しかし、現在は、他方で、承認欲求をモチベーションに動くことは、ある程度一般的なことだとも思われているのではないでしょうか。「なぜ働くの?→食っていくために」という答えと同じように、「なぜ音楽やるの?→モテるために(社会的承認を得るために)」と言えばとりあえず納得してもらえる。それくらいには、「承認欲求を満たすために」という言葉は「通用」するようになっているという側面もある*1

つまり、物質的豊かさを達成した社会では、「金持ちになるために」「金銭的に成功するために」が「動く」動機にならなくなっていくのに応じて、その分だけ「承認欲求をみたすために(=自分のすごさを社会的に証明するために、自分が考えていることの大事さを他の人にも認めているために、自分が思い描いている社会的理想を実現するために)」ということが「動く」理由になっていく。

その意味で、承認欲求をマズロー的な下位の欲求という位置づけで捉えていると、後期近代(物質的豊かさを達成し、低成長時代に突入した先進諸国の近代のモードをこういいます)をうまくとらえることができない。個人が「動く」動機を整理する際には、経済動機と承認動機の二本立てで整理するというような抜本的な再整理が必要な気がしています。

 

3.

「経済動機と承認動機」の二本立ての枠組みからなる思想の一つに、フランクフルト学派第三世代アクセル・ホネットの承認論があります。ジェンダー論界隈ではナンシー・フレイザーと論争したことでよく知られておりますわね。

このホネット=フレイザー論争で論点になった「承認か再分配か」(ちなみに、とりあえず論点整理されるときには、orで表記されることが多いですが、どっちもというのが正解ですよね…←詳細説明省いています)は、私がいま提起している「経済動機と承認動機の二本立てで人間の行動動機の整理をしようぜ」という話に、枠組みとしては近い。

ただ、この議論は運動論として展開されたもので、個人のナルシスティックな承認欲求の議論にどこまで適用できるかは実は難しい。ホネットを読むと彼はこのあたり(個人のナルシスティックな承認欲求)のことをほとんど視野に入れていないように思われる(数年前に読んだときはそう思った、これから再読しまする)。

ホネットの承認論は、90年代英米アイデンティティポリティクスを説明したり論じたりするのにはすごくよく使えるのだが、90年代日本のマジョリティの「自己論」(「自分探し」、ポストモダンにおける自己の多元化など、構築主義的な自己論のかたちで社会学で発展してきたもの)の議論とは接続させにくいという特徴があります。

・例えば、90年代日本のマジョリティの自己論をもっともよくまとめている代表的論者といえば浅野智彦さんだと私は思っているのですが、彼は90年代日本社会論と「ナラティブセルフ」の文脈を接続させている(というかそれに基づいた自己論を確立している)が、ホネットの承認論は接続させていない(私が見落としているだけで、もしかしたらどこかで書いているかも。最近の浅野さんはソーシャルキャピタル論と友人論と自己論を接続させていることは確認しました)。

ホネットの承認論を90年代以降の日本の自己論や承認欲求論に「使う」場合、ここまで述べてきたように、人間観や個人観、個人の行動原理に関する基礎理論を、経済動機と承認動機の2つの動機を柱にして構想します、というような大ぶろしきを広げた話にすれば可能なのではないかと思い至った次第。(というか、そういう形で、こちらがかなり強く再構成をかけないと、ホネットと現代若者の承認欲求の議論を接続させるのは難しいと、私はいまのところ思っている。私が論文を書くなら、の話ね)

 

4.

あとは、おまけで、承認欲求に関して心理学者は色々細かく概念化して測定して研究を進めているよ、ということの紹介など。

・例えば、賞賛獲得欲求(他人からの高評価を得たいという欲求)と拒否回避欲求(嫌われたくない、変な人だと思われたくないといった否定的評価を回避しようとする欲求)を区別して議論している論文の例としてこちら 

「大学生の賞賛獲得欲求・拒否回避欲求と両親に対する社会的勢力認知との関連」(2012)https://www.jstage.jst.go.jp/article/pacjpa/76/0/76_1PMB19/_pdf

「防衛的悲観性と賞賛獲得欲求・拒否回避欲求の関連─ 2つの承認欲求がともに強い人の特徴について ─」(2011)https://ci.nii.ac.jp/naid/110009493134

 

承認欲求の賞賛獲得欲求自己愛の賞賛獲得欲求一この2つは何が違うのか?一」という論文もあります。https://www.jstage.jst.go.jp/article/amjspp/18/0/18_92/_pdf

 

私個人としては、称賛獲得欲求の高低の軸と拒否回避欲求の高低の軸で4象限図式をつくると、それに応じたSNS上での行動パターンが説明できそうで面白いなーと思っています。

つまり、

A【称賛獲得欲求高・拒否回避欲求低】 他者からの賞賛や注目を得たいという欲求が強く、他者からの批判や拒否を回避しようという発想があまりないので、人から評価を受けることに関して積極的に行動。→SNSでの発信を積極的にする

B【称賛獲得欲求高・拒否回避欲求高】他者からの賞賛獲得欲求が高く、他者からの否定的な反応(拒否)を回避したいという欲求も高い場合、SNSでどう行動するかは、ちょっと不明。人による?Aの人ほどは積極的には行動しないと予想される。

C【称賛獲得欲求低・拒否回避欲求高】人間関係の現状維持を重視。目立つことはしない、人間関係を良好に保つことを目指す。→自ら積極的にSNSを始めることはないが、周囲がやり始めると同調圧力が働いて、SNSをするようになると予想できる。自分で発信するよりもフォロー、ファボ的コミットが多め(?)と推論できるが、実際には調査してみないと分からない(←これ、たんなる仮説を練りあげている最中のものですのですべて「推論」です、実証されていませんのでご注意を笑)

 D【称賛獲得欲求低・拒否回避欲求低】他者の評価を気にしないので、おそらくSNSには関心を持たない。もしくは、SNSを情報収集手段としてのみ利用するなど。

 

ほかにも自己承認欲求と他者承認欲求も区別できそうな気がします。

自己承認欲求 自分で自分を認めたいと思う欲求のことで、自己啓発本を読んで意識を高めたり、高い技術を身につけるなど、自分自身を高めて満たす欲求のこと。

→欲求が満たされないとき、自分で自分を認められないという苦しさがある。これは、「自分はこの世界に存在していてもいい、自分には価値があるという自己愛」の欠如、愛着障害自尊感情の低下、自己効力感の低下などが関わるもの。

他者承認欲求 他人に認められたいと思う欲求のこと。組織の上に立ちたいなど社会的地位や名声を得たいといった欲求や、SNSで「いいね」をたくさんもらいたい、注目を浴びたいといった欲求のこと。

他者依存的になってしまうことで自分のアイデンティティが不安定するという苦しさがある。また、他者承認欲求の高い人の行動は、あたかも「他人を、自分を承認してくれる道具としか思っていない」ような態度となることがあり、その点で他者から嫌われやすいという問題がある。 

 みたいな整理ができそう。

 

以上、承認欲求関連で論文にならないレベルの思いついたことを書いてみましたー。 

 このあたり考えるの、おもしろいですよね。

【参考文献】

山田一成・北村英哉・結城雅樹編, 2007, 『よくわかる社会心理学ミネルヴァ書房

無藤隆・森敏昭・遠藤由美・玉瀬耕治, 2013, 『心理学』有斐閣

A.H. マズロー, 1987, 『人間性の心理学-モチベーションとパーソナリティ(改訂新版)』(=小口忠彦訳)、産業能率大学出版部.

土井隆義, 2008, 『友だち地獄:「空気を読む」世代のサバイバル』ちくま新書

山竹伸二, 2011, 『「認められたい」の正体:承認不安の時代』講談社現代新書

 Jonathan Haidt, 2012, The Righteous Mind: Why Good People Are Divided by Politics and Religion..(=2014, 『社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学』紀伊國屋書店.)

 

*1:私は、人が音楽をやる理由は、ある情熱に取りつかれてしまったからとか、何かの状態に陥ってしまったからというような人に伝えにくいある状況というものがかかわっていると思っています。

合意形成プラットフォームでのフェミ議論とかできたら面白いんだけどなぁ、技術者求む!

 合意形成プラットフォームvTaiwanのような仕組みで、現在のフェミニズム的議題をめぐる布置のようなものを描けたら面白いなと思った。
vTaiwanの仕組みの詳しい説明として、こちらがわかりやすい。
 
他のSNSと同じように自由に書き込めるが、誰かの意見主張に対するレスをコメントでつけることはできず、それに対する賛成か反対かの表明しかできない。それが数値化されて表記されるので、ある意見に賛成/反対している人の規模と傾向のようなものがわかる。そして、「ある意見」に近い意見や遠い意見などがマッピングされて可視化される。
また、ある一人の人がいくつかのテーマに関して、自分がどのような立場を取るかに答えていくことで、その人の現在の言説布置上での位置がわかり、どのような人がどのように分布しているのかも見えるようになる。
というわけで、現在のフェミ的論の議題とその広がり、論調を捉える上で、もし技術的にこういうことが疑似的にでも可能なら、すごーく有用!なのだが、すでに試みている例や萌芽的な例などありますか?あったら教えてほしいです。もしくはこういうことができる技術者さんを紹介してほしいです。
 
すでにvTaiwanのようなプラットフォームを日本で(日本語インターフェースで)提供している主体はないのか?を調べましたら、
Decidim(デシディム)」というツールを一般社団法人コード・フォー・ジャパン
 
があるが、こちらは、行政機関の問題解決・合意形成サービスの提供に特化している様子。「ある自治体の」となった場合には、利用者登録のさいにそこの住民であることを証明するなどの高度な登録が必要になっているはず。
私が想定しているような、現在SNS上でそもそもどういうテーマが上がってきていて、その議論に参加している人の規模はどれくらいなのかということをゆるっとマッピングするようなものにはならなそうだなぁと予想。情報工学系の人と協力してTwitter分析するとそういうことができそうと思って、色々調べているのだが、SNS分析に関しては他の研究者も苦戦しているらしくいまだ突破口が見えず。
 
ちなみに、『社会学評論』2020,Vol.71, No.1の特集が「インターネット時代の社会調査法」で勉強になります(まだ、J-stageで公開されていないけれど、あと半年もすれば公開されると思われます)。
*このエントリー、フェイスブックに書いた方がいいのかも。あとで、転載します。
 

ネオリベラリズムとは何か1:資本のグローバリズムによるネオリベラリズム政権の登場(全3回の予定)

ネオリベとか新自由主義という言葉は、近年グローバリズム批判と政権批判のさいによく聞くワードですが、バズワードと化しているところがあります(なぜバズワードになっているかというと、端的に言ってしまえば、広義の意味での左翼は、マルクス主義が凋落した後にネオリベラリズム批判をしてきたからです)。そこで、ちょっとまとめておきます。

 *日本語では「新自由主義」とも言われますが、これだとニューリベラリズム(19世紀の自由放任主義的な古典的自由主義)との区別がつかないので、ネオリベラリズムということにします。

ネオリベラリズムとは、1971年のニクソンショックに端を発する固定相場制から変動相場制への移行(ブレトンウッズ体制の崩壊)後のグローバル化のなかで、各国政府がとった経済的・政治的政策(統治体制)のことを指します。
グローバリズムは、カネ、モノ、ヒトの国際的移動と定義されることが多いですが、カネ(資本)が最も簡単に早く動くことができ、次にモノ(商品)、ヒト(労働力)は時間がかかるというように、グローバル化しやすさの順番があります。

カネのグローバルな移動の加速によって、ネオリベラリズム政権が成立した、という話を、以下していきます。

では、カネのグローバルな移動によって何が起こるのでしょう?

1、ケインズ主義からマネタリズム

各国政府は、景気対策として、それまでのケインズ主義的な経済政策(財政政策)から、金融政策へと軸足を移さざるをえなくなります(国が採用する経済理論はケインズ主義からサプライサイドのマネタリズムへ)。メカニズムは次の通り。

固定相場制において、
・景気安定化のために主にやるのは財政政策(税制や国債などによる歳入の政策と、社会保障公共投資などからなる歳出に関する政策のこと)。
・金融政策は、為替レートの安定のために行われる程度。

変動相場制において、
・公共事業を行う→関連企業の取引や投資の増加、資金需要の増加、金利上昇→外資流入による円高→輸出減→景気低下というマンデル=フレミング効果が働いてしまうので、財政政策は無効化される。
・そこで、景気安定化のためにも金融政策がなされることになる。

これまでの物価や通貨価値の安定のための金融政策に加え、景気対策のために、金融引き締めや金融緩和を行う(具体的には、公定歩合や預金準備率を変更したり、公開市場操作をしたり)。金融緩和による金利低下→資金運用が不利になることで円安→輸出増→景気拡大。

 *日本において「カネのグローバル化」が始まるのは、1984プラザ合意以降(双子の赤字→ドル安への操作 日本のアジアへの投資が強まるなど、世界の資本のグローバル化が始まる)。

2、資本に有利な法制度改正

大企業は、ある国の投資条件が悪ければ、その国から投資を引き上げるというキャピタルフライトができるようになるという形で、資本の権力が強くなる。国は、投資が引き上げられないよう、さまざまな規制緩和を行って、大企業に有利になるような政策を整えざるを得なくなる(枕詞は「国際競争力を保つために…(大企業に有利な制度に変えます)」)。

 具体的には、労働の規制緩和(「労働法」「商法」「会社法」の改正)。派遣法等を整備して、労働の流動性・柔軟性を高めるなど。日本では90年代からじわじわ始まり、00年代に本格的に起こる→格差の拡大が顕在化したのが00年代中盤以降(小泉政権時代)で、ロスジェネ論壇が成立。

 3、格差の拡大

産業構造の転換による労働組合の権力の低下(→これが、2010年代のポピュリズム政党支持勢力となっていく)

階級的連帯の低下
中流階級の縮小、貧困層の拡大と極小部分の「最上層」への「富」の集中

  ↓

90年代には「階級」と異なる、新たな「アイデンティティ」(セクシャルマイノリティエスニックマイノリティ、環境運動…等)の社会的承認を求めるアイデンティティポリティクスが興隆。萌芽は69年からの「新しい社会運動」にあったが、それが主流化するようになるのが90年代以降。

 

 4、福祉国家の再編成

オイルショック(73年~)によるスタグフレーション、景気停滞、先進国の高度経済成長期の終わり

・先進国における20世紀後半の長寿革命と高齢化の開始

・日本はこの時期に、福祉国家政策が成立(武川は、1973年に日本の福祉国家が始まるとしている)。日本はヨーロッパよりも「圧縮された」形で福祉国家の成立と福祉国家の再編成を経験している形になる。

 

再編成の具体的内容

①公から民へ:国営企業の民営化、公的サービスの民営化(例えば、NPOによる公共サービスの引き受け(これは、多種多様なニーズにこたえられるようになるという点で良い点もある)、NPM(new public management)の導入など。

②ウェルフェアからワークフェアへ (シュンペーター福祉国家

 →これらが国民・市民一人一人の自己責任の強化を引き起こす

 ③そのほか、「ガバンスの拡大と民主主義の空洞化」などが言われている…(続く)

 

ここまでを時代ごとにまとめてみると

 
 
日本
1950-60年代
福祉国家が成立 ケイジアン経済政策(システム統合)とべヴァリッジ型社会政策(社会統合)
 
1970年代
金融のグローバル化の開始
1971年 ニクソンショック (ドルと金の交換停止)
1973年 変動相場制に移行(ブレトンウッズ体制が崩壊)、各国政府の資本移動に対する統制が失われる
1975~ 福祉国家政策開始
1980年代
・保守イデオロギーを掲げるネオリベ政権の登場(+バックラッシュ
レーガン政権による
・大幅減税と金融緩和政策、マネタリズムによる景気刺激政策。
・軍事への公共投資(戦略防衛構想(SDI)の推進)
・経済活動に関する規制の撤廃と緩和による自由競争の促進。
こんな感じで、福祉国家の再編成開始
ジャパンアズナンバーワンの時代…
1990年代
・90年代中盤からリベラルイデオロギーを掲げるネオリベ政権の登場
・労組の解体による社会党勢力の弱まりと階級闘争で国内政治が動く時代が終わり、アイデンティティポリティクスの時代へ
・カネのグローバル化の影響が大きくなりはじめる
・労働の規制緩和が始まる
2000年代
多文化主義政策の全盛期(ネオリベ経済政策と相性が良い側面もあり)
・保守イデオロギーを伴ったネオリベの進行(ジェンダーバックラッシュも起こる)
 
( その2に続きます)